未練★(9/12)
3月末から4月の初め。
世間は新しい風を取り入れる為に、俄かに慌ただしさを増してくる。
薬指に真新しい指輪を嵌めている先輩は、今期から係長に昇進した。
いつの間にか中堅一歩手前まで来た俺は、今年初めて、OJTの担当となった。
新入社員たちは入社式後すぐに研修先へ向かっており、顔合わせは約一か月後。
それでも総務が持ってきたマニュアルらしきものの厚さに、今から少し怯んでいる。
一方の若い彼氏は、バイト先の生協の売店が大忙しらしい。
「土日も出ろって言われてさー・・・もう最悪だよ」
週末の約束をキャンセルせざるを得ないと告げる電話の中で、彼はそんな愚痴をこぼす。
「どんな仕事でも繁忙期があるんだし、今から慣れておいたら良いんじゃないか」
「そういうところは、妙に社会人だよね」
「社会人だし」
「まぁ、これだけ忙しかったら、きっと2週間過ぎるのもすぐかな」
時折見せる幼い言動に、弟のような感覚を抱く時もある。
ただ、彼との再会を待ち侘びているのが心だけではないことが、友人や家族とは異なるところだ。
「楽しみにしてるから。バイトも、勉強も、頑張れ」
「康平も、仕事頑張って」
桜は花を落とし、若緑の小さな葉を芽吹き始める。
待ち合わせは最寄駅で朝11時。
相手から電話が来たのは、その15分くらい前のことだった。
「ごめん・・・ちょっと、遅れそう」
彼の実家と俺の家は、地下鉄で一本の場所にある。
「何だよ、寝坊か?」
スピーカーからは街の賑わいと少し上がった息の音。
恐らく、駅までダッシュの途中なのだろう。
「いや・・・道に迷っちゃった」
「は?何処で迷うんだよ?」
「あ、あった。あれかー・・・。ごめん、もう大丈夫。時間までに着くよう急ぐから。じゃ」
俺の質問に独り言を返した彼は、そのまま電話を切る。
電車でも30分以上かかる距離、まさか、と思っていた。
最寄駅に着いたのは5分前。
北口にある短い階段に、青年は腰を下ろしてスポーツドリンクを呷っていた。
「・・・これで、来たのか?」
「そうだよ。オレ、これしか持ってないし」
汗だくになっている男は、疲れた笑顔でそう答える。
彼の前に置かれている自転車は、どう見ても普通のママチャリで、しかも電動アシストもついていない。
「どんぐらい、かかった?」
「2時間半くらいかなぁ・・・皇居からは案外早かったんだけど」
どうしてわざわざこんな真似をしたのか、その答は明白だった。
だから敢えて、問い質すのは止めた。
「とりあえず、シャワー浴びてから飯だな」
「うん。・・・もう既に、脚が重いんだけど」
「じゃあ、明日は地獄だぞ」
自転車を引いて歩く彼は、俺の言葉に大げさな溜め息を吐く。
「ま、良いや。道も覚えたし、これからはもっと早く来れるよ」
それでも、その行動自体を後悔しているようには見えなかった。
「寺門さん・・・だっけ。阿佐ヶ谷から来たっていうから。オレ中野だし、来れるかなー・・・って」
駅前にある定食屋で昼飯を食べながら、彼は自らの行動の理由を語り始める。
「あの人、自転車のレースとか出るような人なんだぞ?」
「そうだけどさ。負けっぱなしじゃ、悔しいし」
「あっちの得意分野で勝てる訳ないだろ」
「とりあえず、土俵には乗っとかないと」
そう言って、未だ紅潮している顔に明らかな対抗心を滲ませた。
しかし彼には、もう一つの理由があった。
「それに、こうすれば康平とどっか行けるじゃん」
「え?」
「自転車で、どっか行こうよ」
雨ざらしで一年近く放置されていたロードバイク。
今朝、たまたまカバーを外した時には、車輪のシャフトに錆が浮いていた。
大掛かりなメンテナンスをするか、もう、捨ててしまうか。
そう悩んで、結局結論は出せなかった。
「でも・・・随分乗ってねぇし」
「でも、自転車好きなんでしょ?」
「・・・どうかな。もう、よく分からない」
「あれに乗ると、あの人との思い出が蘇るから?」
図星を突かれて、少し、イラっとした。
「お前にも、分かるだろ?」
「あの人のこと嫌いになった訳でも無いのに、自転車だけ嫌いになるっておかしくない?」
「別に、嫌いになった訳じゃねぇよ」
「そうだよね。乗りもしないのに、ずっと取ってあるしね」
「何が言いたいんだよ?何もかも、嫌いになれって?」
「あれさえなければあの人のことを忘れられるって、願掛けしてるように見えるんだよ」
いつになく真剣な若い言葉に、返す言葉を見失う。
「嫌いになれとも、忘れろとも言わないよ。好きなものも・・・好きなままでいて良いと思う」
学生時代から、かれこれ10年近くの付き合いになる自転車。
乗らなくなった時期もあったけれど、ずっと大切にしてきた。
彼と共有した時間を素直に楽しかったと思えなくなった原因を、俺はあれに押し付けていたのかも知れない。
そうすることで、惨めな自分から目を背けようとしていたのかも知れない。
自転車が目の前から消えたところで、虚しさしか残らないのに。
「オレ、そんなに体力無いし、ママチャリだし、何処まで付き合えるか分からないけど・・・」
彼から視線を逸らして顔をしかめた俺に掛けられた言葉は、ややトーンダウンしたように聞こえた。
険悪になりつつある雰囲気を、察したのだろう。
無言の時をしばらく過ごし、やっと頭が落ち着いてくる。
「ちょっと、待ってくれ。自転車、修理に出すから」
顔を上げた先の緊張していた表情が、ふと緩む。
「それまでに、行きたいとこ決めておけよ。あれで行ける範囲でな」
□ 94_未練★ □
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世間は新しい風を取り入れる為に、俄かに慌ただしさを増してくる。
薬指に真新しい指輪を嵌めている先輩は、今期から係長に昇進した。
いつの間にか中堅一歩手前まで来た俺は、今年初めて、OJTの担当となった。
新入社員たちは入社式後すぐに研修先へ向かっており、顔合わせは約一か月後。
それでも総務が持ってきたマニュアルらしきものの厚さに、今から少し怯んでいる。
一方の若い彼氏は、バイト先の生協の売店が大忙しらしい。
「土日も出ろって言われてさー・・・もう最悪だよ」
週末の約束をキャンセルせざるを得ないと告げる電話の中で、彼はそんな愚痴をこぼす。
「どんな仕事でも繁忙期があるんだし、今から慣れておいたら良いんじゃないか」
「そういうところは、妙に社会人だよね」
「社会人だし」
「まぁ、これだけ忙しかったら、きっと2週間過ぎるのもすぐかな」
時折見せる幼い言動に、弟のような感覚を抱く時もある。
ただ、彼との再会を待ち侘びているのが心だけではないことが、友人や家族とは異なるところだ。
「楽しみにしてるから。バイトも、勉強も、頑張れ」
「康平も、仕事頑張って」
桜は花を落とし、若緑の小さな葉を芽吹き始める。
待ち合わせは最寄駅で朝11時。
相手から電話が来たのは、その15分くらい前のことだった。
「ごめん・・・ちょっと、遅れそう」
彼の実家と俺の家は、地下鉄で一本の場所にある。
「何だよ、寝坊か?」
スピーカーからは街の賑わいと少し上がった息の音。
恐らく、駅までダッシュの途中なのだろう。
「いや・・・道に迷っちゃった」
「は?何処で迷うんだよ?」
「あ、あった。あれかー・・・。ごめん、もう大丈夫。時間までに着くよう急ぐから。じゃ」
俺の質問に独り言を返した彼は、そのまま電話を切る。
電車でも30分以上かかる距離、まさか、と思っていた。
最寄駅に着いたのは5分前。
北口にある短い階段に、青年は腰を下ろしてスポーツドリンクを呷っていた。
「・・・これで、来たのか?」
「そうだよ。オレ、これしか持ってないし」
汗だくになっている男は、疲れた笑顔でそう答える。
彼の前に置かれている自転車は、どう見ても普通のママチャリで、しかも電動アシストもついていない。
「どんぐらい、かかった?」
「2時間半くらいかなぁ・・・皇居からは案外早かったんだけど」
どうしてわざわざこんな真似をしたのか、その答は明白だった。
だから敢えて、問い質すのは止めた。
「とりあえず、シャワー浴びてから飯だな」
「うん。・・・もう既に、脚が重いんだけど」
「じゃあ、明日は地獄だぞ」
自転車を引いて歩く彼は、俺の言葉に大げさな溜め息を吐く。
「ま、良いや。道も覚えたし、これからはもっと早く来れるよ」
それでも、その行動自体を後悔しているようには見えなかった。
「寺門さん・・・だっけ。阿佐ヶ谷から来たっていうから。オレ中野だし、来れるかなー・・・って」
駅前にある定食屋で昼飯を食べながら、彼は自らの行動の理由を語り始める。
「あの人、自転車のレースとか出るような人なんだぞ?」
「そうだけどさ。負けっぱなしじゃ、悔しいし」
「あっちの得意分野で勝てる訳ないだろ」
「とりあえず、土俵には乗っとかないと」
そう言って、未だ紅潮している顔に明らかな対抗心を滲ませた。
しかし彼には、もう一つの理由があった。
「それに、こうすれば康平とどっか行けるじゃん」
「え?」
「自転車で、どっか行こうよ」
雨ざらしで一年近く放置されていたロードバイク。
今朝、たまたまカバーを外した時には、車輪のシャフトに錆が浮いていた。
大掛かりなメンテナンスをするか、もう、捨ててしまうか。
そう悩んで、結局結論は出せなかった。
「でも・・・随分乗ってねぇし」
「でも、自転車好きなんでしょ?」
「・・・どうかな。もう、よく分からない」
「あれに乗ると、あの人との思い出が蘇るから?」
図星を突かれて、少し、イラっとした。
「お前にも、分かるだろ?」
「あの人のこと嫌いになった訳でも無いのに、自転車だけ嫌いになるっておかしくない?」
「別に、嫌いになった訳じゃねぇよ」
「そうだよね。乗りもしないのに、ずっと取ってあるしね」
「何が言いたいんだよ?何もかも、嫌いになれって?」
「あれさえなければあの人のことを忘れられるって、願掛けしてるように見えるんだよ」
いつになく真剣な若い言葉に、返す言葉を見失う。
「嫌いになれとも、忘れろとも言わないよ。好きなものも・・・好きなままでいて良いと思う」
学生時代から、かれこれ10年近くの付き合いになる自転車。
乗らなくなった時期もあったけれど、ずっと大切にしてきた。
彼と共有した時間を素直に楽しかったと思えなくなった原因を、俺はあれに押し付けていたのかも知れない。
そうすることで、惨めな自分から目を背けようとしていたのかも知れない。
自転車が目の前から消えたところで、虚しさしか残らないのに。
「オレ、そんなに体力無いし、ママチャリだし、何処まで付き合えるか分からないけど・・・」
彼から視線を逸らして顔をしかめた俺に掛けられた言葉は、ややトーンダウンしたように聞こえた。
険悪になりつつある雰囲気を、察したのだろう。
無言の時をしばらく過ごし、やっと頭が落ち着いてくる。
「ちょっと、待ってくれ。自転車、修理に出すから」
顔を上げた先の緊張していた表情が、ふと緩む。
「それまでに、行きたいとこ決めておけよ。あれで行ける範囲でな」
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