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主従-虚-★(5/5)

その週の金曜日、件の環境調査の報告書をまとめる為に残業していた深夜のこと。
部下は早めに帰宅し、フロア内に残る社員もまばらになっている。
スケジュールタイマーで照度が落とされたトイレの中は、若干暗く感じた。
用を足し、洗面台の前で鏡に映る自分の顔を見る。
毎日見ているはずなのに、少し、老いが進んだような気がする。
疲れているからかも知れないし、照明の所為なのかも知れない。

誰かが入ってくる気配で、我に返る。
溜め息を一つ吐き、気合を入れ直した俺の背後に、帰宅したはずの部下が立っていた。
「秦野君、帰ったんじゃ・・・」
振り向きかけた瞬間、彼の手が俺の背中を叩く。
突然のことで、咄嗟には刺し込むような痛みをあしらうことが出来なかった。
顔をしかめた俺に向けられた鏡越しの視線は、気が遠くなりそうな程、冷たい。
「オレね、ここ最近で、大事な人を二人も失いました」
生気の感じられない声を、緊張感の走る背中で受け止める。
「・・・彼女と、貴方です」

彼の言動も、行動も、俺には理解が出来なかった。
「何・・・?」
俺が疑問を呈すると同時に、彼は洗面カウンターの上に自分のスマートフォンを置く。
「その男、知ってるんですよね?」
画面に映っているのは、トモキと呼ばれているあの若い男と、見知らぬ女。
如何にもな建物の前を、腕を組んで歩いている姿だった。
「この間、打合せの帰りに逢った男ですよ。女の方はね、オレの・・・元カノです」
恐らく部下は、何かを知っている。
しかし、既に一度嘘をついている以上、賢明ではないと分かっていても、言葉の選択肢は無い。
「いや・・・僕は」
窺うように送った視線に、彼は目を細め、大きな溜め息をついた。
「ぶっちゃけると、そいつ、彼女の浮気相手で。今日、ちょっと、会ってきました」
すぐ背後まで迫って来た部下は、耳元で無情な響きを残す。
「その時、曽我部さんのことも、聞かされたんです・・・いろいろ」

何の言い訳も浮かばない。
軽蔑の視線を送りながら、彼はゆっくりと俺の背中を撫でる。
「傷だらけなんだそうですね、ここ」
細かな震えが抑えきれない。
「別に、会社の人間がどんな性癖持ってようと、関係ないと思ってましたけど」
視線を落としても尚、人造大理石のカウンターにメッキが剥がれた自分の姿が映る。
男の手が身体から離れていく。
「それが、本当に尊敬して信頼してた人だと・・・正直、キツいです」
感情的な揺らいだ声をその場に残し、彼は出ていった。


フロアに戻ると、もう人影は無かった。
机の上には、部下に預けていた論文集が置かれている。
仕事に私事は持ち込まない。
それくらいの良識は、若い彼でも弁えているはずだ。
とは言え、信頼を失墜させるには十分すぎるほどの、事実。
汚名返上することも適わないだろう。
微かな想いが消え去り、目の前には、闇だけが広がっていくようだった。

仕事が手に着かないまま無駄な時間を過ごしても仕方が無い。
そう思いながら帰り支度をしていると、私用の携帯に一通のメールが入る。
『都合でしばらく東京を離れる』
後戻りできないところまで俺を貶めた男からの言葉。
以前なら、その字面だけで身体が遣り切れなくなっていたのに
今は何故か、救われたような気分になっていた。


土砂降りになった日曜日、やり残した仕事を終わらせる為、いつもより少し遅い時間に出社する。
部下が休日出勤する時は、決まって土曜日。
俺もそれに合わせることが多かった。
けれど、一晩経っても彼と顔を合わせる勇気は湧いてこない。
だから、敢えて、避ける日程にした。

誰もいないオフィスは寒々しい静けさに満ちていて、ガラス窓に当たる雨粒の音が気分を乱す。
報告書のページはなかなか埋まらず、昼近くなっても余白が目立つ状態だった。
憂鬱な心が雷鳴で一瞬途切れ、また流れていく。
自分自身が、公私を切り離せない情けない人間であることを、否が応にも思い知らされる。

通路の方から聞こえた物音に顔を上げる。
目を向けた先には、肩口を濡らした部下の姿があった。

「・・・お疲れ様です」
「お疲れ様」
自席に着いた彼は、冴えない表情で手元の資料をまとめ始める。
ぎこちない空気が居た堪れず、思考回路がますます錆び付いていく。
「報告書に添付するグラフ、もう少しで終わりそうなんで、後でチェックして頂いて良いですか?」
「分かった。見ておくよ」
小気味良いキーボードの打鍵音が、未だ衰えない雨音と混ざり合う。
せめて動揺を悟られないように、そう思いながら目の前の画面を注視した。


「こちらで、全部です」
夕方に差し掛かろうという頃、部下はそう言って資料を手渡してくる。
「ありがとう。後は僕の方で確認するから、明日修正をお願い出来るかな」
「分かりました」
空は早くも暗くなってきていて、雨も止む気配は無い。
「今日はもう、大丈夫だから・・・」
早く帰ってくれ、そんな思いを労いの言葉に溶かした。
それなのに、彼は俺の傍に立ったまま動かない。
「秦野君?」
「・・・オレが尊敬してたのは、自分の頭の中で勝手に作った、曽我部さんだったんですね」
見上げた先にあったのは、切なげに目を伏せる若者の顔だった。

人間関係は互いの印象の共有で成り立つものであり、実態の暴露は総じてプラスには働かない。
どんな話を聞かされたかは分からないが、彼の中の俺は、間違いなく、前までの俺ではないだろう。
「信じられなくて、でも本当のことで、嫌悪感が半端ないのに、でも・・・軽蔑したくない」
何を弁解しても、もう手遅れだ。
しかも、彼が受け取る俺の言葉は、彼の心のフィルターを通った言葉。
「・・・僕から言うことは、何も、無いよ」
交わらない視線を外し、机の方へ向きなおす。
不意に稲光がブラインドを通って室内を照らし、直後に激しい雷鳴が轟く。
瞬間、肩に置かれた手は、あり得ないほどに熱を帯びていた。
「オレの中の曽我部さんを、もう一回組み立て直すの・・・手伝って貰えませんか」

□ 82_主従-虚-★ □
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まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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