主従-虚-★(4/5)
歳を重ね、部下を持ち、サラリーマンとしての生活は概ね順調に進んできている。
「5ページ目のスライドで」
「音響環境満足度のグラフの部分だね?」
「ええ、この考察に対する根拠資料が見つからなくて・・・どの文献を参考にすれば良いかと」
3年前に新設された、居住環境に関するコンサルティング業務を行う部署。
少数精鋭ながら、社内での存在感は徐々に大きくなっていると感じている。
俺自身、部署立上げの草案段階から関わっているだけあって、それなりの思い入れもあった。
「騒音に関することであれば、便覧かASHRAEの基準を参考にすると良いんじゃないかな」
「分かりました。調べてみます」
「秦野君、今、会社?」
「ええ・・・休みの日の方が、集中して調べ物が出来るので」
元々、中堅ゼネコンである会社に就職した時、俺は設計部の所属だった。
対して、電話の向こうの部下は、新人研修後、配属希望でウチの課を選んだ変わり種で
大学で建築環境工学を専攻していたことから、社の外部委員でもある担当教授に勧められたのだという。
「週明けでも間に合うから、あまり無理しないようにね」
「分かりました。あと、曽我部さんがお持ちの学会の論文集、見せて貰っても良いですか?」
「僕はしばらく使わないから、好きな時に読んで構わないよ」
「ありがとうございます。後で、机に戻しておきます」
20代の内は、年上に性的魅力を感じることが多かったように思う。
色々なものを背負って無我夢中に働く毎日の中で、包容力のある存在を求めていたのかも知れない。
それが、30代も半ばを過ぎた辺りから、徐々に年下への興味が大きくなってきた。
実際に子供を持つことは出来なくても、奥底に眠る男としての本能が
部下に対する寵愛と言う形で滲み出てきている。
幸いなのは、性的な衝動が彼に向かっていないこと。
例え彼にとって副次的な関係であっても、その繋がりが保てているだけで満足だった。
今、担当しているのは、大手通信会社が所有する自社ビルに関する居住環境調査。
半数のフロアはデータセンターとして使用されている為、規模からすれば常勤者数は少ないが
365日、24時間稼働している建物だけあって、働いている人間にはちょっとした不満もストレスになる。
社内LANで集計されたアンケート結果を元に、改善点を検討し提案するのが俺たちの仕事だ。
偏に居住性と言っても内容は様々で、使い勝手はもちろん温熱・音・匂いまで
ありとあらゆる視点から、それに対応する基準や指標に照らし合わせる必要がある。
「あれだけブースがあるのに、足りないんですね」
今回の調査で最も改善の余地有とされたのは、ビル全体に設置されているトイレの数だった。
「ここは1階だし、テナントも入っているから多く設置されてるけど、確かに上層階は少ないかな」
常勤者に対する便器や洗面器の数は、建物や男女別で指針が示されている。
元々サーバーや空調機が置かれていたスペースを事務室に改築したことで
当初の想定よりも人数が増えてしまったことも、一因にあるのだろう。
予算に余裕があればコア周りの倉庫や書庫をトイレに改築する、結論はそんなところに収まった。
ビルのエントランスに差し掛かる頃、会社から電話が入る。
「・・・ごめん、電話だ」
「でしたら、ちょっと煙草吸ってきて良いですか?」
「ああ、良いよ」
「すみません、すぐ戻ります」
この禁煙ブームの中、社員でも喫煙者の割合は目に見えて減ってきている。
特に若い社員では殆どおらず、彼が社内の喫煙スペースに入るのを見た時に素直に驚いたことを
小走りに駆けていく姿を見て、思い出した。
プレゼンを問題なく終えた旨と部下に対する考課を上司に伝え、彼が向かった方へ足を運ぶ。
エントランスを出て右手奥に、広めの喫煙所がある。
全館禁煙ということもあり、勤務時間内だと言うのに人影は多い。
部下の姿を探すと、隅の方で見知らぬ男と相対しているのを見つけた。
訝しげに視線を投げる俺を認めた彼は、左手を小さく上げる。
来るな、と牽制されているのは理解できたが
内容は分からずとも、何か言い争っているような雰囲気を感じて距離を詰める。
こちらに背を向けていた男が不意に振り向く。
その眼が、身体を固まらせた。
風貌から、大学生くらいだろうと思っていた。
互いを視認し合った瞬間、私服姿の青年は目を細めて不敵な笑みを浮かべる。
部下とあの男の間に、何の関係があるか。
たまたま、些細な諍いがあっただけなのか。
どちらにせよ、日常と非日常の壁が崩れていくことが、大きな不安となって心に圧し掛かる。
若い男は部下に何やら耳打ちをして場を離れ、こちらに向かってきた。
「面白い所で逢ったな」
スウェットのパーカーに両手を突っ込んだまま俺の前に立った男は、僅かに首を傾げる。
愛人の前でもよく見せている仕草は、彼なりのセックスアピールなのかも知れない。
「あいつには、もう飼い慣らされてんの?」
「・・・そういう関係じゃない」
「へぇ、そう」
蔑むような声に逆撫でされる感情を、無表情を努めて堪える。
肩越しには、こちらへ向かってくる部下の姿。
「さっさと失せろ!」
普段、聞くことの無い激しい口調には、苛立ちが込められている。
「・・・っるっせーな」
部下の言葉を鼻で笑い飛ばし、男は俺の耳元に唇を寄せて捨て台詞を吐いた。
「じゃ、また、犬小屋でな」
申し訳なさそうな表情の秦野君の言葉で、懸念は幾許か解消された。
「何か、金貸せとか携帯貸せとか、うるさかったんで・・・つい」
壁にひびが入っても、彼の方へ、俺の薄汚れた姿が漏れ出すことは無いのだろう。
「そう・・・手とかは、上げられなかった?」
「ええ、それは大丈夫です。舐められてるんですかね、あんなガキに・・・」
とは言え、自虐的に顔を歪める部下は、まだ心中穏やかではない様子に見える。
「曽我部さんも、何か、言われてませんでしたか?」
「別に・・・事の顛末を聞こうと思ったけど、話にならなかったよ」
直帰予定だった彼は、約束があると言って俺とは違う駅へ向かっていった。
付き合っている彼女がいることは聞いていたし、それは何ら不思議なことでも無い。
むしろ決まった相手がいてくれた方が、利己的な恋心を抱えているのが楽なようにも思う。
早く幸せになって、俺を突き放して欲しいと願うのは、きっと自分勝手なことなのだろう。
□ 82_主従-虚-★ □
■ 1 ■ ■ 2 ■ ■ 3 ■ ■ 4 ■ ■ 5 ■
□ 84_主従-実-★ □
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「音響環境満足度のグラフの部分だね?」
「ええ、この考察に対する根拠資料が見つからなくて・・・どの文献を参考にすれば良いかと」
3年前に新設された、居住環境に関するコンサルティング業務を行う部署。
少数精鋭ながら、社内での存在感は徐々に大きくなっていると感じている。
俺自身、部署立上げの草案段階から関わっているだけあって、それなりの思い入れもあった。
「騒音に関することであれば、便覧かASHRAEの基準を参考にすると良いんじゃないかな」
「分かりました。調べてみます」
「秦野君、今、会社?」
「ええ・・・休みの日の方が、集中して調べ物が出来るので」
元々、中堅ゼネコンである会社に就職した時、俺は設計部の所属だった。
対して、電話の向こうの部下は、新人研修後、配属希望でウチの課を選んだ変わり種で
大学で建築環境工学を専攻していたことから、社の外部委員でもある担当教授に勧められたのだという。
「週明けでも間に合うから、あまり無理しないようにね」
「分かりました。あと、曽我部さんがお持ちの学会の論文集、見せて貰っても良いですか?」
「僕はしばらく使わないから、好きな時に読んで構わないよ」
「ありがとうございます。後で、机に戻しておきます」
20代の内は、年上に性的魅力を感じることが多かったように思う。
色々なものを背負って無我夢中に働く毎日の中で、包容力のある存在を求めていたのかも知れない。
それが、30代も半ばを過ぎた辺りから、徐々に年下への興味が大きくなってきた。
実際に子供を持つことは出来なくても、奥底に眠る男としての本能が
部下に対する寵愛と言う形で滲み出てきている。
幸いなのは、性的な衝動が彼に向かっていないこと。
例え彼にとって副次的な関係であっても、その繋がりが保てているだけで満足だった。
今、担当しているのは、大手通信会社が所有する自社ビルに関する居住環境調査。
半数のフロアはデータセンターとして使用されている為、規模からすれば常勤者数は少ないが
365日、24時間稼働している建物だけあって、働いている人間にはちょっとした不満もストレスになる。
社内LANで集計されたアンケート結果を元に、改善点を検討し提案するのが俺たちの仕事だ。
偏に居住性と言っても内容は様々で、使い勝手はもちろん温熱・音・匂いまで
ありとあらゆる視点から、それに対応する基準や指標に照らし合わせる必要がある。
「あれだけブースがあるのに、足りないんですね」
今回の調査で最も改善の余地有とされたのは、ビル全体に設置されているトイレの数だった。
「ここは1階だし、テナントも入っているから多く設置されてるけど、確かに上層階は少ないかな」
常勤者に対する便器や洗面器の数は、建物や男女別で指針が示されている。
元々サーバーや空調機が置かれていたスペースを事務室に改築したことで
当初の想定よりも人数が増えてしまったことも、一因にあるのだろう。
予算に余裕があればコア周りの倉庫や書庫をトイレに改築する、結論はそんなところに収まった。
ビルのエントランスに差し掛かる頃、会社から電話が入る。
「・・・ごめん、電話だ」
「でしたら、ちょっと煙草吸ってきて良いですか?」
「ああ、良いよ」
「すみません、すぐ戻ります」
この禁煙ブームの中、社員でも喫煙者の割合は目に見えて減ってきている。
特に若い社員では殆どおらず、彼が社内の喫煙スペースに入るのを見た時に素直に驚いたことを
小走りに駆けていく姿を見て、思い出した。
プレゼンを問題なく終えた旨と部下に対する考課を上司に伝え、彼が向かった方へ足を運ぶ。
エントランスを出て右手奥に、広めの喫煙所がある。
全館禁煙ということもあり、勤務時間内だと言うのに人影は多い。
部下の姿を探すと、隅の方で見知らぬ男と相対しているのを見つけた。
訝しげに視線を投げる俺を認めた彼は、左手を小さく上げる。
来るな、と牽制されているのは理解できたが
内容は分からずとも、何か言い争っているような雰囲気を感じて距離を詰める。
こちらに背を向けていた男が不意に振り向く。
その眼が、身体を固まらせた。
風貌から、大学生くらいだろうと思っていた。
互いを視認し合った瞬間、私服姿の青年は目を細めて不敵な笑みを浮かべる。
部下とあの男の間に、何の関係があるか。
たまたま、些細な諍いがあっただけなのか。
どちらにせよ、日常と非日常の壁が崩れていくことが、大きな不安となって心に圧し掛かる。
若い男は部下に何やら耳打ちをして場を離れ、こちらに向かってきた。
「面白い所で逢ったな」
スウェットのパーカーに両手を突っ込んだまま俺の前に立った男は、僅かに首を傾げる。
愛人の前でもよく見せている仕草は、彼なりのセックスアピールなのかも知れない。
「あいつには、もう飼い慣らされてんの?」
「・・・そういう関係じゃない」
「へぇ、そう」
蔑むような声に逆撫でされる感情を、無表情を努めて堪える。
肩越しには、こちらへ向かってくる部下の姿。
「さっさと失せろ!」
普段、聞くことの無い激しい口調には、苛立ちが込められている。
「・・・っるっせーな」
部下の言葉を鼻で笑い飛ばし、男は俺の耳元に唇を寄せて捨て台詞を吐いた。
「じゃ、また、犬小屋でな」
申し訳なさそうな表情の秦野君の言葉で、懸念は幾許か解消された。
「何か、金貸せとか携帯貸せとか、うるさかったんで・・・つい」
壁にひびが入っても、彼の方へ、俺の薄汚れた姿が漏れ出すことは無いのだろう。
「そう・・・手とかは、上げられなかった?」
「ええ、それは大丈夫です。舐められてるんですかね、あんなガキに・・・」
とは言え、自虐的に顔を歪める部下は、まだ心中穏やかではない様子に見える。
「曽我部さんも、何か、言われてませんでしたか?」
「別に・・・事の顛末を聞こうと思ったけど、話にならなかったよ」
直帰予定だった彼は、約束があると言って俺とは違う駅へ向かっていった。
付き合っている彼女がいることは聞いていたし、それは何ら不思議なことでも無い。
むしろ決まった相手がいてくれた方が、利己的な恋心を抱えているのが楽なようにも思う。
早く幸せになって、俺を突き放して欲しいと願うのは、きっと自分勝手なことなのだろう。
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