幻想★(10/10)
バラバラだった点が線となり、歪な形を成す。
こんなはずじゃなかった、そう思うには、全てが遅すぎた。
男の口から語られた家族の過去を心に仕舞い込むことに悶えていた夜。
階下から、短い悲鳴と何かが割れる音が聞こえてきた。
「・・・母さん?」
父は、まだ帰宅していなかった。
居間の片隅に立ち尽くす母は、足元に広がった壺の破片と、何枚もの紙幣を見下ろしていた。
「どういう、こと?これは・・・何?」
振り向いた顔に映る狼狽につられるよう、言葉を失う。
「敏典、何か、知ってるの?」
「いや、それは・・・」
「悪ふざけのつもり?」
「そうじゃ、なくて・・・」
「ここには、お兄ちゃんが、いるのよ?!」
ヒステリックな声に心が委縮する。
常軌を逸しつつある母の姿が、心底怖くなった。
「しかも、こんなにたくさん・・・どういうお金なの?ちゃんと説明しなさい!」
彼女は、自身の過去を俺が知っているとは夢にも思っていないだろう。
そのことを告げるべきかどうか、正常な判断が甲高い罵声に揺らされた。
「・・・母さんだって、隠してること、あるだろ?」
息を飲む音が、部屋の中に静寂を呼んだ。
母と兄に背を向けるよう身体を傾け、言葉を口にする。
「それは、兵藤に、貰った」
男との関係、金の出所、母の過去。
誰を責めるでもなく、誰も庇うでもなく、俺が知り得ることを淡々と話す。
床に座り込んだままで半ば放心状態の母は、時折鼻を啜っていた。
これは、真実なのかも知れない。
それでも、彼女に対して負の感情を持つ者が口にした言葉、あくまで片側から見ただけの真実。
「本当のことを、知りたい。奴の言葉だけじゃ、嫌なんだ」
俺の声に、母は俯き、けれど首を振る。
「・・・少し、時間を、頂戴」
か細い声がその心痛を表す。
ありふれた生活が壊れていく。
その様が、手に取るように分かった。
週末の夜、待ち合わせ場所に立つ男の元には先客がいた。
何かを言い争うような二人を遠目に見ながら、どう行動するべきなのかを考える。
宥めるように女の肩に手を添えた男は、狼狽えた態度は見せていない。
徐々に激しくなる女の声が、道行く人たちの視線を集める。
居た堪れない、そう思った瞬間、周囲の空気が凍った。
憎しみは憎しみしか生まない。
崩れ落ちる男の姿が、脳裏に焼き付く。
「・・・母さん!」
騒然とする中、通行人に抱きかかえられた男は苦しげな息を吐いていた。
返り血を浴びて茫然自失のまま、その傍らに座り込んだ母を抱きしめる。
「ごめんね・・・ごめんね」
繰り返される震えた謝罪の言葉を遮るよう、男の声がする。
「だから・・・言った、だろう?」
おびただしい出血でスーツを赤く染めた彼は、僅かに口角を上げた。
「もう、幸せだった、頃には・・・戻れないん、だよ」
落ちていた血染めの包丁は、自宅で母が使っていた、見慣れた物だった。
男が一命を取り留めたと言う話を聞いたのは、事情聴取で訪れた警察署の中だった。
母は現行犯で逮捕され、その一報を聞きつけた父が署に着いたのは、夜半のこと。
「怪我は・・・無いのか?」
血で汚れた俺の姿に、彼は明らかな狼狽を見せる。
「俺は・・・平気」
「お母さんは・・・」
滅多に聞くことの無かった弱弱しい声を発したタイミングで、背後の警官から声がかかった。
「相模さんですか?聴取はこちらで行いますので」
「あ、は、はい・・・」
彼だけが、何も知らない。
そして、このすぐ後に、彼は全てを知ることになる。
取り乱す父の背中を軽く叩き、無理矢理微笑んだ。
「待ってるから、一緒に帰ろう」
警察署のガラス窓に映る白んだ空を見上げながら、煙を吐き出す。
自動ドアの開く音に振り返ると、疲れた顔で俺を見る父がいた。
「お疲れ」
「随分、待ったんじゃないのか」
「良いよ、別に。平気」
大きな溜め息を吐きながら項垂れた父の肩を抱くと、小刻みな震えが伝わってくる。
「この後、家宅捜索があるって言うから」
「・・・そう」
「車に・・・乗ってけ、って」
潤みを増していく声を、これ以上聴きたくなかった。
彼の身体を強く引き寄せ、哀しみを飲み込んだ。
「行こう、か」
署の裏手にある駐車場に向かう途中、父は、母が拘留されているだろう2階の窓を見上げる。
檻が嵌め込まれた窓の向こうを窺うことは、当然出来なかった。
「オレはずっと、自分が、家族が、幸せに暮らしていると思ってきた」
「・・・うん」
「でも、オレが見ていたのは・・・幻想だったのかな」
その呟きに、言葉が出なかった。
父の手を取り、無言のままで、何度も何度も首を横に振る。
握り締められる手の力だけが、俺に残された唯一の幸せだった。
□ 70_幻想★ □
■ 1 ■ ■ 2 ■ ■ 3 ■ ■ 4 ■ ■ 5 ■ ■ 6 ■ ■ 7 ■
■ 8 ■ ■ 9 ■ ■ 10 ■
>>> 小説一覧 <<<
こんなはずじゃなかった、そう思うには、全てが遅すぎた。
男の口から語られた家族の過去を心に仕舞い込むことに悶えていた夜。
階下から、短い悲鳴と何かが割れる音が聞こえてきた。
「・・・母さん?」
父は、まだ帰宅していなかった。
居間の片隅に立ち尽くす母は、足元に広がった壺の破片と、何枚もの紙幣を見下ろしていた。
「どういう、こと?これは・・・何?」
振り向いた顔に映る狼狽につられるよう、言葉を失う。
「敏典、何か、知ってるの?」
「いや、それは・・・」
「悪ふざけのつもり?」
「そうじゃ、なくて・・・」
「ここには、お兄ちゃんが、いるのよ?!」
ヒステリックな声に心が委縮する。
常軌を逸しつつある母の姿が、心底怖くなった。
「しかも、こんなにたくさん・・・どういうお金なの?ちゃんと説明しなさい!」
彼女は、自身の過去を俺が知っているとは夢にも思っていないだろう。
そのことを告げるべきかどうか、正常な判断が甲高い罵声に揺らされた。
「・・・母さんだって、隠してること、あるだろ?」
息を飲む音が、部屋の中に静寂を呼んだ。
母と兄に背を向けるよう身体を傾け、言葉を口にする。
「それは、兵藤に、貰った」
男との関係、金の出所、母の過去。
誰を責めるでもなく、誰も庇うでもなく、俺が知り得ることを淡々と話す。
床に座り込んだままで半ば放心状態の母は、時折鼻を啜っていた。
これは、真実なのかも知れない。
それでも、彼女に対して負の感情を持つ者が口にした言葉、あくまで片側から見ただけの真実。
「本当のことを、知りたい。奴の言葉だけじゃ、嫌なんだ」
俺の声に、母は俯き、けれど首を振る。
「・・・少し、時間を、頂戴」
か細い声がその心痛を表す。
ありふれた生活が壊れていく。
その様が、手に取るように分かった。
週末の夜、待ち合わせ場所に立つ男の元には先客がいた。
何かを言い争うような二人を遠目に見ながら、どう行動するべきなのかを考える。
宥めるように女の肩に手を添えた男は、狼狽えた態度は見せていない。
徐々に激しくなる女の声が、道行く人たちの視線を集める。
居た堪れない、そう思った瞬間、周囲の空気が凍った。
憎しみは憎しみしか生まない。
崩れ落ちる男の姿が、脳裏に焼き付く。
「・・・母さん!」
騒然とする中、通行人に抱きかかえられた男は苦しげな息を吐いていた。
返り血を浴びて茫然自失のまま、その傍らに座り込んだ母を抱きしめる。
「ごめんね・・・ごめんね」
繰り返される震えた謝罪の言葉を遮るよう、男の声がする。
「だから・・・言った、だろう?」
おびただしい出血でスーツを赤く染めた彼は、僅かに口角を上げた。
「もう、幸せだった、頃には・・・戻れないん、だよ」
落ちていた血染めの包丁は、自宅で母が使っていた、見慣れた物だった。
男が一命を取り留めたと言う話を聞いたのは、事情聴取で訪れた警察署の中だった。
母は現行犯で逮捕され、その一報を聞きつけた父が署に着いたのは、夜半のこと。
「怪我は・・・無いのか?」
血で汚れた俺の姿に、彼は明らかな狼狽を見せる。
「俺は・・・平気」
「お母さんは・・・」
滅多に聞くことの無かった弱弱しい声を発したタイミングで、背後の警官から声がかかった。
「相模さんですか?聴取はこちらで行いますので」
「あ、は、はい・・・」
彼だけが、何も知らない。
そして、このすぐ後に、彼は全てを知ることになる。
取り乱す父の背中を軽く叩き、無理矢理微笑んだ。
「待ってるから、一緒に帰ろう」
警察署のガラス窓に映る白んだ空を見上げながら、煙を吐き出す。
自動ドアの開く音に振り返ると、疲れた顔で俺を見る父がいた。
「お疲れ」
「随分、待ったんじゃないのか」
「良いよ、別に。平気」
大きな溜め息を吐きながら項垂れた父の肩を抱くと、小刻みな震えが伝わってくる。
「この後、家宅捜索があるって言うから」
「・・・そう」
「車に・・・乗ってけ、って」
潤みを増していく声を、これ以上聴きたくなかった。
彼の身体を強く引き寄せ、哀しみを飲み込んだ。
「行こう、か」
署の裏手にある駐車場に向かう途中、父は、母が拘留されているだろう2階の窓を見上げる。
檻が嵌め込まれた窓の向こうを窺うことは、当然出来なかった。
「オレはずっと、自分が、家族が、幸せに暮らしていると思ってきた」
「・・・うん」
「でも、オレが見ていたのは・・・幻想だったのかな」
その呟きに、言葉が出なかった。
父の手を取り、無言のままで、何度も何度も首を横に振る。
握り締められる手の力だけが、俺に残された唯一の幸せだった。
□ 70_幻想★ □
■ 1 ■ ■ 2 ■ ■ 3 ■ ■ 4 ■ ■ 5 ■ ■ 6 ■ ■ 7 ■
■ 8 ■ ■ 9 ■ ■ 10 ■
>>> 小説一覧 <<<