交錯★(7/7)
事の顛末を憂い、覚悟を決められないのは、愚かなことだ。
決断の場面は、幾度もあった。
失敗も、成功も、あらゆる結果が今に繋がっていることも、分かっている。
目の前に現れた分岐点。
先は見えない。
それでも、構わなかった。
俺の想いを口にしなくても、彼の気持ちを受け止める事は出来る。
けれど、それは余りにも浅ましい行為。
自分が抱いた感情すらも否定しなければならない苦しさは、彼だって背負っている。
「俺も、君と・・・同じなんだ」
うっすらと汗ばんだ背中から、彼の脈動が響く。
「すれ違う、ところだった」
耳に唇を寄せ、静かにその身体をベッドに横たえる。
仰向けになった彼の瞳には、状況を把握しきれない、そんな惑いが映っていた。
そっと口づけ、眼差しを交わす。
「本当に、君を・・・好きになって、良いのか?」
暗がりの中の彼の表情が、歪む。
頬に添えられた手に呼ばれ、顔を寄せ合う。
言葉は、無かった。
ただ、震える吐息と、頬骨を掠めた涙の感触が、彼の安堵を伝えてくれた。
「おはようございます」
朝食場所であるビュッフェレストランに現れた彼は、眠たげな顔をして俺の前に立つ。
開き切らない赤い目を、口元の笑みで誤魔化そうとしているのは明らかだった。
「おはよう・・・眠れた?」
伏し目がちに首を振った彼の顔を、朝日が照らす。
「でも、まぁ・・・後は帰って、社内でミーティングが終われば、明日は代休なんで」
「そうか」
俺の顔に、夜のひと時が過ったのか。
つい数時間前の出来事を懐かしむような表情を浮かべ、一つ息を吐いた。
「では、また、後程」
「ああ。あと少しだから、頑張って」
「ありがとうございます」
帰りの特急の中、トイレに立った際に目にした彼は、座席に埋もれるよう微睡に落ちていた。
隣には、その様子を愛おしそうに眺める女。
通り過ぎた一瞬、心の中を居た堪れなさが覆う。
皮肉な運命に、彼は、立ち向かうのだろうか。
犠牲を生まない恋心は、存在しないのだろうか。
傍らの車窓には、既に市街地の光景が流れ始めていた。
旅に出る。
敢えてそう伝えておいたから、この一泊二日、携帯に業務連絡が入ることは無かった。
その代わり、事務所のパソコンには何通ものメールが届いている。
仕事に身を沈めて来た本領が発揮されたのか、溜め息一つで旅の余韻が飛んでいく。
プリンタが吐き出したスケッチを手に、机に向かい、頭の中で構想を組み立てる。
身体の疲れを実感するにつれ、更に思考が冴えてくるようだった。
不意に鳴りだした携帯電話が、時間の流れに気づかせてくれる。
顔を上げた先の窓では、夜が大分深くなっていた。
電話のディスプレイに表示された名前に、鼓動が僅かに乱れる。
闇の中で抱き締めた身体の感触が、全身に絡みつくよう蘇る。
「すみません、こんな時間に。もう、お休みでしたか?」
そういう声で、今の時間を正確に把握する。
「いや、大丈夫。仕事してたよ」
「お疲れ様です」
労いの言葉に被る、走りゆく車の音。
「今、帰り?」
「ええ、ちょっと・・・」
そのトーンの低さは、疲れや睡眠不足だけが原因では無さそうだった。
しばらく無言の時が流れる。
入り乱れる感情に決着を付けたのかも知れない。
電波に変換された彼の溜め息には、深い心痛が込められていた。
「・・・声が、聞きたくて」
引きつった口調に、どんな真意が隠れていたのかは分からなかったけれど
手を差し伸べられていることは、確かだったと思う。
「今から、来られるかい?」
誰も招き入れたことの無かった部屋に立つ男に、心がざわめく。
俯く彼の身体を、ただ、抱き締めた。
冷えたスーツの中にある身体の強張りが徐々に解けるのを感じながら
ひたすら真っ直ぐな想いを、互いに寄せ合っていた。
「もう少し・・・このまま、で」
「構わない。君の気が、済むまで」
俺の声に目を閉じた彼の顔が、肩口に埋もれていく。
誰も傷つけたくない。
大切な人だから、だからこそ、悲しい顔をさせるのは耐えられなかった。
狭いベッドに腰掛けた彼は、そう呟いた。
自らのことを何処まで話したのかは、聞かなかった。
「分かってくれるさ。そう、信じるしか、無い」
静かに頷く彼は、何処かに罪悪感を抱えているように見える。
すれ違ってしまった二人、手を取り合うことが出来た二人。
残酷な現実を、憂えているのかも知れない。
「だから、今は」
その肩を抱き、視線を重ねるようにこちらを向かせる。
「俺だけを、見てれば良い」
齢を重ねた心は、遅すぎた春に浮かされることは無いものの
短い夜を重ねる毎に、感情を彩る色が増えていく。
それはとても新鮮な出来事で、今まで知らなかったことに悔しさすら感じる。
共にいられる時間は、それほど長くは無いのだろう。
だからこそ、一瞬の交錯を逃さないように、手を伸ばしていたいと思う。
□ 66_交錯★ □
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決断の場面は、幾度もあった。
失敗も、成功も、あらゆる結果が今に繋がっていることも、分かっている。
目の前に現れた分岐点。
先は見えない。
それでも、構わなかった。
俺の想いを口にしなくても、彼の気持ちを受け止める事は出来る。
けれど、それは余りにも浅ましい行為。
自分が抱いた感情すらも否定しなければならない苦しさは、彼だって背負っている。
「俺も、君と・・・同じなんだ」
うっすらと汗ばんだ背中から、彼の脈動が響く。
「すれ違う、ところだった」
耳に唇を寄せ、静かにその身体をベッドに横たえる。
仰向けになった彼の瞳には、状況を把握しきれない、そんな惑いが映っていた。
そっと口づけ、眼差しを交わす。
「本当に、君を・・・好きになって、良いのか?」
暗がりの中の彼の表情が、歪む。
頬に添えられた手に呼ばれ、顔を寄せ合う。
言葉は、無かった。
ただ、震える吐息と、頬骨を掠めた涙の感触が、彼の安堵を伝えてくれた。
「おはようございます」
朝食場所であるビュッフェレストランに現れた彼は、眠たげな顔をして俺の前に立つ。
開き切らない赤い目を、口元の笑みで誤魔化そうとしているのは明らかだった。
「おはよう・・・眠れた?」
伏し目がちに首を振った彼の顔を、朝日が照らす。
「でも、まぁ・・・後は帰って、社内でミーティングが終われば、明日は代休なんで」
「そうか」
俺の顔に、夜のひと時が過ったのか。
つい数時間前の出来事を懐かしむような表情を浮かべ、一つ息を吐いた。
「では、また、後程」
「ああ。あと少しだから、頑張って」
「ありがとうございます」
帰りの特急の中、トイレに立った際に目にした彼は、座席に埋もれるよう微睡に落ちていた。
隣には、その様子を愛おしそうに眺める女。
通り過ぎた一瞬、心の中を居た堪れなさが覆う。
皮肉な運命に、彼は、立ち向かうのだろうか。
犠牲を生まない恋心は、存在しないのだろうか。
傍らの車窓には、既に市街地の光景が流れ始めていた。
旅に出る。
敢えてそう伝えておいたから、この一泊二日、携帯に業務連絡が入ることは無かった。
その代わり、事務所のパソコンには何通ものメールが届いている。
仕事に身を沈めて来た本領が発揮されたのか、溜め息一つで旅の余韻が飛んでいく。
プリンタが吐き出したスケッチを手に、机に向かい、頭の中で構想を組み立てる。
身体の疲れを実感するにつれ、更に思考が冴えてくるようだった。
不意に鳴りだした携帯電話が、時間の流れに気づかせてくれる。
顔を上げた先の窓では、夜が大分深くなっていた。
電話のディスプレイに表示された名前に、鼓動が僅かに乱れる。
闇の中で抱き締めた身体の感触が、全身に絡みつくよう蘇る。
「すみません、こんな時間に。もう、お休みでしたか?」
そういう声で、今の時間を正確に把握する。
「いや、大丈夫。仕事してたよ」
「お疲れ様です」
労いの言葉に被る、走りゆく車の音。
「今、帰り?」
「ええ、ちょっと・・・」
そのトーンの低さは、疲れや睡眠不足だけが原因では無さそうだった。
しばらく無言の時が流れる。
入り乱れる感情に決着を付けたのかも知れない。
電波に変換された彼の溜め息には、深い心痛が込められていた。
「・・・声が、聞きたくて」
引きつった口調に、どんな真意が隠れていたのかは分からなかったけれど
手を差し伸べられていることは、確かだったと思う。
「今から、来られるかい?」
誰も招き入れたことの無かった部屋に立つ男に、心がざわめく。
俯く彼の身体を、ただ、抱き締めた。
冷えたスーツの中にある身体の強張りが徐々に解けるのを感じながら
ひたすら真っ直ぐな想いを、互いに寄せ合っていた。
「もう少し・・・このまま、で」
「構わない。君の気が、済むまで」
俺の声に目を閉じた彼の顔が、肩口に埋もれていく。
誰も傷つけたくない。
大切な人だから、だからこそ、悲しい顔をさせるのは耐えられなかった。
狭いベッドに腰掛けた彼は、そう呟いた。
自らのことを何処まで話したのかは、聞かなかった。
「分かってくれるさ。そう、信じるしか、無い」
静かに頷く彼は、何処かに罪悪感を抱えているように見える。
すれ違ってしまった二人、手を取り合うことが出来た二人。
残酷な現実を、憂えているのかも知れない。
「だから、今は」
その肩を抱き、視線を重ねるようにこちらを向かせる。
「俺だけを、見てれば良い」
齢を重ねた心は、遅すぎた春に浮かされることは無いものの
短い夜を重ねる毎に、感情を彩る色が増えていく。
それはとても新鮮な出来事で、今まで知らなかったことに悔しさすら感じる。
共にいられる時間は、それほど長くは無いのだろう。
だからこそ、一瞬の交錯を逃さないように、手を伸ばしていたいと思う。
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