花火★(3/7)
シャワーから上がると、小さな鏡の前で化粧を直す彼女がいた。
「一緒に出るとこ見られても、あれだから、先に出ちゃうね」
僅かに紅潮した顔は、男と交わることが無くても、絶頂に達した証し。
満足そうな瞳に、惨めな想いだけが大きくなっていく。
「今日は、ありがとう。楽しかった」
ヒールを履いた彼女は、少し屈んで俺の頬にキスを残し、部屋を出ていった。
「何なんだよ!」
ベッドに枕を投げつけても、モヤモヤが晴れる訳じゃない。
もう二度と訪れないであろうチャンスを逃した徒労感。
男としての尊厳を砕かれた絶望感。
こんなことなら、いっそのことフラれた方がよっぽど、マシだ。
ホテルを出ると、小雨がぱらついていた。
折り畳み傘は、あいにく持っていなかった。
見ると、薄暗い裏通りに何枚ものダンボールが散乱している。
きっと、酔っ払いが蹴飛ばしていったんだろう。
迷惑な奴だ、そう思いながら、避けて歩く。
先客がいなかったら、俺がやりたかった。
「やっておいてって、頼んだよね?」
次の日の夕方。
真砂さんは珍しく厳しい口調で俺に言った。
「まだこれしか出来てないって、どういうこと?」
「・・・ちょっと、急用が、入って」
「どうでも良い作業を頼んでる訳じゃないんだよ。流れが止まるって、分かるでしょ?」
俺が書いた図面を基に、詳細を詰めていく。
その予定は、事前に聞いていた。
「まだ、時間があるかと・・・」
「時間があるかどうか決めるのは、オレだよ」
「すみません、今日中には、必ず」
煮え切らない溜め息を吐いた彼は、眼鏡を指で押し上げて俺を見る。
「どうしても無理な時は、オレに言って。スケジュール、組み直すから」
「分かりました・・・本当に、すみません」
顔を上げた先には、東郷さんの姿があった。
俺と一瞬目を合わせた彼女は、すぐに視線を脇の男に移す。
まるで、昨日の夜のことなど何も覚えていないような、そんな素振りだった。
最悪な気分の中に、警笛の音が潜り込む。
俺は未だに、自分のパソコンに向かっている。
画面にはやりかけの図面。
背後でペンを走らせていた音が止む。
無意味な夜を過ごす為に投げ出した時間の代償は、大きい。
深呼吸のつもりで吐いた溜め息が、気力まで奪ってしまうようだった。
「帰ろう。まだ、走れば間に合う」
背後から俺の肩を叩いた先輩は、そう言っていつもの疲れた笑みを見せる。
「え、でも、まだ・・・」
「良いよ、明日で。時間は、まだあるから」
無理矢理奪われたマウスのポインタが、画面を閉じ、パソコンの電源を落とす。
「ごめん、少し、言い過ぎたね。・・・ほら、早くしないと、二回目が鳴るよ」
今年の梅雨は、少し長めらしい。
7月の下旬、コンペの一次審査を通過したという連絡を受けた日。
夜飯を買いに会社を出たところで、雨の中で立ち話をする二人を見かけた。
真砂さんと、東郷さんだった。
相変わらず冴えない表情の男と、勝気な表情を見せる女。
厄介な雰囲気を避けるよう距離を置こうとした時、彼女の声が耳に届いた。
「真砂君、彼に随分優しいけど。あの人、あなたの仕事投げ出して、私とデートしてたのよ」
思い出したくない夜の記憶が蘇る。
どうして、そんな事を言う必要があるのか。
俺を貶めて、彼の気分を煽る材料にしようとしているかも知れない。
「・・・それが、何?」
「でもね、折角ホテルまで誘ってあげたのに、勃たなかったの」
彼女に対して少しでも気があれば、その話は男にとって抜群の効果を表す。
自分だったら、そんな思いをさせない。
本能的な自信が、他人を踏み台にして芽生えてくるはずだ。
けれど、彼女の目の前の男に、その手法は通じなかったらしい。
「最低だな」
聞いたことの無い、冷たい声。
「はっきり言っておくけど、オレ、あんたのこと、嫌いだから」
蒸し暑い空気が、一気に凍えるようだった。
「何それ。・・・最悪」
女の捨て台詞を背に、男はこちらに向かって歩いてくる。
「飯買いに行くの?オレも行くよ」
困ったような、ホッとしたような、そんな顔を、俺には見せた。
「・・・良いんですか」
「別に。やっと、すっきりした」
肩に腕を回され、彼女に向けた俺の視線が引き剥がされる。
彼は振り向くことなく、歩き始める。
雨は随分勢いを増し、店に着く頃には、スラックスの裾はすっかり変色してしまっていた。
□ 76_花火★ □
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「一緒に出るとこ見られても、あれだから、先に出ちゃうね」
僅かに紅潮した顔は、男と交わることが無くても、絶頂に達した証し。
満足そうな瞳に、惨めな想いだけが大きくなっていく。
「今日は、ありがとう。楽しかった」
ヒールを履いた彼女は、少し屈んで俺の頬にキスを残し、部屋を出ていった。
「何なんだよ!」
ベッドに枕を投げつけても、モヤモヤが晴れる訳じゃない。
もう二度と訪れないであろうチャンスを逃した徒労感。
男としての尊厳を砕かれた絶望感。
こんなことなら、いっそのことフラれた方がよっぽど、マシだ。
ホテルを出ると、小雨がぱらついていた。
折り畳み傘は、あいにく持っていなかった。
見ると、薄暗い裏通りに何枚ものダンボールが散乱している。
きっと、酔っ払いが蹴飛ばしていったんだろう。
迷惑な奴だ、そう思いながら、避けて歩く。
先客がいなかったら、俺がやりたかった。
「やっておいてって、頼んだよね?」
次の日の夕方。
真砂さんは珍しく厳しい口調で俺に言った。
「まだこれしか出来てないって、どういうこと?」
「・・・ちょっと、急用が、入って」
「どうでも良い作業を頼んでる訳じゃないんだよ。流れが止まるって、分かるでしょ?」
俺が書いた図面を基に、詳細を詰めていく。
その予定は、事前に聞いていた。
「まだ、時間があるかと・・・」
「時間があるかどうか決めるのは、オレだよ」
「すみません、今日中には、必ず」
煮え切らない溜め息を吐いた彼は、眼鏡を指で押し上げて俺を見る。
「どうしても無理な時は、オレに言って。スケジュール、組み直すから」
「分かりました・・・本当に、すみません」
顔を上げた先には、東郷さんの姿があった。
俺と一瞬目を合わせた彼女は、すぐに視線を脇の男に移す。
まるで、昨日の夜のことなど何も覚えていないような、そんな素振りだった。
最悪な気分の中に、警笛の音が潜り込む。
俺は未だに、自分のパソコンに向かっている。
画面にはやりかけの図面。
背後でペンを走らせていた音が止む。
無意味な夜を過ごす為に投げ出した時間の代償は、大きい。
深呼吸のつもりで吐いた溜め息が、気力まで奪ってしまうようだった。
「帰ろう。まだ、走れば間に合う」
背後から俺の肩を叩いた先輩は、そう言っていつもの疲れた笑みを見せる。
「え、でも、まだ・・・」
「良いよ、明日で。時間は、まだあるから」
無理矢理奪われたマウスのポインタが、画面を閉じ、パソコンの電源を落とす。
「ごめん、少し、言い過ぎたね。・・・ほら、早くしないと、二回目が鳴るよ」
今年の梅雨は、少し長めらしい。
7月の下旬、コンペの一次審査を通過したという連絡を受けた日。
夜飯を買いに会社を出たところで、雨の中で立ち話をする二人を見かけた。
真砂さんと、東郷さんだった。
相変わらず冴えない表情の男と、勝気な表情を見せる女。
厄介な雰囲気を避けるよう距離を置こうとした時、彼女の声が耳に届いた。
「真砂君、彼に随分優しいけど。あの人、あなたの仕事投げ出して、私とデートしてたのよ」
思い出したくない夜の記憶が蘇る。
どうして、そんな事を言う必要があるのか。
俺を貶めて、彼の気分を煽る材料にしようとしているかも知れない。
「・・・それが、何?」
「でもね、折角ホテルまで誘ってあげたのに、勃たなかったの」
彼女に対して少しでも気があれば、その話は男にとって抜群の効果を表す。
自分だったら、そんな思いをさせない。
本能的な自信が、他人を踏み台にして芽生えてくるはずだ。
けれど、彼女の目の前の男に、その手法は通じなかったらしい。
「最低だな」
聞いたことの無い、冷たい声。
「はっきり言っておくけど、オレ、あんたのこと、嫌いだから」
蒸し暑い空気が、一気に凍えるようだった。
「何それ。・・・最悪」
女の捨て台詞を背に、男はこちらに向かって歩いてくる。
「飯買いに行くの?オレも行くよ」
困ったような、ホッとしたような、そんな顔を、俺には見せた。
「・・・良いんですか」
「別に。やっと、すっきりした」
肩に腕を回され、彼女に向けた俺の視線が引き剥がされる。
彼は振り向くことなく、歩き始める。
雨は随分勢いを増し、店に着く頃には、スラックスの裾はすっかり変色してしまっていた。
□ 76_花火★ □
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