一縷(4/6)
「彼とは、恋人同士でした」
そうだろうと思っていても、本人の口から聞くと、やはり衝撃的だった。
「あの夜、別れたのですが」
俺が側を通りかかった日のことだろう。
「私が心変わりをした、と思い込んでしまっていまして」
まぁ、よくあること、かも知れない。
「どうやら、その相手が・・・吉岡さんだと」
「な・・・どうしてですか?」
「分かりません。物件の担当だと言う話しかしていなかったのですが」
頻繁に打合せをしているわけでも無いし、そんな素振りももちろん無い。
どうしてそんな風に思われているのか、全く心当たりが無かった。
勝手な思い込みで恋人と別れ、勝手な思い込みで赤の他人に怒りをぶつける。
性別を限らない恋愛感情の複雑さに、目眩がする思いだった。
「私から、二度とこんなことが無いように、言っておきますので」
佐々木さんは、名刺入れから自身の名刺を取り出すと、それを破る。
「あの時、揉めていた相手は彼なんですか?」
顔色を伺いながら、それとなく聞いてみる。
「そうです」
「助けられずに・・・すみませんでした」
「さっきも言ったとおり、あれで良かったんですよ」
目の上の傷を触りながら、苦笑した。
「あそこで貴方が出てきたら、殴られていたのは、私じゃなかったかも知れません」
佐々木さんの手が、不意に俺の唇に触れる。
「私の方こそ、すみませんでした」
初めて見る切なげな表情に、言葉が出なかった。
「まだ、彼のことが?」
俺は首元に光る指輪を見ながら、そう聞いてみた。
「一生共に、と言っていた時期もありました」
指輪を弄りながら、目を細める。
「そうそう、断ち切れるものでは」
佐々木さんは目を細めて、俯く。
傷心を抱える佐々木さんに同情する気持ちと共に
勝手にその関係に引きずり込まれた困惑が、俺の中に生まれていた。
顔の傷も癒え、スケジュールの厳しい案件も、何とか形になって来た頃。
あれから、佐々木さんとはメールや電話でのやり取りはあったけれど
直接顔を合わせる機会は無かった。
暗い路地を歩く際に抱いていた恐怖心も、やっと治まって来た。
そんな中で、新規案件の話が舞い込んでくる。
打合せに来てくれないかと言ったのは、ヒグチの坂口さんだった。
正直、あまり行く気はしなかったが、仕事となればそうは言っていられない。
「郊外型のショッピングモールなんだけど」
坂口さんは、基本計画書のファイルを広げた。
「大きいですね。これ、全体ですか?」
「いや、うちの担当は、こっちの敷地の棟」
まだ計画段階と言うことだが、大手のスーパーを核とした商業施設になる予定とのこと。
いつも手がけている図面とスケールが違いすぎて、建物の規模がぱっとは浮かばないほどだ。
「基本設計はうちでやるから、詳細を、吉岡さんのところで詰めてもらいたいんだ」
「実際の作業は、もうちょっと先ですかね」
「そうだね。一先ず、見積りからお願いして良いかな」
これだけの大きな物件は、うちではあまりやることが無い。
持って帰って、上と相談だな、と考える。
「そう言えば、佐々木の方の物件は、まとまりそう?」
雑談の中で、そんな話が出る。
「ええ、今週中には提出させて頂く予定です」
「スケジュール大変だったでしょう」
「まぁ、何とか」
とりあえず、笑ってごまかす。
持ちつ持たれつの関係の中、赤を切らざるを得ない物件も少なからずある。
佐々木さんの物件は、その一つになりそうだったからだ。
「今回の物件については、出来るだけ上積みして払えるようにするから」
雰囲気を察してくれたのか、坂口さんはそう言って笑った。
エレベーターを待つ。
ホールから見える空は、今にも雨が降り出しそうな曇天だった。
「降りそうだねぇ」
「そうですね」
「傘、ある?」
「折り畳みがあるんで、大丈夫です」
そう話しているうちに、エレベーターが着き、扉が開く。
中から出てくる人物を見て、俺は背筋が凍る思いをした。
ヤツだ。
俺に不敵な笑みを投げかけて、フロアの奥へ消えていく。
恐怖と気まずさで、動けなかった。
「どうした?」
坂口さんに声を掛けられ、我に返る。
明らかに表情の変わった俺を見て、ちょっと良いかな、と彼は言った。
□ 09_一縷 □
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そうだろうと思っていても、本人の口から聞くと、やはり衝撃的だった。
「あの夜、別れたのですが」
俺が側を通りかかった日のことだろう。
「私が心変わりをした、と思い込んでしまっていまして」
まぁ、よくあること、かも知れない。
「どうやら、その相手が・・・吉岡さんだと」
「な・・・どうしてですか?」
「分かりません。物件の担当だと言う話しかしていなかったのですが」
頻繁に打合せをしているわけでも無いし、そんな素振りももちろん無い。
どうしてそんな風に思われているのか、全く心当たりが無かった。
勝手な思い込みで恋人と別れ、勝手な思い込みで赤の他人に怒りをぶつける。
性別を限らない恋愛感情の複雑さに、目眩がする思いだった。
「私から、二度とこんなことが無いように、言っておきますので」
佐々木さんは、名刺入れから自身の名刺を取り出すと、それを破る。
「あの時、揉めていた相手は彼なんですか?」
顔色を伺いながら、それとなく聞いてみる。
「そうです」
「助けられずに・・・すみませんでした」
「さっきも言ったとおり、あれで良かったんですよ」
目の上の傷を触りながら、苦笑した。
「あそこで貴方が出てきたら、殴られていたのは、私じゃなかったかも知れません」
佐々木さんの手が、不意に俺の唇に触れる。
「私の方こそ、すみませんでした」
初めて見る切なげな表情に、言葉が出なかった。
「まだ、彼のことが?」
俺は首元に光る指輪を見ながら、そう聞いてみた。
「一生共に、と言っていた時期もありました」
指輪を弄りながら、目を細める。
「そうそう、断ち切れるものでは」
佐々木さんは目を細めて、俯く。
傷心を抱える佐々木さんに同情する気持ちと共に
勝手にその関係に引きずり込まれた困惑が、俺の中に生まれていた。
顔の傷も癒え、スケジュールの厳しい案件も、何とか形になって来た頃。
あれから、佐々木さんとはメールや電話でのやり取りはあったけれど
直接顔を合わせる機会は無かった。
暗い路地を歩く際に抱いていた恐怖心も、やっと治まって来た。
そんな中で、新規案件の話が舞い込んでくる。
打合せに来てくれないかと言ったのは、ヒグチの坂口さんだった。
正直、あまり行く気はしなかったが、仕事となればそうは言っていられない。
「郊外型のショッピングモールなんだけど」
坂口さんは、基本計画書のファイルを広げた。
「大きいですね。これ、全体ですか?」
「いや、うちの担当は、こっちの敷地の棟」
まだ計画段階と言うことだが、大手のスーパーを核とした商業施設になる予定とのこと。
いつも手がけている図面とスケールが違いすぎて、建物の規模がぱっとは浮かばないほどだ。
「基本設計はうちでやるから、詳細を、吉岡さんのところで詰めてもらいたいんだ」
「実際の作業は、もうちょっと先ですかね」
「そうだね。一先ず、見積りからお願いして良いかな」
これだけの大きな物件は、うちではあまりやることが無い。
持って帰って、上と相談だな、と考える。
「そう言えば、佐々木の方の物件は、まとまりそう?」
雑談の中で、そんな話が出る。
「ええ、今週中には提出させて頂く予定です」
「スケジュール大変だったでしょう」
「まぁ、何とか」
とりあえず、笑ってごまかす。
持ちつ持たれつの関係の中、赤を切らざるを得ない物件も少なからずある。
佐々木さんの物件は、その一つになりそうだったからだ。
「今回の物件については、出来るだけ上積みして払えるようにするから」
雰囲気を察してくれたのか、坂口さんはそう言って笑った。
エレベーターを待つ。
ホールから見える空は、今にも雨が降り出しそうな曇天だった。
「降りそうだねぇ」
「そうですね」
「傘、ある?」
「折り畳みがあるんで、大丈夫です」
そう話しているうちに、エレベーターが着き、扉が開く。
中から出てくる人物を見て、俺は背筋が凍る思いをした。
ヤツだ。
俺に不敵な笑みを投げかけて、フロアの奥へ消えていく。
恐怖と気まずさで、動けなかった。
「どうした?」
坂口さんに声を掛けられ、我に返る。
明らかに表情の変わった俺を見て、ちょっと良いかな、と彼は言った。
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