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偽名★(3/10)

「いらっしゃいませ」
出社前、毎朝立ち寄るコーヒーショップ。
俺の姿を認めた店員は、レジに着くと同時にコーヒーを一杯差し出してくる。
予定調和の動きにホッとしながら、大きな手に代金を乗せた。
「おはようございます。今日は暑いですね」
「・・・そうですね」
いつもと変わらない様子に、やっと、気持ちが落ち着いた気がする。
「明日からは、アイスにしましょうか?」
昨日の夜、俺を助けてくれた男は、ずれた眼鏡のレンズに収まりながら微笑んだ。

彼がこの店に来たのは、1年くらい前。
競合店が近くにオープンし、目に見えて客足が減ってきた頃だった。
そんな時期に店長として配属されるくらいだから、ある意味切り札でもあったんだろう。
日が経つごとに、サービスよりも価格で勝負と言う雰囲気が徐々に緩和され
店内のテーブル配置やディスプレイにも工夫が凝らされていく。
半年も過ぎない内に、感覚的な客の数は元に戻っていたように思われるほどだった。

朝のシフトが多いのか、彼と顔を合わせる機会は多く
淡いグレーの制服に包まれた上背のある姿が、日常になりつつあった。
「昨日はお休みだったんですか?」
たまに立ち寄れない日があると、翌日にはそんな声を掛けてくれる。
ささやかなやり取りで得られる満足感は、支払う代金以上に大きかった。


窓際のカウンターに座り、行き交う車を見ながらコーヒーに口を付ける。
湯気に曇ったレンズがサッと晴れ、再び開けた視界に、一人の男が映った。
スーツを着た、背が低い太った男。
別人だと認識する頭とは裏腹に、カップを持つ手の震えが止まらない。
暗がりに浮かぶ卑しい顔、首筋を舐る熱い舌、下半身を圧迫する体重。
感覚と共に思い返される恐怖が、頭の中を巡った。

ソーサーに戻そうとしたカップが的を外れ、落ち着かない指から滑り落ちる。
陶器が砕ける鋭い音と共に、零れたコーヒーがスラックスに染みを残した。
「大丈夫ですか?」
背後から聞こえた声で、我に返る。
「あ・・・すみません・・・」
カウンターチェアから降りた俺に、店長が少し心配そうな顔で近寄ってくる。
「あの、これ・・・」
「構いませんよ。それより、火傷とか、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫、です」
屈みこんだ彼が、持っていた布巾でコーヒーがかかった俺の脚を軽く叩く。
柔らかい感触が微かな痛みをじんわりと広げていった。
「しばらく、こうやって叩いてみて下さい。多少目立たなくなると思うんで」
布巾を差し出しながら、申し訳の立たない俺を宥めるように優しい眼を向けてくれた。

若い男の店員が、テーブルを拭き、モップで床を掃除している。
他の席に促された俺の元に、再び彼がやって来た。
「こちら、どうぞ」
差し出された、一杯のコーヒー。
「でも・・・」
「お気になさらず」
見上げる俺を刺す真っ直ぐな眼差しに、思わず怖くなって目を逸らした。
その手が肩に触れた瞬間に襲った身体の強張りを、彼は感じてしまっただろうか。
何かを言いかけた彼は、口をつぐみ、僅かな笑みを浮かべる。
気付かれているのかも知れない。
微かな不安が、俺の心の影に小さな波紋を残した。


「樋口君、随分疲れた顔してるね」
机に並べられたFAXとメールを手に取る俺に、向かいの席の津久井さんが笑いながら言った。
「ああ、いえ。ちょっと寝不足で」
「若いからって、無茶しちゃダメだよ?」
綺麗に剃られた頭を撫でながら、彼は手元の缶コーヒーを呷る。

確認申請の代行業務を請け負うウチの会社には、他所のゼネコンや設計事務所をリタイアした人が多く
俺のように新卒で入ったのは、ごく少数だ。
経験則がものを言う世界。
今はまだ、法規の読み解きと受領した資料の整理で精いっぱいで
早期退職を経て、この会社にやって来た津久井さんの下、経験値を貯める毎日を過ごしていた。

「府中の条例、取ってくれる?」
幾つか抱える案件の中にある、府中市のパチンコ屋増築工事。
どうやら新築の時点で法令不適合箇所があったらしく、その部分も含めた指摘を何回も繰り返している。
「金が無いのは分かるけど、最低限の法は遵守して貰いたいねぇ」
分厚い束を捲りながら、ベテランは呆れたように笑う。
「やっぱり、コスト優先なんでしょうね」
「何で、こう言う規則があるのか、分かってないんだろうな」
内容に納得したのか、小さく頷いた彼は、細かな字で指摘事項を書き込んだ用紙を手渡してきた。
「じゃ、これ、事務所にFAXしておいて」
「分かりました」


「まだ、お仕事なんですか?」
残業になった夜、気分転換に足を運んだ店に、珍しく彼が立っていた。
「ちょっと、忙しくなってきて」
「大変ですね」
「しばらくはバタバタしそうです」
「じゃあ、行き詰ったら、こちらで息抜きしていって下さい」
コーヒーを差し出してきた彼の指が、不意に俺の手に触れる。
思わず手を引っ込めてしまった俺と目を合わせる事なく、彼は呟いた。
「・・・早く、落ち着くと、良いですね」

□ 64_偽名★ □
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黒革のロングコート

このコーヒーショップはファーストフードのコーヒーショップなんでしょうか?カップが紙でないから、普通のお店かしらね?
普段、ファーストフードには滅多に入らない私。
家人に持ち帰り用の鶏の唐揚げを頼まれて、牛丼とうどんがメインの某店へ一昨日の夜に初めて行ったんですが、食券売り場で戸惑って…。
そしたら、先に食券を購入していた二人組の大学生の一人が、
「食券を買ってあげます」
と、パネル操作してくれました。お釣りをとったら
「100円、取り忘れてますよ」
今どきのカッコいい大学生のお兄さん、親切でちょっと感激。
この黒革のロングコート、男受けがいいのかな?
昨夜、夫が迎えに行けなかったので私が娘を迎えに行った時。英語塾の前でボッーとして待っていたら、観光客の男性に、
「ここは何通り?」
大通りでもないのに、知らんわw

黒革のロングコートを着て女装したら、男性の食い付きが凄いんじゃないかしらね?
ふと、思いましたw勿論、スカートで。
ちなみに、つけていた香水は、シャネルのエゴイスト/ プラチナム。男性用だけど、甘い感じなので女性の愛用者も多いです。

ごく、日常。

何しろ毎日家と会社の往復ですから
足を運ぶ店と言えば、コンビニやファストフードが殆どです。
私の書く話にそういった店が度々出て来るのは、その為です。
馴染みの無い雰囲気は、やはり書くのにも苦労してしまうので…。

甘い香りを僅かに漂わせる黒革のロングコートの女性に声を掛けるのは
なかなか勇気がいりそうです。
その雰囲気に、気圧されてしまいそうで。
Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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