全て忘れようと努力してきたものが、1枚の名刺で蘇る。
トラウマのように残った恐怖と、復讐心。
それらを抑えて、冷静に仕事を進めることが出来るのか、不安だった。

「設計の佐藤さん宛に、上原電気設備の久須美様がいらっしゃってますが」
下の警備室からそう連絡が来たのは、夜も7時を回ってからだった。
オレの都合でこの時間になったのだけれど、それで良いと言ってきたのは先方だ。
「12階の打合室まで来るよう、お伝えください」
首から提げたIDを胸ポケットにしまい、オレは打合室へ向かう。

ここの打合室は、以前はオープンスペースだったが
昨今の情報漏えい問題への危機意識から、パーティションで仕切られるようになった。
可動式だから大人数でも対応できるが、そんな光景はまだ見たことが無い。

全ての意識を振り払うように、ドアを開ける。
「お世話になります」
そう言って、彼は立ち上がる。
「上原電気設備設計の久須美と申します。宜しくお願い致します」
数年前と比べれば多少雰囲気は変わっているが、紛れも無く、本人だ。
「設計を担当してます、佐藤と申します」
名刺を渡しても、彼は何か気付く風も無く、普通にテーブルの上へ置く。
平凡な苗字で良かった、そんなことを思う。

一通り、物件の概要を説明する。
今日は直接設計にかかわる打合せではないと言うことだったので
あまり詳細は詰めず、電力会社との協議や、機械設備・消防設備との連携など
主だったところの話で終わらせた。

「今回は、それほど規模も大きくありませんので、金額的にも無理を言ってしまいましたが」
「いえ、今後ともムトウ建設さんのお仕事が出来るよう、頑張りますので」
こんな殊勝なことも言えるのか。
「小さい事務所ですので、大手のゼネコンさんの物件が出来るだけ、助かります」
彼の表情に、僅かな不安が見て取れた。
あの時とは違う。
立場は、オレの方が上だ、そう実感した。
心の闇に仕舞われていたものが、次第に顔を出す。

「珍しいお名前ですよね、久須美さんって」
「ええ、良く言われます。印象に残るようなので、そう言う意味では便利ですね」
「私は平凡な苗字ですので、憧れますよ」
思ってもいない事を言ってみる。
目頭を押さえる振りをして、度の入っていない眼鏡を外す。
ゆっくり顔を上げ、彼を見る。
彼はオレの顔を見て、やっと気がついたらしかった。
「覚えてますか。この傷」
固まった彼の表情を見て、心の底から楽しくなる。
「お久しぶりですね。久須美、主任」


「どうして、君が、ここに？」
よっぽど驚いたのか、上手くろれつが回っていない。
「あれから色々ありまして」
何か信じられないものでも見るような目だ。
「おかげ様で、こちらに転職できたんですよ」
「そ、そう」
俺は席を立ち、彼の側に立つ。
「あの時は、本当にお世話になりました。勉強になりましたよ。いろいろと」
彼に渡した自分の名刺を手に取り、眺める。
「この物件、本当に担当なされます？」
「どういう・・・」
「私のこと、心底嫌ってましたもんねぇ」
複雑な表情を浮かべる彼を見下ろす。
「私情挟まれて適当に仕事されたんじゃ、こっちも困るんですよ」
大人気ない、そう思いつつ、つい口に出た。
「お宅の替わりは、幾らでもいますから」
彼は唇をかみ締め、資料を睨みつける。

しばらくの沈黙を置いて、目を伏せた彼は言う。
「誠心誠意、やらせていただきますので、どうかうちに」
「そうですか」
「担当が気に入らないようであれば、私以外の者が受け持ちますし」
「私は良いですよ、あなたで」
前屈みになり、彼の耳元で囁く。
「精々頑張って下さいね」
歯を食いしばり、拳を握り締める彼を眺める気分は、爽快だった。
以前の彼なら、既にオレは殴られていただろう。
でも、今は違う。
彼の立場がそれを許さないことを、彼も、オレも知っている。

□ 08_象徴★ □　　　
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