真偽★(2/13)
ぎこちない舌の動きが、却って快感を呼ぶ。
机の上に放り出された数学のテキストとノート。
細かな字でびっしりと書き込まれているノートには、好感が持てた。
けれど、彼は、彼じゃない。
遠い記憶にある、その表情を思い浮かべながら、僕は生徒から受ける奉仕に酔いしれる。
教科室の内線電話が鳴る。
眼下で蠢く頭を制し、電話を取った。
「数学教科室です」
「及川先生に、弥生教材の間宮様がいらっしゃってます」
「分かりました。すぐ行きます」
短いやり取りを見ていた彼は、何処か切なげな表情を浮かべている。
「悪いね、大事なお客さんなんだよ」
紅潮した顔を腕の中に引き寄せ、髪にそっと唇を寄せた。
「また、後でおいで」
玄関の片隅に立つ男の姿を見て、思わず息を飲んだ。
あれから、どのくらい経つだろう。
忘れられなかった面影は、そのままだった。
「間宮君」
振り向いた彼は、穏やかな顔で微笑みながら会釈をする。
「久しぶりだね。何年ぶりかな」
「もう、6、7年になるかと」
「何にせよ、元気そうで良かったよ」
「及川先生も、お元気そうで」
職員室にある応接スペースで名刺交換をするのは、僕が赴任したばかりの時に在校していた卒業生。
直接受け持った期間は短かったけれど、真面目で理論派な彼に好感を持つまで時間はかからなかった。
「最近の進学率は、どうなんですか」
薄いお茶を口にしながら、彼はそう会話を切り出して来る。
「横ばいってところじゃないかな。進学先も、昔に比べれば幅が出て来てるよ」
「幅?」
「てっぺんだけじゃなく、自分が本当にしたいことが出来る所を選ぶ子もいてね」
「海外、とか?」
「少なくは無いね」
この学校の売りは、難関大学への進学率の高さ。
それは、僕がここで学んでいた時から変わらない。
文科省の方針にも何処吹く風のスパルタな経営方針は、PTAからの絶大な信頼も得ている。
しかし、学校は大人の力だけでは回らない。
時代も変わり、生徒たちの人生観も変わって来ているのだろう。
進路指導でも、決まりきった道を敢えて選ばない生徒が増えてきているのは、確かだった。
「間宮君は、仕事は順調なの?」
「ええ、まぁ、まだ駆け出しなんですが」
卒業以来年賀状だけのやりとりだった彼が、突然電話を寄越して来た理由。
「教材はね・・・基本、ウチの学校は大手で一括しちゃってるから」
「そこを何とかと思って。初めは母校に行って来いと言うのが慣例で」
彼はそう言いながら、いくつかのテキストをテーブルに並べる。
難関大学用と銘打たれたテキストを手に取り、ページを繰る。
「大学の数学科で習うような証明メソッドや幾何学も扱ってます」
言葉通り、難解な問題が並ぶ。
代数・幾何・解析・・・こんな問題に生徒たちがついて来られるのか、不安になる程だ。
「相当ハイレベルだね」
僕の表情を窺うように視線を送る営業マンに、とりあえずの感想を告げる。
「先生からそんな言葉を貰えるって言うのは、褒め言葉として受け取って良いんですか?」
緊張で固まっていたような表情が、俄かに綻ぶ。
その言葉に、思わず顔が緩んだ。
「センターや二次試験にも、十分対応できる内容になってます」
「理論展開が面白いね。僕好みだな」
「そう思って、お持ちしました」
事実、学校で用いる教材は大手の会社が取り仕切っている。
幸いなのは、数学の教科主任は個人主義が過ぎるような人で
教材についても、各教師での検討の余地が残されていた。
これだけの完成度があれば、先輩方を説得するには十分だろう。
「及川先生はいらっしゃいますか?」
不意に職員室の入り口で呼ぶ声に、視線を上げた。
そんな顔で来るなと、言っているのに。
途中で放棄された疼きに耐えられないのだろうか。
「ああ、今、接客中だから・・・また後で来てくれるかな」
もどかしげな、寂しげな視線を僕と客に向け、生徒は去って行く。
あまり入れ込まない内に、手を離した方がいいのかも知れない。
チャイムの音が、学校に響く。
目の前の彼は、懐かしむように壁に設置されたスピーカーを見上げる。
「懐かしいかい?」
「そうですね、あの頃に戻ったみたいです」
何気ないその一言に、押し込んでいた感情が顔を覗かせる。
もし、過去に戻れたのなら。
もっと正しい解法が、あったはずなのに。
時の経過を悔やみながら、気を取り直し、彼に笑いかける。
「あの時は、こんな風にここで商談するなんて、思いも寄らなかったけどね」
□ 54_真偽★ □
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机の上に放り出された数学のテキストとノート。
細かな字でびっしりと書き込まれているノートには、好感が持てた。
けれど、彼は、彼じゃない。
遠い記憶にある、その表情を思い浮かべながら、僕は生徒から受ける奉仕に酔いしれる。
教科室の内線電話が鳴る。
眼下で蠢く頭を制し、電話を取った。
「数学教科室です」
「及川先生に、弥生教材の間宮様がいらっしゃってます」
「分かりました。すぐ行きます」
短いやり取りを見ていた彼は、何処か切なげな表情を浮かべている。
「悪いね、大事なお客さんなんだよ」
紅潮した顔を腕の中に引き寄せ、髪にそっと唇を寄せた。
「また、後でおいで」
玄関の片隅に立つ男の姿を見て、思わず息を飲んだ。
あれから、どのくらい経つだろう。
忘れられなかった面影は、そのままだった。
「間宮君」
振り向いた彼は、穏やかな顔で微笑みながら会釈をする。
「久しぶりだね。何年ぶりかな」
「もう、6、7年になるかと」
「何にせよ、元気そうで良かったよ」
「及川先生も、お元気そうで」
職員室にある応接スペースで名刺交換をするのは、僕が赴任したばかりの時に在校していた卒業生。
直接受け持った期間は短かったけれど、真面目で理論派な彼に好感を持つまで時間はかからなかった。
「最近の進学率は、どうなんですか」
薄いお茶を口にしながら、彼はそう会話を切り出して来る。
「横ばいってところじゃないかな。進学先も、昔に比べれば幅が出て来てるよ」
「幅?」
「てっぺんだけじゃなく、自分が本当にしたいことが出来る所を選ぶ子もいてね」
「海外、とか?」
「少なくは無いね」
この学校の売りは、難関大学への進学率の高さ。
それは、僕がここで学んでいた時から変わらない。
文科省の方針にも何処吹く風のスパルタな経営方針は、PTAからの絶大な信頼も得ている。
しかし、学校は大人の力だけでは回らない。
時代も変わり、生徒たちの人生観も変わって来ているのだろう。
進路指導でも、決まりきった道を敢えて選ばない生徒が増えてきているのは、確かだった。
「間宮君は、仕事は順調なの?」
「ええ、まぁ、まだ駆け出しなんですが」
卒業以来年賀状だけのやりとりだった彼が、突然電話を寄越して来た理由。
「教材はね・・・基本、ウチの学校は大手で一括しちゃってるから」
「そこを何とかと思って。初めは母校に行って来いと言うのが慣例で」
彼はそう言いながら、いくつかのテキストをテーブルに並べる。
難関大学用と銘打たれたテキストを手に取り、ページを繰る。
「大学の数学科で習うような証明メソッドや幾何学も扱ってます」
言葉通り、難解な問題が並ぶ。
代数・幾何・解析・・・こんな問題に生徒たちがついて来られるのか、不安になる程だ。
「相当ハイレベルだね」
僕の表情を窺うように視線を送る営業マンに、とりあえずの感想を告げる。
「先生からそんな言葉を貰えるって言うのは、褒め言葉として受け取って良いんですか?」
緊張で固まっていたような表情が、俄かに綻ぶ。
その言葉に、思わず顔が緩んだ。
「センターや二次試験にも、十分対応できる内容になってます」
「理論展開が面白いね。僕好みだな」
「そう思って、お持ちしました」
事実、学校で用いる教材は大手の会社が取り仕切っている。
幸いなのは、数学の教科主任は個人主義が過ぎるような人で
教材についても、各教師での検討の余地が残されていた。
これだけの完成度があれば、先輩方を説得するには十分だろう。
「及川先生はいらっしゃいますか?」
不意に職員室の入り口で呼ぶ声に、視線を上げた。
そんな顔で来るなと、言っているのに。
途中で放棄された疼きに耐えられないのだろうか。
「ああ、今、接客中だから・・・また後で来てくれるかな」
もどかしげな、寂しげな視線を僕と客に向け、生徒は去って行く。
あまり入れ込まない内に、手を離した方がいいのかも知れない。
チャイムの音が、学校に響く。
目の前の彼は、懐かしむように壁に設置されたスピーカーを見上げる。
「懐かしいかい?」
「そうですね、あの頃に戻ったみたいです」
何気ないその一言に、押し込んでいた感情が顔を覗かせる。
もし、過去に戻れたのなら。
もっと正しい解法が、あったはずなのに。
時の経過を悔やみながら、気を取り直し、彼に笑いかける。
「あの時は、こんな風にここで商談するなんて、思いも寄らなかったけどね」
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