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陶然-醒-★(1/17)

「好きになったりして・・・本当にゴメン」
今まで感じたことの無い緊張感が身体を蝕む中で、声を絞り出す。
俺には、もう、何もない。
一度は奪われ、やっとの思いで取り戻した儚い想いが、秋風と共に流されていくようだった。
これで良い、そう自分に言い聞かせることも、できなくなってしまった。


地元の高校から東京の大学に進学し、中堅どころと呼ばれるゼネコンに就職。
明確な将来の展望が見えないまま、社会の流れに必死でついていく毎日だった。
1年の現場研修を経て、2年目の春には正式に工事部へ配属される。
半年も経つ頃には新人なりに仕事をこなすことができるようになり
やっと腰を落ち着けた実感が沸いてくるようになった。

同じ部署にあの男がやってきたのは、新年度が始まる直前のこと。
自分よりも10歳ほど年上の、秋月と名乗った男は、課長補佐という役職付きで経理部から異動してきた。
「あの人、秋月常務の息子さんなんだってさ」
部長の横で簡単な自己紹介をする姿を遠巻きに眺めながら、隣に立っていた先輩が耳打ちをしてくる。
「へぇ・・・でも、何でこの時期に、しかも経理から?」
「使えないんで、いろんな部署をたらい回しにしてるって噂」
「よりによって、今度は工事部ですか・・・」
「親父の権力笠に着て、つまんないことで難癖つけてくるらしいから、あんまり目立たないようにな」

噂がどうやら真実であるということは、その日の内に知ることになった。
複数の管理職たちは腫れ物に触るような扱いで代わる代わる彼の機嫌を取り
他の社員は当たらず障らず、ひたすらに机の上へ視線を落とす。
何をする訳でもなく、一日中パソコンの前に座っていた秋月が定時でさっさと席を立った瞬間
部署全体に広がっていた怪訝な空気が、僅かに緩んだような気がした。


「あ・・・お疲れ様です」
その日の夜、フロアの端に設けられた喫煙所で工事部の風間主査と一緒になった。
「何だ、まだいたのか?」
「板橋のマンションの数量チェックをしてまして」
「まぁ、そんなに急ぎじゃないんなら、程々にしておけよ」
「分かりました」
俺の返事を聞いて軽く頷いた彼は、ひしゃげた箱から煙草を一本取出して火を点ける。

「風間さん、あの秋月、課長補佐って、どうなんですか?」
上司が煙を吐き出したタイミングで、窓際に立っていた同じ部署の先輩が声を掛けた。
「どうって?」
「ほら、いろんな噂、あるじゃないですか」
「ああ・・・」
常務の息子で会社のお荷物社員。
部下の問に短い呟きを返した後、一点を凝視したまま暫く何かを考えている風の男の姿に
伝え聞いていた以上の事情があるだろうことを察する。
「常務は、次期社長って言われてるみたいですけど。その関係なんですか」
「まぁ、お前たちには、まだ関係無い」
社員の追及に、主査は変わらず俯き加減で煙を吐く。
俺の手元にある煙草は、そろそろフィルターまで燃え尽きかけていて
部屋を去るか、もう一本に火を点けるか、迷いあぐねていた。

「端的に言えば、軽い脅しだな。彼がここに回ってきたのは」
新しい煙草を口に咥えた瞬間、風間主査の声が耳に届く。
視線を彼の方へ移すと、彼もまた、俺に視線を送る。
「社長の選任は、基本、臨時の取締役会で決まるが、実際は主査級以上の意向が反映される」

社長が突然の引退宣言をしたのは、去年の冬のことだった。
体調が思わしくなく、もう高齢であることも理由の一つで、今年の夏には新社長に交代するという。
次期社長には秋月常務が有力だとされていたが、対抗馬とされる福岡専務を推す声も多く
現状では拮抗しているとの話を耳にしたことはある。

「工事部も、常務側につけと?」
「そういうことだ」
「風間さんは・・・」
「それは・・・分かるだろ?」
専務は元々工事部から出世した人間で、当然、部署の人間が彼を推さない理由は無い。
「だが、他の現業系の部署じゃ、懐柔された奴もいるらしくてな」
「どうやって?」
「転属、降格、いろんなもんをちらつかせて、最後は・・・これだ」
そう言って男は、指で小さく丸を作って見せた。

末端の社員には知る由もない上層部のゴタゴタが、途端に身近に感じられる。
空間の雰囲気が冷え込む中、上司は煙草を揉み消して苦笑いを浮かべた。
「とりあえず、夏までの辛抱だ。悪いが、仲良くしてやってくれよ」


未だ物件を一人で担当することの無い俺は、他の諸先輩方よりもフロアにいる時間が長い。
「君、名前は?」
目を付けられる可能性が高いのは、当然だったのだろう。
「・・・菅です」
「菅くんね。ちょっと仕事頼みたいんだけど、良いかなぁ?」
もちろん、机に向かっているからといって仕事が無い訳では無い。
図面修正や工程管理資料の作成、下請け業者との調整など、任されている作業も多い。
それでも、名ばかりとは言え上司の命に背く訳にもいかなかった。
「何でしょう?」

頼まれたのは、会議の議事録作成。
ボイスレコーダーに録音された2時間分のデータを聞きながら、文字に起こすというものだった。
部署には派遣で来ている事務員も数人いるのだから、彼女たちに依頼するべきだろうと思っていたが
翌朝、秋月に出来上がった議事録を手渡した時、わざわざ俺に作らせた理由を知ることとなった。

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陶然-醒-★(2/17)

「何これ?すげー見にくいんだけど」
プリントアウトした資料を手に、名ばかり上司は嘲笑を浮かべて言い放った。
慣れない資料作りに苦戦はしたが、自分なりに体裁は整えたつもりだった。
「いつもこんなの作ってんの?派遣のおねーちゃんの方が、もっとマシなの作るんじゃねぇか?」
作業を頼まれたのは夕方前、全部を文字に起こし終わったのは夜9時過ぎ。
昨晩やるはずだった仕事に手を付けられなかった鬱憤が、溜まっていたのも確かだった。
「ですが、時間もあまり・・・」
「あぁ?言い訳してんじゃねーよ、下っ端のくせに」
矢庭に立ち上がった男が俺の胸ぐらを掴み、気味の悪い笑みを浮かべる。
「そこは、すみませんでした、作り直します、だろ?」
「秋月君、もう、その辺で・・・」
恐怖で顔を引きつらせる俺に、不穏な空気に気が付いた角谷課長が助け舟を出してくれた。
鼻息を一つ吐いた男の手が、俺の身体を押し返す。
「もう良いわ、おねーちゃんに頼むから。っんとに、使えねー奴」

それ以降も、同じようなやり取りは幾度となく続いた。
やがて、現場打合せや会議で社外に出る機会があると、妙にホッとするようになり
見かねた上司や先輩からは適当にあしらうようにとの助言もあった。
初めの内は言い訳にも苦慮し、罵倒されることもあったが
しばらく経つと、彼の言動は思いのほか落ち着いたものになっていく。
ただ、秋月の恫喝は、彼への恐怖心という形で、少なからず俺の心に燻り続けていた。


大きな転機が訪れたのは、夏の初めのことだった。
「菅、ちょっと」
俺の席までやってきた秋月は、少し抑えた声でそう言って、腕を掴む。
「・・・何でしょうか」
「いいから、ちょっと来い」
以前までの態度とは少し違う、不気味なほどに落ち着いた様子に、仕方なく席を立つ。

「今週の金曜日、夜、空いてるか?」
人の気配が無いロッカールームで、彼はそう尋ねてきた。
「どういった、用件で・・・」
「接待に付き合って欲しいんだよ」
男が胸ポケットから取り出した名刺には、俺のグループが担当しているデベロッパーの社名と
取締役と添えられた、末広という男の名前があった。
「・・・何故、私が」
「若い社員の話を聞きたいんだってさ。だったら、君が適任かと思ってね」
「ですが・・・」
答を出しあぐねていた俺に、彼は顔を間近に寄せて凄んでくる。
「お前にも役に立ちそうな仕事させてやるんだからさ、黙ってついて来いよ」
小柄な男の目つきが、心の奥底の恐怖を蘇らせた。
後しばらくの辛抱だ、そうすれば、こいつはいなくなるはずだ。
微かに震える唇を宥めて、答を返した。
「・・・分かりました」


内々の接待だから、他の社員には口外しないように。
金曜日の終業後、秋月の命に従って何も言わず会社を後にした。
社屋から少し離れた大通りで男と落ち合い、そこからタクシーで接待場所へ向かう。
車内では特に会話も無く、程なくして、古い木造家屋の前で車は止まる。
目立たぬように掲げられた表札には、何処かで聞いたことがある料亭の名前が書かれていて
場違いなところに足を踏み込んだと、緊張感が気持ちを強張らせた。

10分ほど裏門の前で待っていると、一台のハイヤーがやってくる。
深々と頭を下げた秋月に倣い、頭を下げた。
「わざわざご足労頂き、ありがとうございます」
「構わんよ。そろそろ正念場なんだろう?」
「ええ・・・そのお話は、後程ゆっくりと。ところで、今日は部下を連れて参りました」
「菅と申します。宜しくお願い致します」
目の前に立つ初老の男に、再度頭を下げる。
「そんなに緊張しないで。楽しくやろうじゃないか」
スリーピースのスーツに身を包んだ恰幅の良い姿は確固たるステータスを見せつけるようで
けれど、柔和な表情で俺の肩を叩いた彼は、仲居の後に続いて門をくぐっていった。


「常務の旗色はどうなんだい?」
「お陰様で、順調に動いています」
末広と秋月の話を聞きながら、一人所在の無い俺は、運ばれてくる懐石料理を黙々を口に運んだ。
味を楽しむ余裕などは、微塵も無かった。
「ただ、もう一押しを、是非末広様にお願いしたいと思いまして」
「僕が出ていったところで、何か変わる訳でもないだろう?」
「いえ、私共にご協力頂けるとお約束頂ければ、態度を保留している者たちにも良い刺激になります」

デベロッパーの取締役をしている末広は、ウチの会社の社外取締役でもある。
当然、次期社長の選任にも大きな影響力を持っている為
秋月は接待を繰り返し、男の懐柔を試みているらしかった。
場の雰囲気は決して悪いものではなく、彼に分があるだろうと、表面上、思わせられる。
「福岡君もなかなかやり手だと聞いてるけど、君はどう思う?」
「叩き上げですので、古参には評判が良いようですが・・・経営者としての才があるとは思えません」
「お父上の方が、上だと?」
「もちろんです」
普段の不遜な態度が嘘のように、上司はひたすらに媚びへつらった言葉を繰り返した。

宴もたけなわになった頃、秋月は部屋付の仲居を外させる。
その様子を見届けてから、鞄から袱紗に包まれた何かを取り出し、卓の上に置いた。
「・・・何卒」
中身は、明らかだった。
差し出された包みを一瞥した接待相手は、小さく頷き、手に取る。
「是非、協力させて貰うよ」

懐柔の瞬間。
隣に座る秋月は、安堵の表情で何度も何度も頭を下げる。
旗色は彼が言うほど良くは無いのかも知れない。

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陶然-醒-★(3/17)

「大変申し訳ございませんが、私はこれで・・・」
料理も一通り終わり、酒で雰囲気が和み始めた頃、秋月は急にそう口にした。
「後は、菅がお付き合いさせて頂きますので」
そんな話は聞いていないし、そもそも一人残されてどう対処して良いのかも分からない。
混乱する俺に、彼は、失礼の無いように、と耳打ちをして席を立つ。
「ああ、常務に宜しく伝えておいてくれ」
「承知致しました。本日は、誠にありがとうございました」

襖が閉まると、向かいに座る末広はふと表情を崩す。
「全く、毎度勝手な男だな」
仲居が注いだ酒を飲み干し、男は呆れたような口調で吐き捨てた。
「つまらない話に付き合わせて、悪かったね」
「いえ・・・とんでもないです」
目を細めて俺を見た彼が、再び仲居を外させて、代わりに傍へ来るようにと合図を送ってくる。
酌を要求されていると思いつつ、懐疑心を悟られないように卓の反対側へ回り
立膝でお銚子を手に取った瞬間、男の手が不意に腰へ回されてきた。

「彼のこと、どう思う?」
予想外の行動に、身体も、思考も上手く働かない。
「どう、とは」
それを解さんと、末広は腰から背中、肩へと弄る範囲を広げてくる。
「今日の約束を取り付ける時、彼が何て言ったか、分かるか?」
「・・・いえ」
「若い社員を連れていく、好きにして良いってね。・・・要は君も、賄賂の内だってことだ」
徐々に引き寄せられる状況に、抗うこともできなかった。
相手は取引先の役員、しかも次期社長候補とのコネクションもある。
一介の平社員の処遇など、どうにでもできる立場だ。
「まったく、酷い上司だな。同情するよ」
耳に寄せられた唇から、低い声が耳に直接挿し込まれていく。

同じ憂き目にあった社員は、他にもいるようだった。
過去数回の接待で、秋月は毎回若い男の社員を帯同していたという。
部署が変わる度、一人下っ端の社員に目をつけた後、パワハラで恐怖心を植え付け
時期を見て、末広に差し出す。
そう得意げに話していたのだと、初老の男は耳元で囁いた。

襖の向こうから、ハイヤーが到着したという仲居の声が聞こえてくる。
少し待たせておけ、と答えた男は、尚も俺の身体の感触を確かめながら、一つの提案を口にした。
「君が最後まで付き合ってくれるなら、常務もろとも、飛ばしてやろう」
太い指が、ある場所へ向かう気配をちらつかせる。
それが何を意味しているのか、分からない訳は無かった。


秋月の勝負は、ここに来るずっと前から、既に決まっていたらしい。
態度を保留にしていた最後の社外取締役である末広は、その実、長年、福岡専務と懇意にしてきた。
一方で、当初から分が悪かった常務側の賄賂工作は、今年に入って段々と度を超すようになり
ついには粉飾決算まで手を出しているのだという。
都市銀行から経理部のトップに転職した経歴を持つ常務だからこそ可能な裏工作だったものの
結局はその情報が専務の耳へと入ることになり、失脚への算段が着々と立てられていた。
「専務名義の告発状は作成済みだが・・・提出の時期については、僕に一任して貰っていてね」
粉飾決算の事実が公になれば、そこから贈収賄事件に発展することは間違いない。
しかし、これを見過ごせば、いずれ秋月常務は社長となり、会社の自浄作用は全く働かなくなる。
余りに大きな決断を迫られ、頭の中の整理がつかない。

「・・・っく」
突然掴まれた性器が、答を急かすが如く乱暴に弄られる。
思わず、男の手に自分の手を添えた。
「迷っているなら、正義の味方になっても良いんじゃないのか?」
首筋に吐息がかかり、間もなく舌がうなじを這う。
不快だという思考とは裏腹に、未体験の刺激が身体を震わせる。
「それとも、一生、あんな男に足蹴にされて過ごすか?」
ほだされていく身体の変化を、男の掌は確実に分かっているはずだった。
答は、もう、一つしか無かった。
「・・・お付き合い、します」


男とハイヤーで向かったのは、副都心の中に建つ名の知れたホテルだった。
仕事で訪れる度に下から見上げることはあったが、そこから見下ろす街の灯は怖い位に美しい。
一方、光の余韻が沁み込む空には、星一つ見えない。
いつの間にか、こんな闇にも違和感を持たなくなっているのだと、鏡に映る自分を見て気が付いた。

自分が同性愛者だと自覚したのは、中学卒業の頃。
初恋の相手は、親友の双子の兄だった。
大して仲が良い訳でもなく、普段から言葉を交わすことも無かったが
時折見かける様々な表情と声を浮かべるだけでも幸せだった、淡い恋。
上京する直前、旧友に貰ったおぼろげな感触は今でも鮮明に覚えていて
それだけを拠り所に、これまでも、これからも、生きていこうと思っていた。

大学、社会人と時間を経ても、他の男と性的な関係はおろか、恋にすら落ちたことは無い。
叶わないであろう二人だけの理想の世界を、ずっと抱えてきた。
なのに、現実は、見知らぬ男の手で惑わされる単純な身体であることを目の前に突き付ける。
「ここに」
末広に促されるまま、一人掛けのソファに腰かけた。
上着を脱がされ、ネクタイが外される。
「君は、素質が、あるようだから・・・良い時間が過ごせるんじゃないか」
愉快そうに笑みを浮かべながら、男は手に持ったネクタイを俺の口に噛ませ、後頭部で縛り上げた。

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陶然-醒-★(4/17)

背後に立った男の手が、肩口からゆっくりと下へ降りていく。
肘掛けに腕を置き、目を瞑ったまま、その先端を握り締めた。
ワイシャツ越しに感じられる掌の感触が身体を震わせ、鼓動を早くする。
何処で間違ったのか、何が正しかったのか。
答を手繰り寄せようとする意識が、ボタンを外す気配で蹴散らされる。

やがて露わになった上半身に、他人の指が滑っていく。
顔の傍に男の体温が近づき、僅かに昂ぶった呼吸が耳を掠めた。
「なかなか、良い身体だ」
中学・高校と柔道をやっていた。
然程の実力も才能も持ち合わせていなかったから、高校卒業以来離れてしまったが
その名残は、まだ多少、身体に残っている。
暫くの間、腹筋の触り心地を楽しむように弄っていた手が、再び胸元まで上がってきた。

いかつい親指が、片一方の乳首を下から上に向かって軽く弾く。
「・・・っふ」
完全に閉じることを封じられた口元から、吐息が漏れた。
俺の反応に鼻を鳴らした彼は、もう一方にも同じ刺激を与え、それを交互に繰り返していく。
突き抜けるような直接的な快感では無い。
それなのに、積み重なるほど、羞恥心と相まって身体を浮つかせる。

指の動きが止まると共に、溜め息を吐く。
男の所業よりも、何かを求めてしまいそうになる自分の気持ちから解放された安堵。
だが、当然、そこで終わるはずもない。
「んっ、ぐ・・・」
両方の突起を摘み上げられ、無意識の内に身体が仰け反った。
全身を強張らせる程の痛みに、奥歯を食いしばりながら耐える。
「どうした?痛いのか?」
嘲りを過分に含んだ声が聞こえた。
薄目を開けて男の顔を窺うと、俺の視線を振り払うよう、更に責めを与えてくる。
差すような刺激が首筋を引きつらせ、身を捩る度にソファが軋む。
引っ張られ、捻じられ、苛まれ続ける内に、そこは熱を持ち、感覚が麻痺したような状態になった。

乳首から離れた指が、俺の口端から漏れた唾液を拭う。
ぼんやりとした頭が再びやってきた感触で冴えた。
決して激しくはない、ぬるぬるとした弄りが直接的な快感となって駆けていく。
「気持ち良いんだろう?ん?」
男の問い掛けに、上ずった呻きが鼻から抜ける。
衝動が一所に集まっていく状況を、抑えきれない。
柔らかな刺激に、程なく物足りなさを感じ始めることを、彼は分かっていたのだろう。
緩急を付けた甚振りが、無駄な抵抗を削り取っていった。


ソファに深く沈みこんだ身体は、性的欲求に逸るが如く小さく波打つ。
正面に回り込んだ末広が、スラックスの中で燻る部分を二本の指でなぞっていく。
既に窮屈な状態になっていることは、服の上からでも一目瞭然だった。
「ここも、随分、立派じゃないか」
もどかしい刺激が、焦燥感を募らせる。
縋るような視線を受け止めながら時折笑みを浮かべ、それでも彼はファスナーを下ろすことはない。
知らず知らずの内に、身体を寝かせ、股を開く。

不意に、男の手が、俺の右手を取った。
「何か、勘違いしてるだろう」
股間に促された手に、自らの性器の感触が当たる。
「君は、僕を楽しませる為に、今、ここにいるんだ」
そう言って立ち上った彼は、顎を上げて俺に余興を求めた。

手にしたモノは紅潮し、筋が立ち、先端が僅かに濡れ始めていた。
満足げな表情の男が軽く頷いたのを合図に、指を添わせる。
竿を扱きながら亀頭を親指で撫でると、いつも以上の快感が身体を奮い立たせていく。

普段、自分を慰める時に思い浮かべるのは、幼い頃から成長していない彼の姿。
たった一度のキスの感触から、全身の、少年の興奮具合を妄想する。
制服の下にある成長しきらない身体を想像しては、汚してきた。
けれど今は、そんなきっかけは、全く必要無かった。
「まだイくんじゃないぞ?」
いやらしい視線が、全身を舐めるように這う。
決して他人に見せることの無い姿を見られているという恥辱だけで、身体は悦びを感じ始めていた。


「その辺で、終わりだ」
絶頂まであと数段というところで、彼は俺の自慰を制する。
昂ぶった様子で傍に立った男は、猿轡代わりのネクタイを乱暴に外す。
唾液を引き摺りながら床に投げ捨てられた物は、もう使い物にはならないだろう。
つまらない考えが過った頭が掴まれ、無理矢理唇が重ねられた。
吸い付くように唇を舐り、割れ目から入り込んできた舌が咥内を犯していく。
絡め取られた舌が、卑しい水音を引き摺りながら翻弄される。

貪るような口吻で呼吸が乱れる俺の前に、男の性器が突き付けられた。
得も言われぬ臭いを放つそこに、唇を寄せる。
不快感と共に湧き上がる、充足感。
どうかしてる。
俺が、求めていたものは、こんなものだったのか。
瞬間、諦めの笑みを浮かべながら、差し出されたご褒美を口に含んだ。

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陶然-醒-★(5/17)

上半身に衣服を引っ掛けたまま、ベッドの上で四つん這いになる。
生温かい液体が、尻の割れ目を流れて太腿の方まで垂れていく。
間を置かず、絡み合う毛の中の一点を指が探り当て、細かな刺激で解される。
口淫の間も手を触れることの無かった自らの性器は、未だ昂ぶりを手放すことは無く
入口に男のモノが宛がわれた瞬間、更に怒張を増したような気がした。
「本当の自分の姿を、よく見ておくんだな」
窓の映る俺の中に、男が、入ってくる。
裂けるような激痛が喉からも耳からも音を奪う。
腰を打つ衝撃は徐々に激しさを増し、それにもかかわらず、痛みは徐々に和らいでくる。
代わりに背筋を引きつらせるのは、未経験の快感。

上半身を起こされ、より深く、侵される。
「うっ・・・あ」
腰回りから胸元へ上がってきた手が、無防備なもう一つの性感帯へ伸びていく。
「く、うっ」
責めを待ち詫びていたかのように、身体が悦びで震える。
双方の乳首が強く摘み上げられるほどに、欲求が飛び出してしまいそうになる衝動に駆られた。

ふと視線を脇へ逸らす。
ガラスの向こうには、性欲に流され、皮を剥かれた淫らな自分の姿。
これが本当の自分。
こんな俺に、淡い片想いをいつまでも寄せている資格なんか、無い。

途端に男の動きが慌ただしくなる。
再びベッドに伏した身体が、蹂躙されながら、絶頂へと追い立てられた。
体内に男の精液が注ぎ込まれるのとほぼ同時に、俺の中からも、噴き出していく。
残酷な満足感が心身を蝕み、その陰で、唯一の拠り所が崩れていくのが見えた。


末広に促されるまま、シャワーを浴びる。
その間、極力、何も考えないようにしていた。
絶望からも、希望からも、目を背けていた。

浴室から出ると、男は既に身支度を始めているところだった。
「部屋はもう一晩押さえてある。好きなだけ居れば良い」
そう口にした彼の表情は、夜の初め、料亭の前で見せていた柔和な初老の男のものになっている。
「・・・分かりました」
現実に戻り、抱くべき感情を探しながら、とりあえず、そう答えた。

その時、部屋のドアをノックする音が聞こえてくる。
驚きで固まる俺を余所に、男はアプローチの方へ姿を消す。
ドアのロックが外される音のすぐ後にやってきたのは、扉の開く音と女の声。
「失礼します」
「遅かったな」
「申し訳ございません。ご所望の物がなかなか見つからなかったので」
「まぁ、良い」
二人がこちらへ向かってくる気配を感じ、傍にあったバスローブを羽織り、ベッドに腰を下ろす。

目に入ってきたのは、俺よりも一回りほど離れているであろう和装の女だった。
抑え目な化粧が施された眼がこちらを一瞥すると同時に、口元に笑みを浮かべて軽く頭を下げる。
「状況はどうだ?」
「仰せの通りに進めております」
手に抱えた幾つかの包みをローテーブルの上に置きながら、彼女は初老の男に答えた。
「そうか」
ネクタイを締め直す男がそっけない返事を口にし、女は慣れた手つきでその形を整える。
愛人、部下・・・彼らはどういった関係なのか。
余計なことを考えようとする頭に、どうでも良い疑問を押し込んで落ち着かせた。


それから5分と経たない内に、末広は部屋から出ていった。
俺から見える位置で深々と頭を下げた女は、扉が閉まると姿勢を戻し、静かに振り返る。
「何か、飲みますか?」
やや低めの、それでいて透明感のある声が、少しだけ心を落ち着かせてくれるようだった。
小さく首を振ると、女は眼を細めて頷きを返してくる。

冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをベッドのサイドテーブルに置いた彼女は
俺と僅かに距離を置いて、ベッドに腰掛ける。
「・・・汚れますよ」
女が放つ香りを感じ、思わず声が出た。
「大丈夫ですよ。ありがとう」
ついさっきまでの異常なシチュエーションが嘘のように、部屋の中の空気は穏やかだった。

太腿に置いていた俺の手に、彼女の手が重ねられる。
「して欲しいことがあれば、何でも言って下さいね」
しなやかな指の数センチ先には萎びた俺自身が横たわっており
ここまできて、あの男が女を残していった理由に、やっと気が付いた。

女を抱くことで、男としての尊厳を取り戻す。
悪い冗談のようだけれど、これが末広なりの労いなのだろう。
そんなことができれば、どんなに良いか。
それすらできない俺は、どうすれば良いのか。
頭の中に浮かぶ無防備に笑う少年の面影。
思い返す度、胸の奥が僅かに苦しくなるような感覚があったはずなのに、何も感じられない。
「・・・一人にして、貰えますか」
あんなに想い続けてきたのに、もう、縋るところが見つからない。

俺の方へ伸びてきた手が静かに頭に添えられ、彼女の方へ引き寄せられる。
「悪い夢は、早く忘れなさい」
首元の体温を頬で感じながら、込み上げるものを必死で堪えた。
「失くしてしまったものは、またいつか、必ず手に入るから」
慰めの言葉を擦り込むように、女は静かに俺の背中を撫でていく。
堪えていたものが、堰を切る。
枯れるほどの涙を流したのは、この時が生まれて初めてだった。

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陶然-醒-★(6/17)

女が去った部屋の中には、再び絶望の雰囲気が漂い始める。
窓の外に広がる街の灯は控えめになり、夜が深いことを教えてくれた。
ミニバーからウイスキーのボトルを一本取り、一気に呷る。
乾ききった身体に沁み込んでいく冷たさが、酷く心地良かった。
何処と無く憂鬱までが薄まるような気がして、残りを飲み干す。
元から、酒に強い方では無い。
急に回ってきた酔いが、視界をおぼろげなものにしていく。

目を落とすと、女が残していった二つの包みが目に入った。
百貨店の包装紙が掛けられていたのは、有名ブランドのネクタイ。
俺が着けていた安物と色やデザインが酷似しており、これは、偶然の一致では無いのだろう。
一方、簡素な封筒の中には、十字帯封のついた札束が押し込まれていた。

果たされるかどうかも分からない口約束と、決して少額とは言えない金。
この数時間で失くしてしまったものと天秤にかける事すら、くだらなく思えた。
またいつか、必ず手に入る。
気休めの言葉が、湧き上がる憤りで散らされる。
自らの非から目を背ける為、空が白むまで、ひたすら酒と煙草に縋り続けた。


いつの間にか失った意識が醒めたのは、もう昼近くになってからのことだった。
頭が重い理由は、テーブルの上に転がっている酒瓶の数で分かった。
身体を引き摺るように洗面所へ向かう途中、ドアの下から一枚のメモが差し入れられていることに気付く。
"精算手続きはこちらで行うので、好きな時間に退出して構いません"
何もかもが、彼らの手はず通り。
俺はただ、その掌で転がされているだけの存在。

結局、包みには手を付けず、酒代代わりの万札を置いて部屋を出た。
出来る事なら、この夜を無かったことにしたい。
僅かな望みを託してのことだった。
けれど、事態は着実に、順を追って動いていることを、帰りのタクシーの中で知る。
社用の携帯に届いた一斉メールの内容に、目を疑った。

―― 一部報道機関に於いて、当社に関する報道がなされております。
真偽の程は現在調査中ですが、現時点で数組の報道陣が社屋前に待機していることから
明朝は全社員7時出社とし、出入りは通用門を使用するようにして下さい。
(万が一コメントを求められても、一切発言はしないように)
尚、協力会社社員については、明日から2日間臨時休暇と致します。
詳細・経緯については、各部署のミーティングにて、部長級社員より説明があります ――

スマートフォンのニュースアプリには、自社の名前と粉飾決算疑惑の文字。
末広が、いつ号令をかけたのか、もう知る術は無い。
もしかしたら、俺が返事をする前から動き出していたのかも知れない。
間を置かず、会社が更に大きな社会的制裁を受けることは間違いなく
想定していたはずの結末の重大さに、背筋が凍る思いだった。


月曜日、会社の最寄駅に着いたのは朝6時前。
いつもとは違う地下鉄の出口から、裏道を通って通用門を入った。
何処となく疲れた表情の警備員に軽く会釈をして、薄暗いホールからエレベータに乗り込む。
工事部があるフロアは既に全ての照明が点けられ、数人の社員がパソコンに向かっていた。
同じグループの面子は、まだ誰も来ていない。
自席に荷物を置き、とりあえず一服と喫煙所に向かった。

「随分早いな」
狭い空間の中には、先客の姿があった。
「おはようございます。・・・何か、落ち着かなかったので」
「まあ、今更焦ったところで、なるようにしかならないさ」
くたびれた顔で笑う風間主査の格好もまた、くたびれている。
恐らく昨日の内に召集を受け、夜を徹して状況把握と事態収拾に奔走していたのだろう。
「これから、どうなるんでしょうか」
「お前たちは心配せずに、今まで通り仕事をしていけば良い」
「・・・はい」
「失くした信用を取り戻す為に頭を下げるのは、オレらの仕事だからな」
大きな溜め息と共に煙を吐き出した彼は、灰皿に煙草を放りこみ、俺の肩を一つ叩いて部屋を出ていく。

早朝から行われた工事部全体のミーティングでは、一連の経緯と今後の対応について話があった。
秋月常務他数名の社員が粉飾決算の容疑で告発されたこと。
近く、地検による家宅捜索が入るであろうこと。
取引先や下請けからくる問合せへの対応の仕方についても事細かな内容が指示され
不安を与えないように、不満を持たせないように、考え抜かれた文面が全員に配られた。


その日一日だけで、一体どれだけの電話に応対しただろうか。
今後一切の取引を断りたいと頭ごなしに怒鳴りつけてくる開発業者。
月末の支払いは予定通り処理して貰えるのかと不安がる工事業者。
先週金曜日に発注を掛けたばかりのメーカーの担当者からは、同情の言葉を貰った。
手元に置いたマニュアル通りの言葉を発しながら、ひたすら電話の前で謝罪を続ける。

あの男がこの場にいないことに気が付いたのは、昼休憩のチャイムが部署に響いてからだった。
「そういえば・・・課長補佐、いらしてないんですか」
斜向かいの席で大きく背伸びをする先輩に、それとなく聞いてみる。
「ん?ああ・・・」
彼の視線が窓際の空いた席を窺う。
「まあ、親父がやらかした訳だし、なぁ」

翌日、社内LANで回ってきた臨時の社内報には、事件に関わった社員に対する処遇が列記されていた。
懲戒免職、減給、異動・・・段階ごとに並んだ10名程の中には、もちろん、奴の名前もある。
子会社への出向。
首を飛ばさなかった理由が何処にあるのか、納得はできなかったが
もう二度と、本社へ戻ってくることは無いのだろう。
空席に放置されたままの荷物を段ボール箱に放り込んでいる内に
地獄に落とされた恨みが、少しだけ和らいでいくような感覚になった。

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陶然-醒-★(7/17)

粉飾決算、贈収賄、それらを受けた社長の引責辞任。
一ヶ月足らずの間で、会社は幾度となく大波に飲まれた。
ただ、同時期に大手自動車会社のリコール騒ぎが起きたこともあり、報道はそれほど過熱することも無く
落ち込んだ株価も、何とか下げ止まっている。
新社長には、何某かの思惑通り、福岡専務が就任し
彼が持つ大手ゼネコンやデベロッパーへのパイプのお陰で、工事件数の目減りも極僅かで済んだ。

ストレスの種だった存在は、いなくなった。
社内の雰囲気もやっと落ち着いてきて、仕事も元のペースを取り戻している。
それなのに、何かが満たされないような気分の夜が続く。
帰り際のコンビニで何となく手に取ったウイスキー。
初めはハイボールを1、2杯飲む程度だったのが、何時しか水割りになり、ロックになり
小さな台所の隅に空き瓶が並んでいくにつれ、褐色の液体にのめり込むように依存していった。

「最近、調子悪そうだな。大丈夫か?」
ミーティング後、角谷課長にそう声を掛けられ、改めて自分の変調に気づかされた。
以前なら30分前には出社していた朝も、今は起きるのにも苦労し、ギリギリになることが多い。
就業中も不意に酒への欲求が湧き立ち、手が震えることがある。
酷い時は昼まで深酒が残り、食欲も出ず、ここしばらくの間でだいぶ体重も落ちた。
飲み過ぎているかも知れない、でも、これくらいなら、まだ平気だろう。
言い訳しながら何とか誤魔化してきたつもりだったものが、他人の目にも分かるようになってきている。
「え、ええ・・・すみません、大丈夫です」
引きつった答を返した俺に、上司は顔を近づけて短く耳打ちをした。
「酒は程々にしとけよ。お前、最近酒臭いことあるぞ」

サラリーマンとしての生活サイクルから転げ落ちるまで、それから大して時間はかからなかった。
有りもしない理由を並べて休みを取り、体調不良を告げて欠勤する。
電話から聞こえてくる訝しげな上司の声も、虚ろな頭で聞き流せるようになっていく。
自分に言い訳することも、こうなった理由を探すことも、将来を考えることも無く、衝動のまま酒を口に運ぶ。
それでも、気分は、満たされないままだった。


冬の初め、見かねた課長に引き摺られるように連れてこられたカウンセリングルーム。
「この半年ほどの間で、何か、失くしたものはありますか?」
会社と提携している産業医は、一通りの問診の中で、そう尋ねてきた。
「失くした、もの?」
「肉親や恋人、親友であったり・・・長年大切にしてきたものでも構いませんが」
蝕まれている頭の中に、それは、すぐに浮かんでこなかった。
思い起こす度に、春の陽のような暖かく明るい気分をもたらしてくれた慕情。
絶望を肴に酒を呷る自分にとって、あまりにも眩しすぎる想い。

元上司からのパワハラによる軽度の鬱と、喪失感によるアルコール依存症。
診断書と処方箋を手に部屋を出た俺に、廊下で待っていたらしい上司は長期休暇の勧めを口にする。
幾許かの責任を感じてくれているであろうことは、彼の表情から容易に読み取れて
感謝の念と共に、自分の不甲斐なさを改めて痛感した。

小さな化学物質の塊が身体の中でどんな作用をしているのかを知る由もないが
服薬と断酒を始めて数日もすると、波立っていた感情は段々と凪を取り戻していく。
またいつか、必ず手に入る。
優しい感触と共に身体に摺り込まれた慰めの言葉を、正面から受け止めることが出来る様な気もする。
喜怒哀楽の角を削り取られたような心に違和感を抱きながら、絶望に背を向けて歩みを進めた。

ただ、身体には、もう一つの変調が表れ始めていた。
たまの機会に自らを慰めようとしても、勃起はするものの、絶頂まで至ることができない。
手が届きそうになる瞬間、思い起こされるのはあの夜の光景、無様な "本当の自分"。
恐怖にも似た感情が全身を強張らせ、心身を萎えさせる。
これだけは医者に打ち明けることもできず、回復の兆しも見えないままだった。


それから3ヶ月ほど経った春、やっと産業医から復職の許可が出た。
一時期の荒れていた自分とは多少なりとも変わった自覚はあったけれど
いつまた堕ちるか分からない恐怖心が残っていたことも確かで
しかも、新年度の配置転換で新たな社員が増え、部署内の空気は随分変わっている。
体調に関する心遣いや憐みの眼差しも、却って、持ち直した気迫を削り取る。
自分はこの場に必要とされていないのではないか。
そんな風に思い込んでしまう悪い癖は、やはり、治ることは無かった。

退職の相談を上司に持ちかけたのは、季節が変わり始める頃。
変調を来してから復帰に至るまで、ことある毎に俺のことを気にかけてくれていた彼は
口惜しいといった表情を浮かべながらも、何処か諦念を含んだ口調で慰留の言葉を並べ
俺はそれに、断りの返事で応えた。

「何処か、次に行く当てはあるのか?」
問を受けた時点で、将来は何も見えていなかった。
幾つかの転職サイトに登録し、数社にエントリーし、芳しい返答を貰えないままで日々が過ぎていく。
大した経験がある訳でも、目を引くような資格を持っている訳でも無く
いっそのこと、業種も職種も、全く違うものにするのも悪くない。
浅はかな俺のビジョンに、上司は投げやりな情動を読み取ったのだろう。
提示された伝手は、新卒の就職活動の際にも候補になった地場ゼネコン。
彼の大学時代の同級生が、そこの総務部長をやっているらしい。

正直、地元に帰ることには葛藤もあった。
知り合いもいるし、土地に愛着もあるし、何より、彼もそこで暮らしているはずだ。
しかし、酒に溺れ、自分を見失った末にドロップアウトして帰郷することは
ちっぽけなプライドに、耐えがたい敗北感をもたらす。
「・・・少し、考えさせて頂けますか」

結局、保留にしていた誘いに了承の答を返したのは3日後。
環境をリセットしつつ、やりがいを感じ始めた仕事が続けられるという好条件をここで見過ごしてしまえば
恐らく、もう二度と巡り会うことは無いだろう。
家族とも親友とも疎遠になっていることが幸か不幸か分からないが
一人で新しい人生を始めるには、あれくらいの街が良いのだろうとも思う。


7月の終わりに役員面接を受け、盆休み前には正式な採用通知を受け取った。
入社日は9月1日。
それに向けた再始動の作業が、盛夏の訪れさえも忘れさせていく。

8月最後の週末、久しぶりに故郷への道を車で走る。
主目的は、先方での諸手続きと、引っ越しの荷物の受け取り。
車窓を流れていく、変わらない風景を目にするにつれ
大学進学で上京して以来、一度も、この街へ戻ってきていないことを思い出す。
幼い頃から反りが合わなかった父と、顔を合わせたくない。
訳あって絶縁してしまった親友とは、顔を合わせることができない。
帰郷する理由を見失って数年が経った今、自分も、周りも、それなりに変化をしてきているはずだ。
これを機会に、少しずつ、過去を清算できるかも知れないという期待もあった。

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陶然-醒-★(8/17)

土曜日ということもあり、広い駐車場に停まっている車はまばらだ。
客用、と書かれたスペースに未だ乗り慣れない車を停める。
その奥にある3階建の建物は程々に年季が入っており
質実剛健な外観は、まるで会社の経営方針を示しているように思えた。

「菅くん、かな。工事二課の柿沼です」
エレベーターから降りてきた中年の男は、エントランスに立つ俺を見るなり、そう言って笑顔を見せる。
「お世話になります。土曜日に申し訳ありません」
「構わないよ、ちょっと話をしておきたかったからね。・・・ああ、先にこれ」
差し出されたのは、作業服や社員証など真新しい備品の数々。
「名前とか間違いないか見て貰って。あと、もしサイズが合わなかったら総務に」
見るからに物腰の柔らかそうな彼は、既にひと仕事終えたかのように小さく頷いた後
パーティションで区切られた打合せスペースに入っていった。

今まで俺が手掛けてきた仕事や、これから受け持つであろう仕事の流れ。
柿沼課長との問答は、役員面接とは違う、より実務的な内容だった。
このやり取りで、部下の裁量を推し量っているのだろう。
自分がどこまで出来るのか、この経験を新たな場所で活かしきることができるのか。
俄かに走る緊張感は、けれど、話の中に懐かしい地名が出てくる度、僅かに解れていくような気がした。

「後、まあ・・・言える範囲で構わないんだけどね」
2~30分の応答が終わり、彼は手元の資料を片付けながら少し声のトーンを落とす。
「体調の方は、どうかな」
役員面接の際にも尋ねられた過去の病歴。
産業医が書いた診断書を提出していたものの、懸念材料である旨は、その時にもはっきりと伝えられ
採用通知に但し書きされた条件には、月に一度の通院と診断書の提出が挙げられていた。
社員に何か聞かれた際には家庭の事情で戻ってきたと話しておく、と告げた上司も
ざっくりとした事の顛末は了解済みのようで、その問に、俺は頷くだけの返事をしていく。
「人間関係は個々人の問題だから、そればっかりは正しい答えは出せないけど」
ひとしきり質問を終えた男は、再び柔和な顔をこちらに向けた。
「良い環境で仕事ができるよう、僕も努力するから」
「ありがとうございます・・・宜しくお願いします」


席を立ち、資料を手にした柿沼さんは、不意に何かを思い出したように俺を見上げる。
「ああ、そうだ。試用期間中は一応指導役の社員を付けるから、細かな点は彼から聞いて貰うとして」
「分かりました」
「彼、モリっていってね。君のことは弟の友達だって言ってたけど、知ってる?」
学生時代の友達に、同じ苗字の男がいる。
そして彼には、双子の兄がいた。
「守・・・輝政?」
「そうそう、そっちの方」

失くしてしまったはずの想いが一気に蘇る。
もう二度と会うことは無いだろうと思っていた男の若い笑顔が、心の中に戻ってくる。
得も言われぬ感情の震えを抑えながら、言葉を返した。
「ええ・・・知ってます」
「じゃあ、幾らかやりやすいかな。守と同じ年代の社員が少ないんでね、仲良くやってくれれば」

工業高校を卒業した後、この街で就職した、というところまでは聞いていたが
まさか、同じ業界にいるとは思ってもいなかった。
しかも、奇しくも同じ会社で働くことになると、想像できる訳もない。
課長と別れ、建物を出て、自分の車のシートに身を任せる段になって、やっと現実が認識できてくる。
奇跡を喜びたい一方で、面影が具現化されることへの不安も募った。
例え、目の前に彼が現れたとしても、夢が叶えられないことは明白で
むしろ、距離が近くなることで、絶望がより深くなるかも知れない。


「菅英聡と申します。至らない点も多くあると思いますが、ご指導の程、何卒宜しくお願いします」
新たな門出となった初日。
共に仕事をしていく仲間たちに、頭を下げる。
フロアには工事部だけでもざっと30人近くの社員がいて
一つの部署で見れば、前の会社とそれほど規模は変わらない様に思えた。
県内のみならず隣県の物件も手掛けているというから、相応なのだろう。
課長から紹介を受けている途中は、意識し過ぎないように、敢えて見知った顔を探すことはしなかった。

「守くん、ちょっと」
ミーティングが終わり、上司が一人の男を呼ぶ。
近づいてきた社員は、もちろん年月を重ねてはいたが、自分の頭の中にある姿とそう変わらない。
「しばらくは彼の現場に同行して、やり方を覚えて貰えれば」
軽く会釈した相手は、昔を手繰るような表情で俺に視線を送ってくる。
近しい仲だった訳でも無いのだから当然だと、心に過った寂しさを飲み込んだ。
「席は・・・守くんの隣が空いてたよね?」
「ええ、空いてます」
「じゃあ、宜しく頼むよ」


「ご無沙汰してます。いろいろとお世話になります」
「こちらこそ、宜しく」
持ってきた幾つかの資料や本を、パソコンだけが置かれた机の上に載せる。
隣の席には雑多な図面や紙束が山積みになっており、彼の仕事の状況を示すようだった。
「・・・別に、敬語じゃなくても良いけど」
席に着いた俺に対して、輝政は少し困惑したような表情を見せる。
弟の友達、多少は顔を知っている間柄。
彼の中にも、どう接して良いのかという葛藤があるのかも知れない。
せめてもの気遣いは嬉しかったが、公私の垣根は、しっかりと作っておきたいと思っていた。
「いや・・・じゃあ、会社の外では、そうします」

指導役といっても、彼が担当している物件は動き続けており、俺につきっきりになる時間は無い。
当面は、現場に同行しながら流れを把握し、社内にいる時は彼の仕事の補佐をする。
「どんな感じ?」
「ええ・・・何とか半分くらいは」
初日の今日は現場の施工図修正を任され、そうこうしている内に夕方を迎えた。
ソフトの使い方は分かるものの、前の会社ではオペレータに依頼することが多かった為
思ったように進まないことに対して、成果以上の疲労を感じていた。
しかし、恐らく彼にとってはそんな状況も織り込み済みなのだろう。
何処か安心したように小さく頷き、ふと顔を緩ませた。
「急ぎの作業じゃないから、今日は早めに上がって飯でもどう?折角だし」

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陶然-醒-★(9/17)

会社を出る頃、辺りは既に暗くなり始めていた。
西に伸びる山並みの影が、夕焼けの色で映えている。
社屋にはまだ多くの灯りが付いており、駐車場にも多くの車が停まっていた。
「あれ、菅の?」
隣に立つ男が、見慣れないであろう車を見やりながら口にする。
「うん、こっちだと車いるだろうと思って」
転職を決意した際、貯金を崩して購入した中古のハイブリッド車。
免許を取って以来、殆どハンドルを握ることが無かったこともあり、運転時には未だに腕が緊張する。
「良いなぁ。オレなんて、未だに軽だよ」
視線の向こうに入ってきた軽ワゴンは、確かに年季が入っていて
それでも、何となく彼らしさを感じさせられて、少しホッとする。
「そうだ。菅ん家って、どの辺だっけ?」
未だ建物の傍に立ち止まる彼が、そう尋ねてきた。
その言葉に、一瞬、答えを窮する。

二度と顔を見せるな。
地元の会社に転職するということを伝える電話口で、父は母の後ろでそう叫んでいた。
旧帝大レベルの学校に合格できなかった、一流の会社に就職できなかった。
何をするにしても蔑みの言葉しか投げつけてこなかった彼には、都落ちなど許せなかったのだろう。
元から実家に帰ることは選択肢に無かったが
少しでも距離を置きたいと、今は、隣の街に家を借りて暮らし始めている。
過去を清算するには、まだまだ、時間がかかるのだろう。
しかし、家庭の事情で転職したと公言している手前、何かしらの言い訳が必要だった。

「俺、今、桜木山に家借りてるんだ。・・・実家には、姉貴夫婦が住んでるから」
「え、そうなの?」
「だから・・・」
名前を呼ぶ段になって、こうやって直接語りかけるのは初めてであることに気が付く。
苗字か、名前か、そんなつまらない戸惑いを見透かされない様
学生の頃、仲間内だけで使っていた呼び名を選んだ。
「守アニの、家の近くで良いよ」

ふと視線を落とした彼は、すぐに俺の方へ向き直る。
「実はオレも、桜木山に住んでるんだよね」
「ホントに?どの辺?」
「バイパス沿いの、モールからちょっと山の方に入った辺り」
彼が言うモール、は恐らく家の近所にあるショッピングモールのこと。
引越しで入用なものは、全部そこで手に入れたばかりだ。
決して狭い町ではないものの、その言葉だけで何となくの位置まで把握できる。
「すごい近い。ウチ、その先のガソスタの裏」


自宅に戻り、車と荷物だけを置いて、待ち合わせ場所の居酒屋へ向かう。
断酒し始めの頃は、こういった場所に入るのも自制心が揺さぶられて恐怖に感じていたが
最近やっと、酒宴に付き合っても耐えられるようになってきた。
何より、彼の前で情けない姿を見せることはしたくない。
店の前に立つ彼を見やりながら、大きく深呼吸をした。

「酒飲めないんだ。へぇ・・・ちょっと意外」
当たり前のようにビールを2杯と注文しようとした男を制した俺に、彼は驚きの表情を見せる。
程なく運ばれてきた二つのグラスを軽く触れ合せ、互いに中身を呷った。
良い飲みっぷりを見せつけてくる姿を横目に、煙草に火を点ける。

「ナオには連絡したの?こっちに戻ってきたって」
ジョッキの2/3以上を喉に通し、彼はそう尋ねてくる。
彼の弟である直政とは中学・高校と同じ学校で、よくつるんでいた仲間だったこともあり
旧友の兄の質問は、至極当たり前だった。
「実は、最近あんまり連絡取って無かったから・・・連絡先も分からなくて」
「今から呼ぶ?30分くらいで来れると思うけど」
「いや、またの機会でいいよ。ここで盛り上がると、明日きつそうだし」
取ってつけたような誤魔化しの答に、輝政は笑って同意し、弟の連絡先を教えてくれる。
手元の端末に収まった電話番号とメールアドレスを目で追いながら
未だ燻る淡い想いと、若気の至りで自ら断ってしまった縁を思い起こしていた。


たまたま席が近かったという理由から仲良くなった直政に双子の兄がいると知ったのは
弟の忘れ物を俺たちの教室へ届けに来た姿を見た時だった。
容姿は確かに良く似ていたが、雰囲気は全く違うという印象が、強く心に残っている。
そんな彼はずかずかと友の机に近寄り、2、3冊の教科書を机の上に放り出した。
「おう、ご苦労」
「教科書忘れるなんて、馬鹿じゃねぇの?」
「そんなのお前が良く分かってんだろ」
「午後、その授業あっから。それまでに返せよ」
短いやり取りを終えた彼は、妙に冷めた目でこちらを一瞥し踵を返す。
「入れ替わっても絶対分かんねぇよな」
「授業サボってもバレないじゃん」
「・・・そんな奴と一緒にすんな」
仲間が口にした言葉に強張った声を残し出ていく兄を見て、弟はつまらなさそうな溜め息を一つ吐いた。

決して仲の良い兄弟では無いということは、ナオとの仲が深まるにつれ分かってきた。
友の家に遊びに行く機会があっても、兄が顔を出すことは殆ど無く
むしろ、弟の方が兄に気を遣っている場面を見ることの方が多かった。
気の強い友が兄と遣り合った後、僅かに表情を曇らせる姿を見て
周囲には分からない事情があるのだろうと、思っていた。

学校で偶然出くわす彼の姿を目で追うようになっていたのは、いつのことだろう。
直政と対峙する時とは全く違う無防備な顔が、羨ましかった。
けれど、クラスも部活も違う状況で、友達の兄以上の接点は望めない。
高校進学を前にして、当然同じ高校に行くものだと思っていた輝政が違う学校へ進学することを知った時
取り返しがつかない程に大きくなった想いと、自分の正体に気が付いた。

高校に上がり、彼を見かける機会はごく僅かになった。
たまに直政の家に集まっても、兄はこちらを一瞥することも無くなり、弟も気にかけることは無い。
並ばなければ双子だとは分からない程に容姿もかけ離れ
友に、彼の姿を重ね合せることも難しくなっていた。
それでも想いは燻り続け、叶わぬ恋を、ほんの少しの面影だけで慰める日が続いた。

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陶然-醒-★(10/17)

卒業式の前の日は曇り空で、やけに肌寒かったのを覚えている。
校門を出ようとしている直政に、後ろから声を掛けた。
「今、帰り?」
「そう。菅は・・・引越し、もうすぐじゃねぇの?」
「今週末かな」
「東京行っても、休みには戻ってくんだろ?」
「そのつもり」
仲間内の送別会は既に済ませ、各々が新たな門出に向かって歩き始めている。
とはいえ、郷里を離れるのは俺ともう一人くらいで、彼を始め、友人たちの殆どは地元に残る。
彼の兄も、また、この街で就職するのだという話は聞いていた。

「守アニは、就職するんだってね」
「ああ、そう」
「勉強できるんだから、大学行けば良かったのに」
無意識で口にした言葉に、友人は顔を歪ませる。
「知らねぇよ。あいつが決めたことなんだし」
ここ半年以上、兄の話題になると、彼はそんな態度で不仲を暗に示してきて
居た堪れなさを感じながら、話を擦り替えることがしばしばあった。
「・・・何でお前、テルのこと聞きたがんの?直接聞きゃあいいじゃん」
「まあ、そうだけど。・・・接点ないし」
耐えかねたのであろう心情が、言葉と視線でぶつけられる。
「オレ、あいつと仲わりーの、知ってんだろ?あんまり良い気分しねーんだけど」

向き合った彼の顔に、想いを寄せる男が重なる。
彼氏彼女を作り、幼い恋を満喫する仲間たちを羨ましく思う日々。
そんな中で一人育んできた想いを、何処かで理解して欲しい思っていた部分は確かにあった。
「何だよ?」
立ち止まった俺に、直政は訝しげな言葉を投げる。
「俺さぁ・・・」
仲違いを続ける兄に対して、然程の興味も持っていないものだと、思っていた。
「ずっと、守アニのこと、好きだった」
呟きを聞いた友の顔が、俄かに強張っていく。
「・・・え、何?好きって・・・意味わかんねぇんだけど」
「俺、多分・・・男が、好きなんだと思う」


彼との距離が少し遠くなったのは、気のせいでは無かった気がする。
「マジで・・・お前。何で、あいつ?」
「・・・分かんない。一目惚れかな」
「一目惚れって・・・男に?しかも、オレと・・・」
混乱したような口調が不意に止まり、僅かに怯えた視線が俺を刺す。
理解しがたい感情が自分にも向けられているのではないかと、彼は思ったのだろう。
「お前には、そういう感情、持ってない」
「でも、似てんじゃん。あいつと、何が違うんだよ」
「違うよ、全然。喋り方も、笑い方も、歩き方も・・・全然違う」
確かに顔の造りはよく似ているし、声も、背格好もほぼ変わらない。
関係が遠いからこそ、憧れて、夢を見て、恋に落ちたのかも知れない。

「あいつと、キスしたいとか、ヤりたいとか、そう、思ってる訳?」
「・・・ぶっちゃけ、思ってる」
「テルは・・・そういう趣味、ねぇと思うけど」
「だろうね」
たどたどしい問に答える度、聞こえてくる声のトーンが息苦しいものになっていく。
話題の着地点が見えないまま、時間だけが過ぎる。
彼が言い知れない嫌悪感を抱いているのは、痛いほど理解できて
それでも、未だ俺の前に立っていてくれていることが、救いに思えた。

誰かを好きになることには、段階がある。
好意を持つことから始まって、好意を持たれることを期待し、その身体を欲するようになり
それはやがて独占的な感情になって、何時とも分からない成就の時を慰めるように待ち望む。
「どうしても・・・あいつじゃなきゃ、ダメなのか?」
ここまでのめり込んだ相手は、後にも先にも彼一人だった。
俺にとっては、彼が、全てだった。
一瞬逸らした視線で、恐らく、答は伝わったのだろう。
「他の奴だって言うなら、もっと違う風に思えたかもしんないけど・・・」
揺らぐ眼差しに、彼の心情が映る。
「あんな奴でも、一応兄弟だし・・・あいつには、幸せに、なって欲しいと思ってるんだ」
これが、彼なりの精一杯の拒絶の言葉。
そして、彼ら兄弟の間にある、他人からは決して慮ることのできない想いを見せつけられるようだった。


「・・・ナオ」
俺の呼びかけに、友は戸惑いの表情を崩さない。
彼との距離は、もう、元には戻らないのだと思い知った。
「一つだけ、我儘聞いてくれないか」
数年続いてきた時間が、ここで途切れる。
それでも、独りよがりな恋心を手放すことができなかった。
「そしたら・・・二度と、顔見せないから」

仲違いしている、というのは、恐らく兄からの一方的なものなのだろう。
目を閉じて身体を強張らせた友人を見て、そう思わせられた。
そうでなければ、ここまでは、できない。
二人の中で、唯一見紛うばかりに似ている、唇の形。
兄を想う気持ちを吸い込みながら、一瞬だけ、自らの物と重ね合せた。

「本当に、ゴメン・・・今まで、ありがとう」
遣り切れない眼差しを向けてくる旧友に、小さく頭を下げる。
「・・・菅」
「約束は、ちゃんと、守るよ」
大切なものを失う代わりに残された、些細で、温かな感触。
しかしもう、秘めた恋に罪悪感を抱くことも無い。
これで良かったんだ。
呪文のように頭の中で繰り返しながら、その場を後にした。


運命の悪戯に引き合わされた男が、そんな彼の今を教えてくれる。
中学の頃に付き合い始めたヒトミと結婚し、子供はもう小学生になるという。
昔の仲間から伝え聞いていた断片が、頭の中で一本のフィルムになって流れていく。
月日は、それだけ経った。
それでも、あの時の約束を破ることはできない。
憧れていた笑顔を、やっと手に入れた幸せを、この手に抱えていたかった。

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陶然-醒-★(11/17)

転職してから一ヶ月も経つ頃には、輝政と過ごす時間に違和感は無くなっていた。
仕事では彼の現場に同行し、家も近いから食事を共にすることも多い。
越えられない一線を恨めしく思いながらも、抱えていた不安は杞憂に終わりつつあり
その視線を感じる度に、気持ちが明るくなるようだった。

「病院?東京の?」
「うん、向こうにいた時から通ってたんだけど」
月に一度の通院について、彼は初耳だったらしい。
「何か、病気か?」
不思議そうな顔をして尋ねてくる男に、敢えて明るくあやふやな答えを返した。
「いや、大したものじゃ無いけど・・・ちょっと、精神的な、もの」
デリケートなことに突っ込んでくるような性格ではないのは知っている。
「そっか・・・」
想定していた態度に申し訳なさを感じながら、笑ってみせた。

ただ、彼に語ることのできない秘密が、ふと心を引き摺り落とすことがある。
直政に未だ連絡を取っていないこと。
前の会社で見舞われたトラブル。
何より、彼のことを思い続け、自らの慰みにしていること。
身体は依然として不能で、最後まで達することはできないけれど
匂いや体温を近くで感じる度に、確かな昂ぶりが全身を走る。
勘ぐられることは無いにしても、いつ自制心が崩壊するかも分からない。


金曜日の朝、地元の駅から東京へ向かう。
今回の上京には、診察とカウンセリングの他に、もう一つの目的があった。
前の上司である角谷課長から連絡があったのは、先週のこと。
元のグループが担当していたデベロッパーの社員と会って欲しい、という内容だった。

「久しぶりだな。元気だったか?」
「お陰さまで」
夕方、待ち合わせをしたのは、会社とはかなり離れた場所に位置する中華料理屋だった。
全室個室になっているという店の内装は豪奢ながら落ち着いた色彩で統一されており
その雰囲気が、却って気分を所在の無いものにしていく。
「仕事の調子はどうだ?」
「まだまだ覚えることが多くて・・・でも、馴染めてきてはいると思います」
「まあ、お前なら大丈夫だろう。気負わず、やることだな」
少し遅れているという待ち人を気にしながら、しばらく、そんなやり取りを続けた。

「お連れ様が到着されました」
扉の外から声が聞こえ、静かに引き戸が開く。
立ち上がった元上司に続いて、腰を上げた。
「お待たせしました。遅れて申し訳ございません」
部屋の中に入ってきたのは、一人の女。
それは、あの夜、ホテルにやってきた女だった。


「初めまして。事業開発本部の大竹と申します。わざわざご足労頂き、ありがとうございます」
俺と名刺交換をする彼女の柔らかな物腰は、あの時と何も変わらない。
しかし、その視線は、あくまで初対面であることを強調するものだった。
事業開発本部マネージャーという肩書を持つ女が、何故あの場に足を運んだのか。
今となっては、知る由もない。

「今日お呼びしたのは、弊社で現在新規リゾートの計画を進めておりまして」
広いテーブルに何枚もの資料を広げながら、大竹は要旨を語り出す。
マンションや商業施設を手掛けてきたデベロッパーが満を持して乗り出したリゾート事業。
その第一弾となる施設を、俺が住む街に計画しているのだという。
「こちらの事業について、御社にご協力を賜りたいと思っております」

大手のデベロッパーだけあって、子飼いの業者は幾らでもあるだろう。
ましてや、俺の隣に座るのは、付き合いの長い中堅ゼネコンの社員。
「・・・何故」
真っ直ぐに向けられた視線から逃げるよう、元上司の方へ顔を向けた。
「角谷課長から、菅さんをご紹介頂きましてね」
「え?」
「お付き合いのある業者さんにお願いするのが効率は良いのかも知れませんが」
意味ありげな笑顔を浮かべて、女は手元のグラスに入った中国茶に軽く口をつける。
「その土地の特徴をよく知っていらっしゃる地場の業者さんを探していたんです」
彼らが求めているのは、設計施工だけではなく、計画段階から協力してくれるパートナー。
話を伝え聞いた課長が、斡旋、という形で先方へコンタクトを取ったらしい。

降って湧いた話の展開に、正直、荷の重さを感じ得なかった。
ともすれば会社に大きなインパクトを与えかねないことを担わされるのが、怖かったのかも知れない。
「ですが、私はまだ転職したばかりでして・・・」
もっと上の人間と検討すべきだろう、そんな思いを込めた言葉に、大竹は意図しなかった返事を口にする。
「でしたら、ちょうど良いタイミングじゃないですか。菅さんにとっても」
「・・・え?」
「大きなお土産を持っていけば、貴方の立場も上がるでしょう?」

地方とはいえ、もちろん競合他社は存在する。
他にも声を掛けている、決断の機会を見誤るな、彼女の言葉の端々にはそんな気配が感じられた。
「貴方に全ての判断を委ねている訳ではありませんから、その辺は心配なさらないで下さいね」
俺の役割は、この計画を会社の上に伝え、答を促すこと。
「長いスパンでの事業展開になりますので、まずは私共との信頼関係を築くことから始めたいと思っています」
開発計画書と関係者の名刺を入れた封筒を残し、彼女は次の約束があるからと席を立つ。
頭を下げた俺に、女は、またお逢いましょう、と残して去っていった。


緊張の糸が切れた空間に、無意識に出た溜め息が溶けていく。
「驚かせて悪かったな」
手元の紹興酒を呷り、一つ息を吐いた上司がそう呟いた。
「いえ。でも、あの・・・」
「オレは今日、ここにはいなかった。あくまで、あちらさんと、お前の会社との、話だ」
本来であれば自社で取りに行くべき計画。
結果として、彼はそれを、金と引き換えに横流しした。
「しっかりやれよ」
「・・・分かりました。ありがとうございます」
角谷課長と大竹の間でどんなやり取りがあったのか、真相は分からない。
もしかしたら、過去の埋め合わせのつもりなのかも知れない。

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陶然-醒-★(12/17)

都会を後にした電車は、家々と田畑が混ざり合う平地を走り、川を渡り
徐々に落ち着きのある風景の中へ向かっていく。
やがて多くの車が行き交うバイパスと並走し始め、見慣れた建物が目に入ってくる。
もうすぐ駅に着く、そう送ったメールの返事が届いたのは、電車がちょうど駅に入ったタイミング。
たった一日離れていただけの男の面影が、心から愛おしく思えた。

たまには遠出してみないか、車に乗るなり、輝政はそう言った。
「あんまり疲れさせない様にするからさ」
病気のことを知って、何か気を遣ってくれているのかも知れない。
ネクタイを緩める俺に対して微笑んだ彼の表情に、そんなことを推し量った。

ショッピングモールを過ぎ、パイバスを走り続けること1時間弱。
県境近くの蕎麦屋に着いたのは、昼食の時間帯を少し過ぎたあたりだった。
付き合いがある現場の親方に連れてきて貰ったことがあるのだという彼の後をついて、店に入る。

「体調は・・・もう、良いの?」
注文した品を待つ間、輝政は言葉を選ぶようにこちらを窺ってくる。
「ん?ああ・・・もう殆ど良くなってはいるんだけどね」
「ストレスとか、そういう感じ?」
「そうだね・・・一時期、猛烈に忙しかった時期があって。でもホント、大丈夫」
真と嘘を織り交ぜながら、彼に答える。
回復してきている、というのはカウンセリングを担当してくれた心理士の言葉にもあり
それは自分でも実感していることだった。
「オレで良ければ、何でも聞くから」
「ありがとう、じゃあ、頼りにさせて貰おうかな」
きっと本当のことを話しても、彼なら受け止めてくれるだろう。
けれど根元まで辿っていけば、あの夜のことまで話さなければならなくなる。
それだけは、どうしてもできなかった。


帰路につく車の前後に車影は見えない。
制限速度を少し超過するようなスピードで、真っ直ぐな道を走っていく。
田舎の景色が煙草の煙と共に流れ、季節の移ろいを感じさせる空気が顔を掠めた。
「昨日さ、久しぶりにナオと飯食ったんだよ」
不意に聞こえてきた男の声に、少し心が強張る。
相変わらず仲が良好とは感じられない兄弟でも、顔を合わせることはあるだろう。
狼狽を悟られないように、一呼吸置いて言葉を返す。
「・・・そうなんだ。変わりなかった?」
彼は、それに対し、間髪を入れず問を投げかけてきた。
「もう、二度と会わないって、言ったんだって?」

血の気が引く思いだった。
首筋の辺りに覚えた寒気が、一気に全身へ広がっていく。
何故輝政がそのことを知るに至ったのか。
自分は今、どんな答を発するべきなのか。
混乱に支配された状態で、唇を震わせることしかできなかった。
「まだ・・・変わってねーの?」
彼の追い討ちに、感情はますます迷走していく。
「守アニ、オレ・・・」
「いいから、答えろよ」
車は依然スピードを落とさないまま、走り続けている。
この空間からも、男の追及からも、逃げ果せる方策は無かった。
「・・・変わって、ない」


先手を取っておけば良かったのかも知れない。
絶交を決めた旧友に、自分の気持ちを偽ってでも、約束の反故を頼むべきだった。
そうすれば、少なくとも、彼の気持ちを煩わせることは無かったはずだ。
運転席に座る男の表情を確認することもできないまま
風に揺れるネクタイの行方をひたすら目で追いながら、自分の想いを吐露した。

車内にしばらくの沈黙が訪れた後、彼は一つの疑問を呈してくる。
それは、彼にとっては当然の、俺にとっては聞かれたくない問だった。
「何で、あいつと・・・キスしたんだ?」

思えば彼らに出会った頃から、俺は二人の違うところを意図的に探していたように思う。
あの時、友の顔の中で唯一、記憶の中の面影を思い起こさせる部分があった。
「それは・・・似てたから」
「ああ、そうだよな。同じ顔だもんな」
歪んだ彼の吐息と共に、エンジンの回転数が僅かに上下する。
「・・・結局、どっちでも良かったんじゃねぇの?」
「全然違うよ、全然、違う。でも・・・唇の形だけは、本当によく・・・似てて」
色々なものを犠牲にして手に入れたあの感触は、思い出せないままだった。
しかし、やっとの思いで取り戻した日陰の恋心は、彼の視線に曝されることで消えてしまう。
俺には、もう、何も残らない。
「好きになったりして・・・本当にゴメン」


ウインカーの音が微かに聞こえ、車が減速し始める。
すぐに、窓から入ってくる風が感じられなくなった。
シートベルトを外す金属音に、思わず身体がビクつく。
「・・・菅」
目の前の闇に、相対する勇気は無かった。
遠のきそうになる意識を無理矢理醒まさせたのは、唐突に近づいてきた男の気配。

頭を掴まれたままで向き合った彼の表情を確認する間もなく、軽い衝撃と共に唇が重なり合う。
その感触を追いかける様に状況が認識され始めると、疑問符だけが頭を巡っていった。

ふと離れた彼の口から、小さく息が漏れる。
細い視界の向こうからは、何処か切なげな眼が自分を真っ直ぐに見つめていた。
再び触れ合った物の感触が、今度は直接的な刺激になって身体に作用してくる。
自制心が揺さぶられる恐怖で咄嗟に手が動く。
彼の肩に手を置き僅かに力を掛けると、男の体温はゆっくりと離れていった。

真意を聞くべきか逡巡している自分に、彼は少し眉をひそめて口を開く。
「せめて、思い出すなら、本物にしてくれ。そんなものまであいつに取られるなんて、耐えらんねぇ」
兄弟の関係は、思った以上に捻じれている。
"そんなものまで、あいつに取られる"
彼の行為と言葉には、自分に対する想いよりも弟に対する葛藤が感じられ
散々焦がれてきた本物の感触の余韻を味わうことに、躊躇いが生じてくる。
「守・・・」
「あと、その呼び方、もうやめてくんないか。あいつの付属品みたいで、嫌なんだ」
「・・・分かった」
弟が成し得なかった俺との関係を築くことで、彼は、優越感を手に入れたいのかも知れない。

「・・・テル」
今まで妄想の中で幾度となく呼びかけてきた名前を、初めて口にする。
「本当に、良いのか?」
「さあ・・・どうなんだろうな」
「いつか、きっと、後悔する。もっと、まともな・・・」
「後悔しない人生なんて、ねぇよ。どんな道選んだって、あん時こうしておけば良かったって、思うさ」
決着のつけ方は、もっと他にもある。
気の迷いなら、まだ引き返せる。
何より、こんな形で恋心を成就させるのは、余りにも惨めだ。
戸惑いを隠さない男の表情に、まだ挽回の可能性があることを悟る。
立ちはだかる岐路の前で差し伸べられた手を取ることは、できなかった。

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陶然-醒-★(13/17)

輝政が隣県のショッピングモール建設に携わると決まったのは、翌週の月曜日のことだった。
会社でもあまり例のない規模の上、施主からの分離発注という好条件故に
社内でも今年度の重要案件とされている事業。
時折見せる、緊張と矜持が入り混じる彼の表情に、複雑な想いを抱いていたものの
ぎこちなかった二人の時間は、やっと平穏な状態に戻ってくる。
しかし、あれだけ希求していた互いの関係は、未だ躊躇う自分が彼に引っ張られる形で進んでおり
肌を寄せ合っていても、唇を重ねていても、何処か他人事のように思えてしまう。


来週から現場に出向く同じ歳の先輩を、いつものようにモールの居酒屋で労い、自分の部屋で夜を過ごす。
顔を合わせることができる機会は、今までよりもぐっと減る。
彼がその寂しさを素直に口にする度、後ろめたい想いが頭を巡った。
距離を置くことで、男の抱える感情が少しは鎮まるかも知れない。
そうすれば、彼の人生はまともな方向へ戻っていくはずだ。
そんな自分勝手な期待が俺の中にあったことは、確かだった。

夜も深くなってきた時間、煙草に火を点けたタイミングで、彼が唐突に質問を投げてくる。
「お前、さぁ・・・男とヤったこととか・・・あんの?」
その口調から意図は概ね理解できたが、彼の想いが予想以上に大きくなっていることに、不安が募る。
たった一回、男と身体の関係を持った夜のことを思い起こす。
恋愛から一歩踏み出した先にある行為がどんなものなのか。
思い知らせてやれば、彼の傷は、まだ浅くて済む。

「・・・あるよ」
溜め息と共に煙を吐出し、その行方を目で追いかける。
「そう・・・」
訪れた沈黙を振り切るように、再び煙を吐く。
そうこうしている内に、煙草はフィルターギリギリのところまで燃え尽きた。
灰皿で揉み消し、彼の方へ向き直す。
落ち着かない視線を受け止めてすぐ、男は意を決したように、予想通りの疑問を口にした。
「オレとは・・・どうにかなろうって、考えないのか?」

学生の頃にやっていた柔道から離れて、もう何年も経つ。
けれど、相手を押し倒す際の間合いや力の籠め具合は、身体が覚えているらしい。
立ち上り、輝政の肩を掴んで力を入れると、その上半身はあっさりとベッドに倒れる。
驚きの表情を浮かべる男を押さえつけ、無理矢理口づけた。
小さく身を捩る気配を無視して、衝動のままに唇を滑らせる。
「す、がっ・・・」
抗いの呼びかけで、本能の勢いが弱まった。
それでも、襟元から覗く肩口に鼻頭を潜り込ませ、鎖骨を咥え込むように愛撫する。
色めきかけた吐息が髪を揺らしたところで、彼はやっと俺の肩に手を掛けた。

顔を上げた先には、表情を強張らせたままこちらを窺う男の姿があった。
「怖いだろ?主導権、取られるの」
「・・・え」
その気になれば、これ以上の行為に及ぶこともできる。
男としての尊厳を、めちゃくちゃに壊してやることもできる。
「どうにかなるって、そういうことだぞ?」
そんな警告を口にしながら、彼の頬に唇を寄せた。
「テル・・・もう一回、よく、考えろ。この道で、良いのか」


週明け、朝のミーティングの後で柿沼課長に呼び出され、会議室へ向かう。
総務の社員が長机の上に置いていたのは、そこそこの厚みがある冊子。
表紙に印刷されていたブランドロゴで、それが何の資料なのかはすぐに分かった。
「やっと社内で正式にGOが出たんだよ」
上司が椅子に腰を下ろすのを見届け、その隣の席に着く。
ざわつき始めた空間に一人の女子社員が入ってきて、慌ただしく一枚の紙を資料の上に置いていった。
「これは・・・」
営業部長をリーダーとした、リゾート開発プロジェクトの組織表。
各部署から課長級と中堅の社員が名前を連ねている。
だが、工事部からは柿沼さんと他のグループの中堅社員だけで、自分の名前は書かれていない。
訝しむ俺の態度を察した隣の男が、紙の上のあらぬ場所を指差す。
「どうして、私が」
「あちらさんのご指名だよ。若手なりの多角的な視点と発想力に期待したいって」

営業・設計・工事の各チームを横断的に統括する、計画統括チーム。
立地の調整や採算の検討から、デザイナーの選定やブランドイメージの策定まで
デベロッパー本社に設けられたプロジェクトチームとの調整役になる部署だ。
「月に二回くらい、あっちの会議に行って貰うことになるんだけどね」
先方とウチの会社の混成で、頭を張るのはプロジェクトマネージャーでもある大竹。
「君なら大丈夫、そう思って、僕も二つ返事で了解したんだ」

昇進には然程興味は無かったし、何より一度ドロップアウトした身ではあるものの
ショッピングモールの計画に輝政が携わると聞いた時
技術者としてのキャリアを着実に重ねている彼を認めつつも、羨ましさもあった。
唐突な抜擢にプレッシャーを感じない訳も無かったが
これで、自分の中に燻る負い目を、幾許か減らすことができるかも知れない。

営業部長を先頭に、数人の男女が会議室に入ってくる。
その中には見知った女の顔もあった。
目で追いかけていると、不意に彼女の視線がこちらの方に向けられる。
僅かに目を細めた笑みが、行き過ぎそうになる緊張感を、少しだけ和らげてくれた。


朝一番で始まった会議は、昼食を挟んで夕方近くまで行われた。
自分の机に戻ると、電話のメモが数件置かれており
パソコンのディスプレイには作りかけの議事録が表示されている。
新たなプロジェクトが始まったとはいえ
受け持っている物件が竣工を迎えるまでは、並行でこなしていかなければならない。
順番に電話をかけ、メールを返信し、議事録の作成が終わる頃、社内は既に残業時間帯になっていた。

仕事がひと段落したのは、夜8時を回った辺り。
多忙な一日の中で、隣席の男がいない寂しさを感じる暇は無かった。
あちらも、現場事務所の開所初日、忙しい時間を過ごしているのだろう。
空の机を見やり、その光景を想像しながら、労いの言葉でもと自らのスマートフォンを取り出した時
最後に目にした、酷く狼狽えた彼の表情が頭を過った。
考える時間が必要だ、輝政にも、自分にも。
そう言い聞かせるように、深呼吸をする。

思いがけない相手からの着信があったのは、その直後だった。
席を立ち、廊下に出たタイミングで電話を受ける。
「・・・はい」
「ああ、菅?」
「そう。・・・久しぶり」
「突然悪ぃな。テルから番号聞いたからさ、連絡してみようと思って。まだ仕事か?」
口調はやや落ち着いたものの、喋り方はあまり変わっていない。
そっくりだった声色が随分違うように聞こえるのは、体型の所為だろうか。
「いや・・・もう、終わるところ」

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陶然-醒-★(14/17)

旧友の変貌ぶりは、輝政から話を聞いていなければ、全く気が付かない程だった。
「変わってねぇなぁ。ちょっと痩せたか?」
「運動しなくなったから、筋肉が落ちたかも。ナオは・・・デカくなったな」
どちらかと言えば線が細いタイプだった少年は、すっかり貫禄の付いた男になっている。
「オレぁ、幸せ太りだな」
「そりゃ、何より」
やんちゃな笑い声を上げた男に続き、いつもの店に入る。

互いにソフトドリンクを注文し、晩飯になりそうなメニューを選ぶ。
「飯は、食ったの?」
「一応。でも、ちょっと腹減ったな」
ページを繰りながら、食い合わせ等は気にしないかの如く、彼はあれこれと候補を上げる。
「夜食にしては、食い過ぎじゃないか?」
「お前も食うだろ?」
「いや・・・まぁ、良いけど」

コーラとウーロン茶で軽く乾杯をし、再会をささやかに祝う。
「帰ってきたんなら、連絡くらいくれても良いんじゃねぇの?」
「・・・ごめん」
煙草に火を点けようとしたタイミングで、彼は指を一本立てて、ねだるジェスチャーを見せた。
箱とライターを渡すと、取り出した煙草のフィルターを数回叩いて火を点ける。
「あいつ、今日から出向なんだろ?」
「そう、常駐で」
向かいに座る男の吐き出した煙が、天井へと霧散していく。
「新しい仕事は、上手くやってんの?」
「それなりに」
彼が、兄のいない機会を見計らっていたのは、明白だった。
会話にぎこちない間が生まれ、その度に視線を下に落とす旧友の顔を、まともに見ることはできなかった。

「偶然、見かけてさ。あいつと一緒にいるとこ」
この辺りに、目立った施設はそう多くない。
数年前に出来たというショッピングモールは、若者や子供がいる家族にとって絶好のスポットとなっており
直政も、よく家族でここに訪れているのだという。
「お前のこと、信用してない訳じゃねぇけど・・・全部話した。あん時のこと」
彼にしてみれば、警告のつもりだったのだろう。
それなのに兄は、彼の言葉で進むべき方向を見誤っている。
そして弟は、そのことに気が付いていない。
「何にも・・・ねぇんだよな、あいつと」

直政に連絡を取らなかったという事実は、自分があの頃から変わっていないことの証明に他ならない。
期せずして燃え上ってしまった想いに抗おうとしている自分は、確かにいる。
しかし、振りきれずに縋ろうとしている自分も、いる。
返す言葉を見つけられない俺に、旧友は事態を悟ったようだった。
「オレがお前に会いに来た意味、分かるだろ?」
「・・・ああ」
"あいつには、幸せに、なって欲しいと思ってる"
あの時の彼の想いは、変わらず彼の中に残っている。
もちろん、その相手は、俺ではない。
「仲良くすんのは構わねぇ。けど、そっから先は、踏み込まないでやってくれ」
静かにそう言った彼は、目を伏せて、小さく頭を下げた。


週末の夕方。
10年近く会っていなかった旧友たちは、皆それぞれに歳を取り、大人になっていた。
「久しぶりだなぁ。戻ってきてんなら声かけろって」
「ごめん。バタバタしてて、なかなか時間取れなかったんだよ」
こうやって直政の家に集まることは珍しい事ではないらしいが
ほぼ全員が顔を合わせたのは半年ぶりなのだという。

「菅くんは何飲む?」
懐かしい顔を眺めているところに声を掛けてきたのは、ヒトミだった。
中学の頃は仲間内の紅一点。
男たちはそれなりに彼女に対して想いを寄せていたようだが、結局は、直政が攫っていった。
「ああ、俺、車だから・・・」
守兄弟の家の近所に住んでいたこともあり、彼らとは小さな頃からの幼馴染で
そうなることは、ある意味必然だったのかも知れない。

ウーロン茶を注いでくれた彼女は、ふと時計を見やり、問い掛けてくる。
「そう言えば、テルから何か連絡ってあった?」
「え?」
「菅くんも来るから、テルもおいでよって声かけたんだけど、何も反応無くて」

結局、この一週間、彼と連絡を取ることは無かった。
輝政からも、連絡は来なかった。
距離を置けばおのずと気持ちも落ち着いてくるだろうと期待していたはずなのに
声が聞きたいと思う衝動を、友達との新たな約束を言い訳にして堪えていた毎日。
俺が直政との関係を修復したと知った彼は、一体、どう思っているだろう。

「お前、こねぇんなら連絡くらいしろよ」
矢庭に電話で話し始めた男は、立ち上がり部屋から出ていく。
相手は恐らく、兄か。
酒が入り始めて雰囲気が盛り上がり始めた空間には、あちらこちらで笑い声が響いている。
「仕事、忙しいのかな。今日は来られないって、テル」
夫の様子を見に行き、すぐに戻ってきたヒトミは
子供を隣に座らせてジュースを飲んだ後、一つ溜め息を吐く。
「新しい現場が始まったばっかりだし、疲れてるのかもね」
「なかなか顔出してくれなくて・・・元気なら、それでいいんだけど」
寂しげに微笑む表情に、あの男が引き摺る負い目の原因が、何となく分かった気がした。


「菅、ちょっと」
随分と長いこと話し込んでいたであろう直政が、声を掛けてくる。
立ち上り、廊下に出ると、彼は自らのスマートフォンをこちらに差し出した。
「相当、酔ってる」
やや不機嫌な顔をして耳打ちし、男は壁に背中を預ける。
その空気に懸念を感じながら、電話に出た。

「・・・テル?」
「ちょっとさぁ、飲み過ぎちゃって・・・今日は、行けねーや」
初めて聞く、泥酔した声。
彼の心がまともな状態ではないことは、明らかだった。
「何やってんだよ」
スピーカーから聞こえてくる吐息が、徐々に揺らぐ。
無言の時に心を締め付けられるようだった。
「本気なんだ、オレ・・・」
遣る瀬無い呟きが耳に沁みるほどに、身体が震えた。
「会いてぇよ・・・菅」

隣に立つ弟に視線を送ると、彼は諦めを含んだ眼差しを返してくる。
一人、先を行った男を追いかける決心がついた。
「今・・・何処にいる?」
「家」
「30分で行くから、待ってろ」
「・・・分かった」

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陶然-醒-★(15/17)

電話を返す素振りを見せると、直政はいいから切れというジェスチャーをした。
「ホント、馬鹿だ・・・」
悔しさを滲ませた声が、一瞬途切れる。
「訳わかんねぇこと言ってっから、好きにしろって、言っといた」
「・・・そう」
「あいつのこと、頼むわ」
未だ納得できないという表情を浮かべたまま、彼は俺の肩を叩いた。
「今度来る時は、あの馬鹿も連れてこいよ。全然、顔見せやしねぇんだ」


逸る気持ちを抑えながら、夜道を走る。
騒々しい光を振り撒く商業施設の脇の道を入り、彼が住むアパートの前までやってきた。
見上げた先の窓に灯りは無かったが、年季の入った軽自動車は定位置に停まっている。
あの状態で何処かに行けるはずもない。
とりあえず空きスペースに車を置いて、階段を駆け上がった。

幾度となくインターホンを押しても反応は無く、何回ドアを叩いても部屋の明かりは点かない。
あれだけ泥酔していたのなら、もしかして眠ってしまったのかも知れない。
けれど、何か彼の身にあったのなら。
居ても経ってもいられず声を上げようとした瞬間、ドアのロックが外れる音がした。

扉を開けた先には、這いつくばる様に俺を見上げる男がいた。
「電気点いてないし、何回チャイム押しても出ないし・・・何かあったのかと思ったよ」
「ああ、わりぃ・・・寝ちまったみたい」
廊下の照明が照らす男の顔からは、意識が朦朧としている様子がはっきりと見て取れる。
「どんだけ飲んだんだ」
「わかんね」
何とか上半身を起こした彼の身体を抱きかかえる。
立ち上がらせようとした時、その足がもつれ、急激にバランスを崩してしまった。

「こんなになるまで、飲むなよ」
倒れ込んだ輝政の身体を下にしたまま、彼の揺らぐ瞳を見つめる。
頬に添えられた手に呼ばれ、唇を重ねた。
「素面じゃ、やってらんなかった」
呼気に含まれるアルコールが鼻腔を通って身体の中に入り込み、鼓動が少し早くなる。
「・・・俺の、せいか?」
「そうだよ。お前がいないから、酒に酔うしか、なかった」
未だ薄弱な声を上げながら、彼の身体から力が抜けていった。

静かに、深い呼吸を繰り返す男の顔を、宥めるように撫でる。
「月曜日、ナオに会って・・・その時」
「あいつのことは、もう、気にすんな。話、つけたから」
こちらに差し向けられた手が襟元から中に入り込み、冷えた首筋に熱をもたらしてくれる。
頑なになっていた心が、解けていくようだった。
「すげー、酔ってる」
「ああ、そうだな」
僅かに眉を顰め、一呼吸置いてから、彼は俺を真っ直ぐに見た。
「すげー・・・酔ってる、オレ、お前に」
照れ隠しのように小さく笑い、言葉を続ける。
「ずっと、酔わせててくれよ」

目の前の霧が晴れていく。
紆余曲折しながら、時には躓きながら進んできた道の向こうが、やっと見えてくる。
暗がりの中、穏やかな表情を浮かべる彼に、何度となく口づけを繰り返した。
「素面に戻れなくなったら、どうする?」
「いいじゃん。一緒に、酔いどれてようぜ」
首に腕が絡み、身体が引き寄せられる。
抱き締めた男の感触が、心の奥に閉じ込めていた衝動を呼び起こす。
「今日は、主導権、お前にやる・・・好きにしてくれて、良いから」


力の抜けた彼を肩に担ぎ、ベッドまで引き摺る。
横たわった男の身体が深呼吸と共に軽く沈んだ。
傍に立つ俺に向けられた視線に呼ばれるよう、その上に跨る。

外から入ってくる僅かな光に照らされた表情は、酒の所為もあるだろう、酷く穏やかだった。
頬を撫でながら、奥底に潜んでいる昂ぶりを少しずつ引き上げる。
長い間妄想の中だけで処理してきた、恋心と対になった欲求が満たされるかも知れない。
けれど俺の身体は、まだ、大事なところが欠けている。
「俺さ・・・ダメかも知れない」
男の手が首筋から上半身を辿っていく。
「何が?」
「イけない、かも」
「何で?」
「ずっと・・・そうなんだ。途中で、ダメになる」

男の肩口に顔を埋め、一度きりの経験を、初めて声に出した。
自らが望んだ行為では無かったこと、それでも、快楽の中で溺れ "本当の自分" を暴かれたこと。
性的快感が身体を満たしていくにつれ顔を出しそうになる本性を、受け入れたくない。
こんな俺を、きっと彼は、軽蔑する。
それが、怖かった。

どうしたら、彼の期待に応えられるだろう。
耳元に軽くキスをして、顔を上げる。
「だから・・・」
左手で彼の頭を抱えたまま、右手で腰回りに添える。
一瞬微かに反応した身体に、指を滑らせた。

その時、彼の手が不意にこちらへ伸びてきて、浮かせていた腰が引き寄せられる。
「オレとでも、ダメか?」
下半身が密着し、男の感触が伝わってくる。
「・・・分からない」
興奮の気配を見せ始めた箇所を擦り合わせるように、彼は身体を小さく捩った。
「じゃあ、オレが、忘れさせてやる」

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陶然-醒-★(16/17)

ベッドに仰向けになり、両腕を頭の上で組んだ。
俺の上に跨った輝政の手がシャツの中に入り込み、掌の熱を身体に拡げていく。
他人からもたらされる優しい感触が背筋を波打たせ、鼓動を急き立てる。
時折やってくるキスに応え、繰り返される内に、やがて互いの舌が絡み合う。
仄暗い空間の中で、二人の興奮が膨張し始める。

指での刺激は、ほんの些細なものだったはずだ。
顔を歪ませた彼の行為は、けれど、恐怖にも似た感情を湧き立たせる。
俺の反応を男がどう受け取ったのかは、すぐ後にやってきた、より大きな刺激で思い知った。
「・・・っう」
親指で転がされるだけだった双方の乳首は、徐々に二本の指で翻弄されるに至る。
全身が無意識の内に震え、彼の表情に悦楽の影が見え隠れするにつれ
少しずつ、恐怖心が大きくなっていくのを感じていた。

衣服をたくし上げられ、上半身が露わになる。
胸元に顔を埋めた彼は、今度はそこを、舌で愛撫し始めた。
舐られ、突かれ、吸われ。
上下に振れる頭頂部をしばらく眺め、目を閉じ、自分の身体の変化に身を委ねた。

不意に、快楽を携えた痛みが首筋を走る。
半開きで荒い呼吸を吐き出していた口が、唇で塞がれる。
程なく咥内に入り込んできた舌を、衝動のまま、絡ませた。
「・・・どっちが、良い?」
目を細めた彼は、鼻頭を触れ合わせて問い掛ける。
ぬるついた場所を再び摘み上げられ、喘ぎが漏れた。
答を口にすることは憚られ、代わりに、すぐそこに迫る唇に舌を伸ばして口づけをせがんだ。

しつこいくらいになされる乳首への責めが、性欲を酷く煽る。
首の後ろがうっすらと汗ばんできているのを感じながら、自らの手を固く握りしめた。
その時、ふと輝政の顔が離れていく。
突き出していた舌を仕舞う途中のタイミングで、彼は意味ありげな笑みを浮かべた。
「やらしー顔」
軽い口調で投げられた辱めの言葉に、身体が更に熱を帯びる。


弄られ尽くした性感帯から手の気配が離れ、ゆっくりと脇腹を通って下半身へと近づいていく。
俺の横に並ぶよう体勢を取り直した彼は、再び口づけを繰り返す。
窮屈な場所を撫で回す手が、腰を浮かせ、喉を震わせる。
しかし、ファスナーの下ろされる音が耳に届いた瞬間、つい、男の手を制した。
「怖いか?」
優しい声の問い掛けに、抗う気持ちが薄まる。
「オレは・・・どんなお前でも、嫌ったりしない」
服の中に入り込んだ指が感触を確かめるように性器を弄り、程なく、外へ引きずり出す。
痛いほどに勃起した部分の先端を、彼の親指が滑る。
「だから、本当のお前を、見せてくれ」
不意に見せた真剣な眼差しが、男の心境を映しだす。
緩やかに扱かれる直接的な快感が筋肉を強張らせ、呼吸をぎこちなくさせた。

覚悟はそれなりに出来ていたはずなのに、身体はなかなかついてこない。
愛しい男の手に包まれたモノは、昇っては落ち、昇っては落ちを繰り返す。
遣り切れない彼の顔に居た堪れなさが募り始めた時、彼は俺の手を取り、自らの方へ促した。
言葉は無く、視線はキスで遮られた。
手を添えた場所は明らかに昂ぶりを見せ始めていて、軽く握ると、鼻息が顎を通って首筋へ抜けていく。
快感に心身を委ねる姿を晒すことが怖いのは、輝政だって同じことだろう。
より深く唇を求めながら、彼のベルトに手を掛けた。

腕を交差させ、吐息を絡ませ、互いの本能を撫で合う。
眉をひそめて肩で呼吸をする男の姿が、より一層、刺激を深くした。
掌に感じられる凹凸が如実になり、指先が僅かに濡れてくる。
その気配に応えるよう、少しずつ手の動きを速めていく。
「ちょ・・・待っ、て」
苦しげな声が耳を掠めた。
額を寄せ合った彼の眼が、俺を見上げる。
「も、ちょい・・・」
紅潮した官能的な表情に、衝動が逸った。
「・・・焦らして」

親指で亀頭を撫で、滲み出してくる汁を裏筋に擦り込むように弄る。
彼もまた、同じ仕打ちを俺に与えてくれた。
耐えきれなくなった声が、二人の間に満ちていく。
「オレ・・・どんな、顔、してる?」
距離を詰め、身体を密着してきた男の性器が、俺のモノに擦り付けられる。
熱く逞しい感触が堪らなく気持ちいい。
「すごい、やらしい」
これが、本当の、彼の姿。
俺だけが知る、無防備な彼の全て。
嫌いになりようがない。

「英聡・・・もー・・・やべぇ」
虚ろな声が漂い、頂点が近いことを報せてくれる。
「ん・・・うん」
声にならない言葉を返しながら、手に一層の力を籠めた。
ほとばしる衝動に身体を震わせるのは、いつ以来のことだろう。
あの時は、心と身体が引き裂かれるような絶望の中だった。
今は、違う。
男を求めてきた純粋な想いが、やっと、成就する希望の中。
「は、あっ・・・いっく」
甘い歓喜の声を上げた彼は、一足先に頂へと立ち、後を追う俺を引っ張り上げる。
「んんっ・・・ん、ふっ」
唇が奪われ、喘ぎが飲み込まれていく。
間を置かず、彼の手の中に欲望が噴き出す。
激しい鼓動に軽い眩暈を感じながら、目の前の身体にしがみついた。

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陶然-醒-★(17/17)

「あー・・・何か、酒が醒めちまったかな」
乱れた姿のままベッドに横たわる輝政が、そう言って薄い笑い声を上げた。
「でも、酔った勢いとかじゃ、ねぇから」
「・・・分かってる」
身体の脇に投げ出していた俺の手を、男の手が攫い、指を絡ませる。
「ずっと、あいつが羨ましかったんだ。オレばっか、いろんなもの諦めてきたって、思ってた」
彼への想いの中で、唯一残っていたわだかまりの正体。
「だから、お前の話聞いた時、あいつに無いものを手に入れたって・・・すげー、嬉しくて」
道を外れた感情を燃え上がらせていたのが対抗心と優越感であることは、分かっていた。
「・・・お前を好きになることで、あいつに勝った気になってた」
いつか、その諍いが無くなった時、自分が必要とされなくなる不安もあった。

握っていた手に少し力を籠めると、彼の身体がこちらへ傾く。
未だ熱を持った肌の感触が、心地良かった。
「けど、今は違う」
静かに近づいて来た唇が、首筋に仄かな刺激を残す。
「あいつには勝てねぇって思い知っても、それでも、お前だけは諦められなかった」
ふと、直政が見せた遣り切れない表情が頭に浮かぶ。
この夜、兄弟の相剋には、何らかの動きがあったのだろう。
勝敗は各々の胸の内で違うのかも知れないが、少なくとも目の前の男は、結果に納得しているようだった。
「・・・本気なんだ」
二本の指が顎に添えられ、視線が呼ばれる。
すぐ後にやってきた柔らかな感触が、身体に、素直に染み込んでいく。
「ずっと、一緒に、夢見てて欲しい」


東京で行われたリゾート計画のキックオフ懇親会。
会場には、関係各社の社員以外にも業界関係者やイメージキャラクターを務めるタレントなどが揃い
このご時世からすれば、それは豪勢なものだった。
今日は一泊していくという柿沼課長たちに用事があると言い訳し、宴席途中で会場を出ようとした時
お偉方と歓談している大竹の姿が目に入る。
彼女もこちらに気が付いたのか、小さく会釈をし、その輪から中座してきた。

「もう、お帰り?」
「ええ・・・明日は朝から用事があるもので」
初めて顔を合わせた夜と同じ和装に身を包んだ女は、不意に俺の頬に指を寄せて目を細めた。
「失くしたものは、もう取り戻したみたいね」
「・・・え?」
「でも、あのネクタイだけは持って帰って欲しかったわ。探すの大変だったのよ」
絶望に落とされた直後から、希望の一歩を踏み出し始めるまでの俺を知っている唯一の人間。
決して公になることは無い時間を共有しているという連帯感からか
誰にも知られたくない秘密を握られていても尚、それ以上の信頼を寄せ始めている自分もいた。
「期待してるわよ、菅くん」
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
「じゃあ、来週の会議で」
そう言って、彼女は麗しげな笑みを浮かべながら人々の輪の中に戻っていった。


会社に戻ったのは、夜7時過ぎ。
週末ということもあり、社員は殆ど残っておらず、フロアは閑散としていた。
来週から始まる会議用の資料を机に置き、メールをチェックする。
もう一度時計を確認して、玄関の隅にある喫煙所に向かった。

「折角だから泊まってくれば良かったじゃん」
「そうなんだけど・・・残作業もあったから」
彼が電話を掛けてくるのは、決まって7時半前。
現場事務所で晩飯を済ませるくらいのタイミングなのだろう。
誰もいない空間の中で、煙草に火を点ける。
「で、懇親会はどうだった?」
「すごい豪勢だったよ。有名人とかも来てて」
「マジで?いいなぁ・・・こっちなんか山の中で、しかもオッサンばっか」
色々なことがようやくスムーズに回り始め、俺自身にも迷いが無くなってきている。
笑いながら吐いた子供じみた愚痴すらも、何処か愛おしくさえ感じた。

「明日、朝戻ってくるんだろ?」
「ああ、そのつもり」
毎日のスケジュールが合わない中で、こうやって会話を交わすことすらできない日もある。
それだけに、余程のことが無い限り、週末は彼との時間に費やしたいと思っていた。
「・・・だから、今日帰ってきたのか?」
「ん?まぁ、それもあるかな」
土曜日の朝に少し顔を合わせ、昼はそれぞれのことを済ませて、夕方から二人で過ごす。
どちらから約束した訳でもなかったけれど、そんな流れが定着しつつある。

「まだ仕事か?」
「議事録やら報告書やらが貯まってるから、それ終わらせねーと」
「俺も会議用の企画書眺めてた」
「あんま、無理すんなよ」
「テルもな。・・・明日、楽しみにしてる」
窓の向こうには、よく晴れた夜空が広がっていた。
東京では見ることができなかった星々が、ここでは無数に見られる。
享楽と引き換えに星を手放した都会を離れ、故郷に戻ってきたことを、今なら心から良かったと思える。


二人で迎えた晩秋の朝。
幾分の肌寒さに、思わずエアコンをつけた。
「もうそろそろ、寒ぃな」
「こっちの冬は早いね」
バルコニーから聞こえてくる運転音を追いかける様に、生暖かい風が肌に当たり始める。
背中に彼の気配を感じながら、煙草を取り出した。

「・・・英聡」
週末限定の呼び名に未だ慣れない所為か、一瞬反応が遅くなる。
「何?」
火を点けようとライターに伸ばした手が、彼の声に遮られた。
「好きになってくれて・・・本当に、ありがとう」

思わず振り返った先にあったはにかむ表情につられて、顔が緩む。
ここに彼といることのできる幸せを噛み締めながら、静かに唇を寄せ合った。
背中に回された手から伝わってくる熱が気分を落ち着かせていく。
「冷たくなってんじゃん」
「ああ・・・服着るよ」
「暖めてやろうか?」
「・・・起きないの?」
「まだ、いいだろ。もうちょっと」
鼻の頭をくっつけたまま、酔い醒めを惜しむ男が俺の表情を窺った。
「しょうがないな・・・」

身体を撫で合い、口づけを重ねるごとに、悪い夢から醒めた心が新しい夢に酔わされていく。
彼と共に見る夢は酷く幸せで、この時間がいつまでも醒めないことを祈りながら、今日も二人で朝を迎える。

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Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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