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陶然-酔-(1/8)

「好きになったりして・・・本当にゴメン」
俯き、悲しそうな目をする彼女に対する、精一杯の強がりだった。
そんな強がりも、耳に届いた男の名前で砕け散る。
「テルのことが、嫌いな訳じゃないよ・・・でも、ずっと私、ナオが、好きだった」
何が違う、俺は、あいつと。
子供の頃に深く心に刻まれた言いようのない憤りが、今でも不意に蘇ることがある。


「守くん、菅って苗字に聞き覚えあるか?」
夕方、現場から戻った俺に、上司である柿沼課長が声を掛けてくる。
「スガ?」
「今度中途で入ってくる人なんだけど、君と同じ歳で、地元の中学出ててね」
そう言って、彼は一枚の履歴書をこちらに差し出した。
手に取った紙に貼られていた小さな写真で、遠い昔の記憶がぼんやりと蘇る。
「確か・・・弟の友達だったかと」
「そうか、じゃあ少しはやりやすいかな。試用期間中、彼の面倒を見て貰いたいと思って」
「いつから勤務なんですか?」
「来週から。まぁ、彼も前職で工事監理やってたから、すぐに慣れるだろうけどね」

中学生の頃、双子の弟である直政とは、同じクラスになったことが無かった。
互いのクラスで互いに友達を作ってしまったからか、あいつの友達とはそれほど縁がない。
たまに自宅に集まっていても、俺にはあまり馴染めず、さっさと自室に篭ることが多かった。
その中でも、菅という男はガタイが良く目立つ存在で、何とか名前と顔の一致する存在だ。
書類の中の彼は、それ相応に年を取り、随分華奢になった印象だったが
懐かしさを感じさせてくれるには、十分だった。


地元の中学から、隣の市の工業高校、そして地元のゼネコンに就職。
実家は出ているけれど、いわゆる外の世界には出たことが無い。
「菅英聡と申します。至らない点も多くあると思いますが、ご指導のほど、何卒宜しくお願いします」
9月の初めの朝ミーティング。
社員の前で挨拶をする男は、俺と違って東京の大学へ行き、中堅ゼネコンに就職した。
家庭の事情で実家へ戻ってきたと言うが、何処か洗練された雰囲気を感じるのは気のせいじゃないと思う。

「ご無沙汰してます。いろいろとお世話になります」
上司から指導役として紹介された俺に、彼は敬語を返してくる。
俺が彼をあまり覚えていない様に、彼だって俺のことをそれほど良くは覚えていないだろう。
だからなのか、俺たちの間には若干のぎこちなさが漂う。
「こちらこそ、宜しく。別に、敬語じゃなくても良いけど・・・」
丁度空いていた隣の席に腰を下ろし、彼は自らが持ってきた幾つかの資料を机の上に置く。
「いや・・・じゃあ、会社の外では、そうします」
就職難の時期に会社へ入った俺には、同期と呼べる社員が周りにいない。
それだけに、彼の存在が嬉しく思えた。

会社のやり方に慣れる為、この先2ヶ月は俺が受け持つ現場に同行する。
ただ、菅自身も即戦力として転職してきただけあって、飲み込みは早い。
一通りの流れを説明している中でも的確な質問が返ってきて、新人教育とは違う手ごたえがあった。
「前は、どんな建物、主にやってた?」
「僕がいた部署は、テナントビルとか商業施設がメインでした」
「なるほど。ウチはまぁ、こういう土地柄だし、割と何でもやる感じなんで」
実際、近隣の街の中でも大手の部類に入る会社は、公共施設から集合住宅までを幅広く手掛ける。
建物の規模は年々大きくなっていて、特に先日受注した隣県の大規模商業施設工事は
施主直の分離発注工事であり、社運を賭けた一大プロジェクトとして位置づけられている。
「身軽な中堅どころが少なかったから。期待してるよ」
「頑張ります」

夕方になって、終業時間を超えようとする頃。
菅は、俺が手掛けている物件の施工図修正を進めていた。
「どんな感じ?」
「ええ・・・何とか半分くらいは」
恐らく、大きな会社では各部署同士がきっちり区分けされているのだろうが
施工・工事監理が主であるウチの会社では、特に設計部隊の人手不足が慢性的なことから
施工図の修正も自らが行う場合もある。
幸運だったのは、菅がいた会社とウチの会社で使っている施工図作成ソフトが同じだったこと。
「急ぎの作業じゃないから、今日は早めに上がって、飯でもどう?折角だし」
「構いませんよ。でしたら、切りが良いところまで進めても良いですか?」
彼の視線が俺から外れ、その手が再びマウスを操り始める。
そうこうしている内に、俺のパソコンにも設備業者からの施工図が送られてくる。
いつもと変わらない慌ただしい夜の入口も、隣に誰かがいるだけで、少し、気が楽になるような気がした。


駐車場に置かれている見慣れないハイブリッドの車。
「あれ、菅の?」
「うん、こっちだと車いるだろうと思って」
俺の問に対して、約束通り、彼はタメ口で答えてきた。
「良いなぁ。俺なんて未だに軽だよ」
会社は最寄りの駅から徒歩10分程度の場所にあるが
電車の本数も少なく、バイパスに近いことから、社員の殆どは車で通勤している。
就職祝いにと父から買い与えられた軽自動車に乗り続けて8年。
流石に、そろそろ新しい物が欲しいと思うようになってきた。

「菅ん家って、どの辺だっけ?」
とりあえず目的地を二人の家の中間地点くらいで探そうと、彼にそう尋ねる。
「オレ、今、桜木山に家借りてるんだ。実家には姉貴夫婦が住んでるから」
桜木山というのは、俺たちの地元から車で20分程度行ったところにある隣町。
「え、そうなの?」
「だから・・・守アニの家の近くで良いよ」
守兄弟の兄で守アニ、というあだ名を、弟の仲間たちはよく使っていた。
数年ぶりに聞く呼び名でも、ちゃんと自分のことであると認識できるらしい。
「実は俺も、桜木山に住んでるんだよね」
「ホントに?どの辺?」
「バイパス沿いの、モールからちょっと山の方に入った辺り」
「すごい近い。ウチ、その先のガソスタの裏」

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陶然-酔-(2/8)

互いの車に乗り込み、互いの家に戻り
ショッピングモールに併設されている居酒屋レストランに、徒歩で向かう。
普段は車で移動しているから外で酒を飲む機会はあまり無いが、今日は久しぶりに飲める。
たまに自制が効かなくなることもあるものの、菅がいれば大丈夫だろう。

「ナオには連絡したの?こっちに戻ってきたって」
「実は、最近あんまり連絡取って無かったから。連絡先も分からなくて」
見た目と反して酒が飲めないという男は、ウーロン茶を呷った後で煙草に火を点けた。
「今から呼ぶ?30分くらいで来れると思うけど」
「いや、またの機会で良いよ。ここで盛り上がると、明日きつそうだし」
確かに、まだ月曜日。
それに、俺もあいつに会いたい訳じゃ無い。
名残惜しそうな笑顔の彼に、一先ず弟の連絡先を渡しておく。

「結婚式にも行けなかったしな・・・元気にしてる?」
「ああ、最近ちょっと太ってきたくらいじゃないか」
「中年太りにはまだ早いだろ。子供は、そろそろ小学生?」
「だな。今年の春、小学校に入った」
高校を出て専門学校に入ったものの、一年あまりで中退した弟は、父の斡旋で木材工場に就職した。
その後、二十歳の時に、中学生の時から付き合ってきた幼馴染の彼女とデキ婚。
「ヒトミも、変わりない?」
「ん・・・?最近会ってねぇけど、元気なんじゃないかな」
「実家には、あんまり帰んないんだ?」
「まぁ・・・もう弟家族の家みたいなもんで、ちょっと居心地悪いんだよ」
「ウチも姉貴たちがいるからな。よく分かるよ」
弟とつるんでいた菅は、弟嫁とはもちろん面識がある。
俺も子供の頃からよく知っている間柄だった。
それだけの理由では無いが、俺は未だに彼女のことを名前で呼ぶことができないでいる。
旧姓を口にする度あいつに諌められても、違和感を払拭することは難しい。


「もう8年目か。オレよりも全然上だな」
挨拶の時に渡した名刺を手に、菅は俺に視線を投げてくる。
今年から主任になり、給料も若干は上がったけれど、やはり高卒の待遇はそれほど良くは無い。
2年前に入社した大卒の新人や、中途採用の菅にさえ、5年後には役職で抜かれるだろう。
「東京の経験もあって、大学の建築学科も出てるんだから、あっという間に係長だよ」
「オレ、あんまり役職はこだわってないな。結局、この業界は経験が全てだと思ってるから」
「でも、前の会社の方がやってることは高度なんだろ?」
「ごく一部、金のあるところはいろんな技術を取り入れるけど、その他は一緒」

都会で作られる大規模な建物を業界紙で見る度に、憧れで溜め息が出る。
俺だって、大学へ行ってもっと専門的な知識を学びたかった。
そんな後悔が、気分を卑屈にさせていることは否めない。
「この会社の方が、いろんな建物手掛けられる分、遣り甲斐はあるとオレは思うけどね」
「そうか?規模も小さいし、普通の建物ばっかじゃん」
「でも、同じ建物は一つも無いじゃない」
「それは、そうだけど」
「前の会社ではずっと同じデベロッパー相手だったから、何処も同じ仕様でつまんなかったよ」
飲み物をウーロン茶から緑茶に替えた彼は、フィルターギリギリまで吸った煙草を揉み消す。
それは、くだらない俺の劣等感を見抜いた上での、気遣いだったのだろう。
「守アニの方が、技術者としての経験は何倍もあるんだから、自信持てって」


試用期間中も俺の現場に同行、行き帰りもほぼ同じ時間、家も徒歩圏内。
地元の友達は大学進学で上京したっきりだったり、家業を継いだ非リーマンが多く
会う機会も無いまま、距離が開いてしまっている。
おのずと菅と過ごす時間が多くなり、一か月も経つ頃には、弟の友達、では無くなっていた。
一緒に飯を食ったり、未だ引っ越しの片づけが終わらない彼の部屋の掃除を手伝ったりと
久しぶりに誰かと一緒に過ごす時間を満喫していたように思う。

ただ不思議だったのは、彼から弟の話題が出ることは殆ど無く、連絡を取っている気配も無いこと。
あいつの仲間は、今も殆どが地元に残り、俺の実家にちょくちょく集まっている。
詮索することも憚られて口にすることも無かったが、何となく後ろめたさも残っていた。


ある週の金曜日。
菅は一日休みを取って、東京へ向かった。
向こうにいた頃から通っている病院があるらしく、月一で診察を受けているのだという。
「何か、病気か?」
「いや、大したものじゃ無いけど・・・ちょっと、精神的な、もの」
笑って答えた彼に、それ以上のことは聞くことができなかった。
思い悩むような面は見えなかったし、無気力ということも無い。
気にはなったが、きっと改善しつつあるのだろうと、無理矢理自分を納得させた。

今日は一泊して、明日帰る。
会社から出て車に乗り込んだ時、菅からメールが届いた。
分かった、気を付けて、と短い返信を打った直後、着信が入る。
たまに電話を寄越しては、不機嫌な口調で近況を聞いてきて、実家に顔を出せと言ってくる男。
何かの緊急事態かも知れないから、無視する訳にもいかない。

「何だよ」
「今、何処にいんの?」
「今から帰る」
「じゃ、飯食おうぜ」
「家で食えよ」
「遅くなるからいらねーって言っちゃったんだよ」
「知らねーよ」
「じゃあ、モールんとこな。先に食ってるから」
ガサツな声の電話が一方的に切れる。
どうしてこうも自分勝手な行動をとれるのか。
文句を言いつつも、毎回それを許している俺が悪いのか。
溜め息と共に助手席にスマホを放りだし、エンジンを掛ける。
菅がいればちょうど良いタイミングだったのに、そう思いながら、駐車場を後にした。

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陶然-酔-(3/8)

また少し、恰幅が良くなったような気がする。
「遅かったじゃん」
ジョッキに入ったジュースを呷る茶髪の男は、俺を一瞥して、そう言った。
「車、置いてきた」
「酒は程々にしろよ。お前、酒癖わりーんだから」
「分かってる」
既にテーブルには幾つもの空の皿が並んでいる。
おしぼりを持ってきた女の子にビールを頼むと、彼女は分かりましたと口にしながら皿を片付けた。
メニューを見ながら晩飯の献立を組み立てる俺に、まだ食べ足りないらしい弟が声を掛ける。
「あー、オレ、串盛り合わせとコーラ」
「まだ食うのか。しかもコーラって」
「そんな食ってねーし。ウーロン茶、嫌いだし」
「俺もウーロン茶は好きじゃねーけど」
これだけ食べていれば、この体型も納得だ。
呆れた笑いを返しながら、店員を呼んだ。

良く冷えた酒が喉を通り、一日の鬱憤を洗い流していく。
「菅は?一緒じゃねーの?」
向かいの席でスマホに目を落としていた奴が、何処か不機嫌そうに尋ねる。
「え?ああ・・・今日は東京行ってる」
「そう」
やはり、互いに連絡は取り合っているらしい。
心に安堵が過った時、やっと弟は顔を上げた。
「あいつと・・・あんま仲良くしねぇ方が良いと思うんだけど」

実際、菅は旧友に連絡を取ってはいなかった。
弟家族がショッピングモールに出向いた際、たまたま俺と一緒にいるところを見かけたのだそうだ。
茶髪の男は手元のコーラに口をつけ、ちょっと啜ってテーブルに置く。
菅との間に何かあったのか、仲違いでもしたのか。
珍しく何か考えてる風の雰囲気に、沈黙だけが流れていく。

「煙草ある?」
「ねーよ。お前、禁煙してるんだろ?」
「外では良いの」
「勝手な奴だな」
一層ふてくされた表情を浮かべる弟は、俺のビールジョッキに手を伸ばそうとする。
その腕を払い除け、残っていた液体を一気に飲み干した。
「何なんだよ。喧嘩でもしたのか?」
「・・・絶交してる」
「何で」
「あいつ、お前のこと、好きなんだって」
「はあ?」


高校を卒業する直前のこと。
直政は、長年の友人から思いもよらない告白を受けた。
「オレさぁ・・・ずっと、守アニのこと、好きだった」
「・・・え、何?好きって・・・意味わかんねぇんだけど」
「オレ、多分・・・男が、好きなんだと思う」

確かに、弟が知る限り、彼に女の影は無かった。
それは、友人が勉強に部活にと忙しくしているからだと信じ切っていた。
同性愛者であることに加え、自分の兄に恋慕を寄せていると聞かされた彼は
本能的に湧き上がった親友への嫌悪感を、必死に拭い去ろうとしたのだという。

けれど、探るような問答を続ける内、相手の本気が見えてくる。
「どうしても・・・あいつじゃなきゃ、ダメなのか?」
見えてくるほどに、友が友で無くなっていく気がして、辛かった。
「他の奴だって言うなら、もっと違う風に思えたかもしんないけど・・・」
肯定するべきなのかと何度も何度も逡巡した後、結局弟は、菅の気持ちを否定した。


神妙な直政の顔で、その話に偽りが無いことは分かる。
しかし、俺の前で、彼がそんな感情を見せたことは一度も無い。
過去のこととして何処かに置いてきたのか、ひた隠しにしているだけなのか。
いずれにせよ、俄かに信じることはできなかった。

「・・・んで、絶交した訳?」
お冷の氷を含んだ男は、ガリガリと音を立てながら噛み砕く。
「オレからじゃねーよ。あいつが・・・もう、二度と顔見せないって」
未だに連絡を取っていないということは、つまり、彼の想いは変わっていないということなのだろう。
「お前と一緒にいるの見て、まさかって思ったよ」
「まぁ、そうだろうな」
「何も、ねぇんだろうな?」
「ある訳ねぇだろ。そんな・・・全然、気づかなかったし」
意味深な溜め息を吐きながら、弟は自らの指で唇を撫でる。
「何かあってからじゃ、ショックでけぇぞ」
「何か、って・・・」
「オレ・・・あいつと、一回だけ、キスしたんだ」
「は?」
「最後に、あいつがしてくれっていうから、したけど・・・何とも言えない気分、1ヶ月くらい引き摺った」
「何で、お前と・・・」
「お前の代わりだろ。同じ顔なんだから」
弟に口づけをせがんだ男は、それ以来、一切の連絡を絶ったという。

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陶然-酔-(4/8)

男が秘めている想いに、どう答えるべきだろう。
あいつの話を聞いて真っ先に浮かんだことは、そんな疑問だった。
同性を好きになるなんて有り得ない。
有り得ないのは分かっていても、彼が俺を選んだという事実に喜びを感じずにいられなかった。
それは恐らく、弟に対する優越感が大きかったのだと思う。
残酷な失恋で植え付けられた劣等感が、心なしか和らいでいく気もしていた。

「だから、あいつとはちょっと、距離置いとけって」
もちろん、直政は全く違う意味合いで、この話をしている。
「何で」
「お前、オレの話聞いてたのか?」
すっかり気の抜けたコーラをしかめっ面で流し込み、お冷で一息つく。
「知らない振りして、何も無かったことにした方が、関係も長続きするだろって」
「それは、まぁ、そうかも・・・な」
「そうすりゃオレも、いつか、あいつとまた仲良くできるかもしんねぇし・・・」
望んで縁を切ったはずはない。
気の置けない仲だったの弟より俺を選んだことに、複雑な嫉妬心を抱いているのかも知れない。
それでも、遠回しな警告は、却って菅への感情を歪めていく。


会社の後輩として、なりたての友達として、これからどんな風に付き合っていくか。
一人アパートに帰り、ほろ酔い気分で思案を巡らせる。
今まで通りの関係を保つことが、現段階では最良の道。
あいつの言う通り距離を置いてしまうことだけは、どうしても避けたかった。
あいつより俺を選んだという勝利を、手放したくなかった。
とはいえ、男が抱えている本心を目の前に差し出された時、俺は彼を拒否せずいられるだろうか。
幾ら悩んでも、堂々巡りになるだけで結論には辿り着かない。
逆に言えば、俺の中にはまだ、悩むだけの余地があるということなのだろう。

翌日、菅が帰ってきたのは昼前のことだった。
もうすぐ駅に着くというメールに、迎えに行くから待ってろ、と返信して家を出る。
車に乗り込み、大きく息を吐く。
一晩で出した答は、知らない振りをせず、距離も置かず、何も無かったことにはしないこと。
その後で、俺たちがどうなるかは分からない。
分からないけれど、各々が本心を隠したままで時を過ごしても、きっといつか、破綻する。


直政の家族は、週末になるとよくショッピングモールに顔を出す。
実家の近くには大きな店が無く、子供を連れて遊びがてらにやってくるのだという。
知らない内に一緒にいるところを見られても面倒な電話が増えるだけ。
たまには違うところで飯を食おう、と家から離れた場所に車を走らせたのには、そんな理由もある。

「体調は・・・もう、良いの?」
県境にある小さな蕎麦屋で、スーツ姿の彼に話題を振ってみる。
「ん?ああ・・・もう殆ど良くなってはいるんだけどね」
「ストレスとか、そういう感じ?」
「そうだね・・・一時期、猛烈に忙しかった時期があって。でもホント、大丈夫」
自殺者までは出ていないものの、近頃、関係者が鬱で休職していると伝え聞くことが多くなった。
仕事をしていれば幾らでも理不尽なことはあるし、限界まで追い詰められることもある。
程々人間関係に恵まれた今の会社でさえ、そういう状況になるのだから
大手の会社であれば、外から見えない負の部分も多くあるのだろう。
転職してきた理由も、それが何か関係しているのかも知れない。
「俺で良ければ、何でも聞くから」
「ありがとう。じゃあ、頼りにさせて貰おうかな」
穏やかに笑う菅の顔を見て、やっぱり手放せないと、思いを新たにした。


帰りの車の中で、菅は窓の外を流れる畑と山の景色を見ながら煙草を吸っている。
そろそろ秋めいて来た風が頬を掠め、心地良い。
「昨日さ、久しぶりにナオと飯食ったんだよ」
俺の呟きに、彼は僅かに間を置いて言葉を返す。
「・・・そうなんだ。変わりなかった?」
心なしか強張った声色だったのは、気のせいでは無かったと思う。
「もう二度と会わないって、言ったんだって?」

家に着くまでは、あと30分以上かかるだろう。
「まだ・・・変わってねーの?」
逃げ道のない密室で問を重ねる自分の行為が如何に残酷であるかは
俺に視線を向けることなく狼狽える男の姿を見れば明白だった。
「守アニ、オレ・・・」
「いいから、答えろよ」
目を伏せた彼が吐く弱弱しい溜め息が、車中の雰囲気を凍らせる。
遠い昔に味わった緊張感を思い出し、少し気分が悪くなった。
「変わって・・・ない」

断片的な思い出と、一瞬だけの感触を抱えて生きていこうと思っていた。
吐き出された彼の胸の内に、一つだけ引っ掛かりを覚える。
「何で、あいつと・・・キスしたんだ?」
「それは・・・」
幾つか想定された答の中で、男の口から出たのは一番聞きたくない言葉だった。
「・・・似てたから」
悔しさで、思わず憤りが吹き出す。
「ああ、そうだよな。同じ顔だもんな。・・・結局、どっちでも良かったんじゃねぇの?」
「全然違うよ、全然、違う。でも・・・」
ますます項垂れる姿に、居た堪れなさが増していく。
叶わない想いの痛みを和らげる為に、過去に縋ることは俺にもある。
「唇の形だけは、本当によく・・・似てて」
でも、彼が縋っているのは偽物。
よりによって、あいつのもの。
「好きになったりして・・・本当にゴメン」
絞り出された声が、心に刺さった。

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陶然-酔-(5/8)

道の前後に車の影は無い。
ウインカーを出して減速し、路肩に車を止めた。
額に手を当てたまま俯く男は、俺がシートベルトを外す音で、僅かに肩を震わせる。
「・・・菅」
小さく名前を呼んでも、何の反応も見せない。
だから、左手で頭を掴み、右手で顎を押さえて、無理矢理唇を重ねた。
一瞬とは言えない間、呼吸を止めて、触れ合わせ続けた。

少しだけ距離を開け、息継ぎをする。
間近に迫る男の眼は、戸惑いに揺れていた。
視線を離さずに、再び口づける。
彼の手が俺の肩に添えられるまで、一体、どのくらいの時間が流れたのかは分からない。
煙草の匂いが混ざる呼気を感じながら、しばらく見つめ合う。
「せめて、思い出すなら、本物にしてくれ。そんなものまであいつに取られるなんて、耐えらんねぇ」
俺の言葉に、菅は一つ息を飲んで、小さく頭を震わせた。
「守・・・」
「あと、その呼び方、もうやめてくんないか。あいつの付属品みたいで、嫌なんだ」
「・・・分かった」
男は混迷を振り払えない表情のまま、シートに身体を預ける。
冷静さを段々と取り戻してきた俺も、運転席に戻り、フロントガラスの向こうの空を眺めた。

「・・・テル」
彼から初めて呼ばれた自分の名前に、微かな違和感を覚える。
「本当に、良いのか?」
予想していた反応とは違う悲愴な声色が、その心境を映しているようだった。
「さあ・・・どうなんだろうな」
自分がした行為の正誤も、男の心の内も分からない今の俺には、そう答えるしかない。
「いつか、きっと、後悔する。もっと、まともな・・・」
「後悔しない人生なんて、ねぇよ。どんな道選んだって、あん時こうしておけば良かったって、思うさ」
もう、何も無かったことにはできない。
先のことは、二人で考えれば良い。
彼にも、同じように思っていて欲しかった。


翌週月曜日の朝礼後、各々が自席に戻る中で課長に呼び止められた。
「守くん、今手持ちの物件ってどのくらいある?」
「明日の竣工検査分含めて、4件です」
「月末までには全部終わらないよね」
「それはちょっと、厳しいですね」
彼に促され、打合せ机の前に立つ。
その上に置かれていたのは、図面の束や資料の数々。
「これ・・・」
「長丁場なんだけどね。工務長の下での調整を君にお願いしたいと思って」
隣県初出店となるショッピングモールは延床面積10万平方メートルほどの中規模施設ではあるが
ウチの会社で手掛ける物件としては、かなり大きな規模の建物になる。
地域での販路拡大を狙う施主と、これを機に新たなパイプを手に入れようとする施工業者。
互いに力の入れようは半端じゃない。
もちろん、俺はここまでの物件を担当したことは無く、まさか自分に回ってくるとは思ってもいなかった。
「来月の初めに事務所立上げだから、それまでに今の物件を菅くんに引継ぎできるかな?」

大量の紙を抱えた俺に、上司はもう一つ、問を投げかけた。
「ああ、後・・・菅くん、調子はどうかな?」
フロアの向こうを見やる柿沼さんの視線を追いかけ、男の姿を認める。
「特に、変わりないと思いますが」
「そうか、なら良いんだけど」
若干声のトーンを落とした彼は、ここだけの話、と前置きをして俺を見た。

鬱病とアルコール依存症の併発。
菅は入社3年を過ぎたあたりから、その病気に苦しみ始めた。
原因は他の社員からのパワハラだったということだが、詳しいことは聞いていないという。
ただ、半年も経つ頃にはまともに就業することもできなくなり
先方の上司が気がついた時には、既に投薬が必要なレベルまで悪化してしまっていた。
長期休暇で療養し、何とか会社には復帰したものの、当然、以前の環境には戻れない。
ウチの会社の上席に伝手があったことから転職する形になったが
その条件として、毎月、診断書の提出を求めているのだそうだ。
「やっぱり、地元の方が落ち着くのかな。君もいるしね」
業務に支障はないだろうと答えた俺に、上司は心許なげな笑みを返した。


「何の話だったんですか?」
資料を側机に置いたタイミングで、隣の席の菅が声を掛けてくる。
「・・・ん?例のショッピングモール、担当しろって」
「へぇ・・・じゃあ、あっちに常駐ですか」
「そう。だから、手持ちの物件、引継ぎしたいんだけど」
転職してきてから1ヵ月半。
既に彼一人に任せている物件が幾つかあるから、互いの時間を調整する必要がある。
「今週なら・・・木、金以外は、大丈夫ですよ」
卓上カレンダーで予定を確認する彼の横顔に、いつもと変わったところは無かったものの
上司から告げられた彼の過去に、何処か懐疑的になってしまう自分がいた。
「月末まで終わらないのは・・・これとこれですかね」
僅かに集中力が切れた俺の頭に、彼の声が入ってくる。
「あ・・・うん、そう。どうしようか、水曜日午後から、時間空くかな」
「分かりました。予定しておきます」

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陶然-酔-(6/8)

物件の引き継ぎも終わり、新しい物件に関するミーティングに取られる時間も増えてきた。
各々の仕事のペースは徐々にちぐはぐになり、会社で顔を合わせる機会も減っている。
現場に常駐するようになれば、こっちへ戻ってくるのは週に一度、土日だけ。
いつでも隣にいたはずの男が自分から離れていくような気がして堪らない気持ちになるのは
恐らく、俺の中にある彼への想いが、あらぬ方向へ傾き始めているからなのだろう。

新たな生活が始まる日の前の週末。
晩飯を食い終った俺たちは、菅の家でだらけた時間を過ごす。
何か目的がある訳でも無かったが、二人の間の空気が心地よくて、それだけで満足だった。
ただ、たまに彼の手を握ってみたり、抱き寄せてみたり、キスをしてみたりはするものの
殆どは俺からのアプローチで、彼の中には何らかの躊躇いがあるのだろうと思わずにいられない。
関係を深めることに不安が無いと言えば嘘になる。
それでも、誰かに求められている、という証が欲しかった。

「男とヤったこととか・・・あんの?」
ベッドに座り、テレビの画面を見ながら、呟いてみる。
咥えていた煙草を手に取って静かに煙を吐き出した菅は、数秒間を置いて答えた。
「・・・あるよ」
「そう・・・」
目の前に立ちはだかる高い壁を乗り越えて行った奴がいる。
そいつとはどういう関係で、どういうきっかけで、そういうことになったのか。
俄かに表情を硬くした男には問い掛けることもできず、沈黙だけが過ぎていく。
フィルターだけになった煙草を名残惜しそうに灰皿へ押し付けた彼は、不意に俺に視線を向けた。
言いたいことがあるならはっきり言え、そう試されているような気がした。
「俺とは・・・どうにかなろうって、考えないのか?」

あっという間の出来事だった。
腰を上げた菅は、俺の肩を掴んでベッドに押し倒す。
学生時代、柔道だか空手だかをやっていたということを思い出させるくらいの力で押さえつけられ
怯んで声の出なくなった唇が乱暴に奪われる。
舌が下唇を這い、やがて首筋へ降りていく。
得も言われない刺激が身体中を駆け、思考が乱れた。
「す、がっ・・・」
口を衝いた呼びかけに、彼は何も答えないまま愛撫を繰り返す。
身体を引き離そうと肩に手を掛けたところで、男がやっと顔を上げる。
「怖いだろ?主導権、取られるの」
「・・・え」
「どうにかなるって、そういうことだぞ?」
強張る俺の顔を宥めるように唇の感触を残し、切なげな笑みを浮かべて彼は言う。
「テル・・・もう一回、よく、考えろ。この道で、良いのか」


真新しい仮設の事務所には所長以下数十名の社員が揃い、全員で神棚に一拝する。
現場竣工までは約2年。
程よい緊張感と、それなりの気概を持って、一つ息を吐いた。
「守、あっちで打合せするから、資料10部焼いて持ってきて!」
離れた場所から投げられる工務長の声。
「分かりました!」
初日だからこそ味わえるテンションを、少し楽しむ余裕もある。
俺は、割と、大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせた。

親睦を深める為という名目の飲み会が連日続き、追い立てられるように仕事をして
初めの一週間が怒涛の如く過ぎていく。
土曜日の朝は流石に身体が怠く、ずるずるとベッドの上で時間を浪費していた。
家に帰るのは、明日で良いだろう。
どうせ、着替えを取ってくるだけだ。
現場常駐の期間中に会社で借りている安宿は、年間契約だからいてもいなくても良い。
もう一眠りしようか、投げやりな思考を浮かべて目を閉じた時、一通のメールが届く。

地元を離れて一週間、菅からの連絡は無かった。
手を振り払われ、動揺だけが残された俺からは、連絡をすることができなかった。
好転するのか、暗転してしまうのか。
幾許かの不安を感じながら、スマートフォンを手に取る。

あいつの中学時代の同級生が実家に集まるから来ないか、という誘いの短いメール。
差出人は、ヒトミだった。
俺に気を遣っているのか、然程仲良くもない集まりでも、彼女はこうやって連絡を寄越してくる。
けれど、今日のメールには、いつもと違う一文が最後に書かれていた。
『菅くんも来るっていうから、テルもおいでよ』
その言葉に、心が震えた。


宿を出たのは夕方前。
地元までは2時間程度だから、暗くなる頃には辿り着けるはずだ。
道路の両脇から建物が消え、田畑に替わり、やがて山になる。
何を考える訳でもなく車を走らせ、程なく見知った風景が広がり始める。
途中、コンビニに寄って、弁当やらビールやらを買い込んだ。

少し遠回りをして、男が住むマンションの前を通る。
その部屋に明かりは点いておらず、駐車場に車も無い。
吐いた息が無意識に揺らぐ。
悔しさを振り切る様に、アクセルを踏み込んだ。

自宅のドアを開けたのは、誘われた宴の開始時間を過ぎてから。
言いようのない虚無感が薄暗い部屋の中で澱んでいる。
空腹感はあまり無く、弁当よりも先にビールを開けた。
一口飲むごとに憂鬱が薄まるような気がして、気が付くともう一本開けている。
闇が入り込んできた空間に、空き缶だけが増えていく。
彼は、どんな想いで酒に溺れていたのだろう。
自制の効かなくなっていく快感が、久しぶりに身体を蝕んでいった。

□ 95_陶然-酔- □
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陶然-酔-(7/8)

電話が鳴ったのが何時くらいだったのか、よく覚えていない。
「お前、こねぇんなら連絡くらいしろよ」
聞こえてきたのは、不機嫌な声だった。
「ああ・・・ちょっと、飲んじまってさぁ」
「ちょっと・・・?ちょっとどころじゃねぇだろ、その声」
怒っているというよりも、呆れている口調。
俺の理性が酒に壊される時、奴は決まってそういう態度を見せる。

「・・・で、お前さぁ、菅とは仲直りした訳?」
「え?ああ・・・まぁな」
「へぇ」
電話の向こうから、盛り上がりを示すような笑い声が聞こえてくる。
無性に、気に障った。
「余計なこと、してんじゃねーよ」
「はぁ?お前の為だろ?もっと、まともに生きる道があんだろっつってんの」
「まともって?学校中退して、親父に仕事まで世話して貰って、デキ婚すんのがまともか?」
「何だよ、その言い方。少なくとも、あいつとどうにかなる方がまともじゃねぇだろ?」
「そんな奴と、また友達始めんの?」
何も無かった振りをしてやり過ごそうとしている弟は、俺の一言で言葉を失う。

「テル?」
一瞬の静寂の間に聞こえてきたのは、義妹の声。
あいつの背後から、電話の相手を尋ねてきたらしい。
「ああ、そう・・・今日は来ねぇって」
「そうなんだ。久しぶりに顔見られると思ったのに」
「すぐ、行くから。先やってて」
耳に沁みる、くぐもった声。
もし、あの時、俺を選んでくれていたら、俺はどうなっていただろう。

「俺さぁ、昔、根岸に告ったことあんの」
「は・・・?」
「中学ん時さー・・・でも、お前の方が良いって、フラれたんだよね」
「マジ、で?」
「マジで」

生まれた時から何一つ変わらない俺たちは、生まれた時から兄と弟として区別されてきた。
物分かりの良い兄と、我儘な弟。
勝手に作られた枠に嵌って、周りの希望通り役を演じてきたが、もうそんな役回りはごめんだ。

「お前が専門行きたいっていうから、大学諦めてさぁ」
高校を出たら就職すると言っていた弟が、突然専門学校へ行きたいと言い出したのは3年の春。
俺は2年の頃から大学進学の意思を伝えていて、家族もそれを了承していた。
けれど、家には兄弟二人を上の学校へ行かせる程の経済的な余裕はない。
勉強ができるとは言い難い弟は、何かしら手に職をつけなければフリーターの道一直線。
少なくとも、あいつに自活する意思があると見做した父は、俺に進学を諦めるような雰囲気を匂わせる。
迷った挙句、俺は、大学進学を諦めた。

「お前が子供デキたっていうから、実家出てさぁ」
子供ができたと聞いたのは、二十歳になる直前の夏。
珍しく夕食時に帰宅した弟は、悪びれもせずに家族にそう告げた。
薄給で家を借りる余裕も無いと、俺を見て笑ったあいつを、睨みつけることしかできなかった。
幸い、会社は右肩上がりの時期。
経済的な面では俺に分があると、弟はよく分かっていた。
家族が二人増えても暮らせない訳では無かったが、彼女を家族として見ることに耐えられない。
今度は、父に促されることなく、さっさと家を出た。

「これ以上、俺の人生に、横槍入れんなよ」
酒で意識が朦朧としているのに、鬱憤を孕んだ言葉だけが滑らかに出ていく。
今まで口にしてこなかった本音を耳にして、あいつなりに思うところもあるのだろう。
罵声が返ってくると覚悟していた俺に聞こえてきたのは、狼狽える震え声だった。
「そんな、つもり・・・オレは、ただ・・・」
「もう、どうでもいいけどな。まともな人生なんて、歩むつもりもねーし」
取り返しのつかないことを憂えても、何にもならない。
諦めもとっくについている。
ただ一つを除いては。
「でも、いろんなもんくれてやったんだから・・・菅くらい、俺に寄越せ」

何でなんだよ、そんな呟きと共に吐き出された大きな溜め息が伝わってくる。
別に、こんな奴の同意なんか必要無い。
無理矢理奪い去ってしまえば良いだけのことだ。
それでも言葉を待ったのは、兄弟としてのせめてもの義理だったのかも知れない。
「・・・分かったよ、好きにしろ」
重苦しいトーンのあいつの声で、一つ、肩の荷が下りた気がした。


菅に電話を替わるよう頼むと、男を呼ぶ声の後、相当酔ってる、という耳打ちが聞こえた。
「・・・テル?」
「ちょっとさぁ、飲み過ぎちゃって・・・今日は、行けねーや」
「何やってんだよ」
ついこの間までと何も変わらない声に、急に込み上げるものを感じる。
孤独感が、より一層深まった。
「本気なんだ、俺・・・会いてぇよ・・・菅」
暗い部屋の中で、闇を見つめながら弱音を吐く。
手にしていたビールの缶に、液体は残っていなかった。
「今・・・何処にいる?」
「家」
「30分で行くから、待ってろ」
優しい声だった。
「・・・分かった」
そう返事をしながら、意識が徐々に薄れていくのを感じていた。

□ 95_陶然-酔- □
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陶然-酔-(8/8)

ドアを叩く音と、けたたましい程のチャイムの音で目が覚める。
真っ暗な部屋の中を手探りで這いずり、玄関まで辿り着く。
扉を開けると、背の高い男が俺を見下ろしていた。
「電気点いてないし、何回チャイム押しても出ないし・・・何かあったのかと思ったよ」
「わりぃ・・・寝ちまったみたい」
「どんだけ飲んだんだ」
「わかんね」
廊下に座り込む俺の身体が菅の腕に抱えられる。
何とか立ち上がろうとしたものの、足に力が入らない。
ふらついた拍子に上半身が傾き、そのまま彼もろとも床に倒れ込んだ。
「こんなになるまで、飲むなよ」
不安げな表情が、すぐ間近に迫る。
その頬を手で包み、口づけた。
「素面じゃ、やってらんなかった」
「・・・オレの、せいか?」
「そうだよ。お前がいないから、酒に酔うしか、無かった」

頭が重い。
ゴン、と低い衝撃音を感じながら、天を仰ぐ。
相変わらず暗い顔をした菅は、静かに俺の額を撫でている。
「月曜日、ナオに会って・・・その時」
「あいつのことは、もう、気にすんな。話、つけたから」
僅かに空いた襟元から手を差し入れ、首筋に指を添わせた。
秋風に曝されたであろう肌のひんやりとした感触が、火照った身体を冷ましてくれる。
「すげー、酔ってる」
「ああ、そうだな」
「すげー、酔ってる、俺・・・お前に」
未だ頑なだった男の眼が、暗がりで揺らぐ。
「ずっと、酔わせててくれよ」

霞んだ視界の中にある彼の顔が徐々に大きくなり、柔らかな刺激が唇を包む。
何度も触れ合せながら、吐息を絡ませた。
「素面に戻れなくなったら、どうする?」
「いいじゃん。一緒に、酔いどれてようぜ」
きつく抱き締められる息苦しさが堪らなく気持ち良い。
「今日は、主導権、お前にやる・・・好きにしてくれて、良いから」


ベッドまで引き摺られ、仰向けに寝かされる。
俺の身体の上に跨った菅の手が、ゆっくりと頬を撫でる。
闇に慣れてきた目に入ってきたのは、少し寂しげな表情だった。
「オレさ・・・ダメかも知れない」

彼が男と身体の関係を持ったのは、一度きりのことだった。
ただ、その行為は彼の心に禁忌として植え付けられたようで
以来、絶頂が近くなると恐怖で身体が竦み、すぐに萎えてしまうのだという。
「だから・・・」
緊張で強張る身体を解すように滑らせる指の気配が、そこに近づいてくる。
俺だけが一人快感に溺れても、意味がない。
腕を交差させるように、彼の身体に手を伸ばした。
「俺とでも、ダメか?」
「・・・分からない」
僅かに離れた腰に手を回して自分の方へ引き寄せる。
長い年月の中で、俺の知らないわだかまりも、たくさん抱えているのだろう。
何か一つでも、荷を下ろしてやることはできないだろうか。
「じゃあ、俺が、忘れさせてやる」

本能を撫で合う時間は、思いの外、長く続いた。
まともな道を選んでいたら決して見ることの無かった姿は、多分、一生忘れない。
苦しめられてきた夢から一度醒めた男は、俺とのキスで再び夢を見始める。
いつまでも、この時間に酔いしれていたいと思いながら、二人で、朝を迎えた。


常駐を始めてもうすぐ一ヶ月。
スタートダッシュも一段落し、現場の作業も滞りなく運ぶことができるようになってきた。
「折角だから泊まってくれば良かったじゃん」
「そうなんだけど・・・残作業もあったから」
金曜日の晩飯後、事務所の外にある喫煙所の傍で耳にする菅の声は
以前に比べると、迷いが無くなったように感じられる。
「で、懇親会はどうだった?」
「すごい豪勢だったよ。有名人とかも来てて」
「マジで?いいなぁ・・・こっちなんか山の中で、しかもオッサンばっか」
ここの現場が始まるのと同時期、会社では別のプロジェクトが立ち上がっていた。
東京の大手デベロッパーと組んだリゾート開発。
菅が以前の会社で付き合いのあった企業らしく、話も彼経由で運ばれてきたそうだ。
そのメンバーに抜擢された社員は、今日、東京で開かれた懇親会に出席していた。

「明日、朝戻ってくるんだろ?」
「ああ、そのつもり・・・だから、今日帰ってきたのか?」
「ん?まぁ、それもあるかな」
互いに多忙な毎日になり、だからこそ、週末の大切さが身に沁みる。
電話で、文字でやり取りしていても、五感が満たされないと物足りない。
「まだ仕事か?」
「議事録やら報告書やらが貯まってるから、それ終わらせねーと」
「オレも会議用の企画書眺めてた」
「あんま、無理すんなよ」
「テルもな。・・・明日、楽しみにしてる」

電話が終わり、ふと顔を上げると、喫煙所で煙草をくゆらせる馴染みの職人がこちらを見ていた。
「女だろ?守ちゃん」
「何だ、もう事務所のお姉ちゃん捕まえたのか。手ぇ早いなぁ」
「違いますよ。手なんか出してませんって」
まだ造成中のこの辺りは、携帯の電波が届きにくく
事務所の中か、屋外なら今いる辺りでしか明瞭な会話が難しい。
なるべく人の居ない時を狙っていたが、よりによって面倒くさい相手に絡まれた。
「じゃあさ、彼女の友達と合コンとかどうよ」
「ああ、いいねぇ」
「いや、勝手に話進められても・・・それにお二人とも結婚してるじゃないですか・・・」
とりあえず、地元で一緒だった同級生の恋人、という言い回しで納得はして貰ったが
来週には現業チームの間に触れ回られていることだろう。
間違ってはいないし、幸い自宅の近所に住んでいる人間もいないから、それほど不安は無い。
むしろ、そういう立ち位置が、何となく嬉しく思えた。


土曜日は、朝に一度顔を合わせ、昼間は洗濯やら掃除をして、夕方過ぎにモールで早めの夕食を取る。
「そういえば、ナオが、今度実家に顔出す時はテルも連れてこいって言ってたよ」
「はあ?俺は良いよ。あんま話も弾まないし」
「オレが一人で行くと、お前が拗ねるからって」
ウーロン茶を飲みながら、菅は俺の顔を窺う。
「別に、俺は・・・」
確かに、当たっているかも知れない。
彼と片時も離れたくない、そんな泥酔状態の俺にとっては。
「一緒に行っても怪しまれないだろうし、オレ口実にして、たまには顔出したら」
「・・・考えとく」
余計なことを、と疎ましく思いつつ、せめてもの弟の気遣いに感謝した。

夜を過ごすのは、どちらかの家。
広さも間取りもほぼ同じだから、比較的片付いている菅の家に転がり込む方が多い。
肌を寄せ合い、微睡んで、朝を迎える毎に、慌ただしかった一週間がリセットされる。
「もうそろそろ、寒ぃな」
「こっちの冬は早いね」
下着姿でベッドに腰を掛け、煙草を咥える彼は、窓の外の朝日を眺めていた。
迷い道から抜け出して辿り着いた道は決して平坦ではないけれど、二人なら、もう迷わない。
「・・・英聡」
「何?」
「好きになってくれて・・・本当に、ありがとう」
俺の言葉でこちらへ視線を向けた男が目を細める。
引き寄せられるように、唇を触れ合わせた。
月曜日の朝は、また二日酔いだ。
抱き締めた身体の感触を味わいながら、そんなことを考えていた。

□ 95_陶然-酔- □
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Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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