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心象(1/5)

自宅のある駅から電車に乗ること2駅。
都内でも場末に位置する駅の北口改札を抜けて5分程歩くと、大きな幹線道路に出る。
フライング気味に横断歩道を渡り、コンビニの角を左へ曲がると、こじんまりとした住宅街になる。
3階建のコンパクトな家々が並ぶ一角は、どれも同じ表情をしているように見えるけれど
一軒一軒眺めると、各々の家族が何かしらの個性を出そうとしている様が窺えてくる。

ある家の前には、玄関の脇に小さな花壇がある。
季節ごとの花々はよく手入れをされていて、よほど花が好きな家人なのだろうと思わせられた。
初夏に差し掛かろうという今、土の上には小さな芽が顔を出し始めている。
後一週間もすれば、その正体が分かるかも知れない。

住宅街を抜けると、大きな公園に突き当たる。
野球場やテニスコートを併設しているこの場所は、地域の憩いの場になっているらしく、人の出入りも多い。
桜の季節には花見客で溢れていたし、ベンチで昼食をとるサラリーマンやOLの姿を見ることもある。
早朝には、犬の散歩をする人やランニングをする人もいるらしい。

木立に日差しを遮られた道を歩き、脇道を入ると、すぐに3階建ての建物の裏手に出る。
通用門を抜け、屋外階段を2階まで上がって、社員証を金属製のドアのカードリーダーにかざす。
鍵が開く時の複雑な金属音を耳にして、やっと気分が仕事モードに切り替わった。


「石橋君、MDFの強度試験の方はどんな感じ?」
ロッカー室で声をかけてきたのは、直属の上司である北尾室長だった。
「昨日で粗方終わったので・・・あと10検体程です」
「うん、順調だね。あ、そうだ。午後イチで所長から話があるそうだよ」
「何か・・・あったんですか?」
「いやぁ、そう大層なことでも無いみたいだけどね」
自身のロッカーからくたびれた白衣を取り出して羽織る男は、そう笑いながら部屋を出ていく。

木質系材料の研究所に転職をしてから、もうすぐ半年になる。
長野で林業を生業としていた祖父の影響で、大学では林業を学んだものの
新卒時には希望した研究職で就職することが出来ず、7~8年、建材メーカーの営業をしていた。

30歳を前にして、心の片隅に残っていた未練を断ち切ろうとしていた頃に出会ったのが、今の上司だ。
きっかけは、前の会社に対してOEM供給をしているメーカーとの懇親会。
偶然酒を注ぎに行った先で、同じ長野の出身、しかも同じ大学の先輩であることが分かり
そのまま意気投合してしまった。

もちろん、初めて関わる職務には戸惑うことも多い。
他の班が担当する実験を手伝ったり、資料を集めたり、論文執筆を行ったりと作業も多種多様だ。
それでも学生時代に思い描いていた "将来の自分" に、着実に近づいている。


昼休みが終わり、事務室の窓際に置かれたホワイトボードの前に所長が立つ。
ボードには何かが貼られていたが、俺の位置から内容までは分からなかった。
部屋に集まった20名ほどの所員に対して視線を送りながら
彼は何処となく申し訳なさげな表情を浮かべて、話を切り出した。

毎朝日曜日の朝6時半から行われている、公園の清掃ボランティアへの協力依頼。
その言葉に、部屋の中には静かなざわめきが起こった。
「勘弁してくれよ・・・」
溜め息と共に呟かれる誰かの声が耳に届く。
「それは、ウチだけに来た通達なんですか」
「地域全体、事業者・個人含めて広く協力を求める・・・と」
不満の種を撒いた本人も、戸惑いがちな言葉を投げた。

所長が煮え切らないのには訳がある。
研究所が本社から切り離され、この地に移転して来たのは30年近く前のことだ。
当時から住宅が多かった地域だけに、近隣説明会も開き、相当に気を遣って建てられたそうだが
やはりトラブルは避けられなかった。
問題になったのは、実験装置から出る排気。
スクラバーを通しているから、排気自体に殆ど臭気は残らない。
にも拘らず、屋上の煙突から上る湯気と、木材の臭いが何処かで結びつき
『あの研究所は毒ガスをばら撒いている』
そんな噂を立てられ、一部の住民からは立ち退き要求まで出たという。

あらぬ嫌疑はやがて晴れたものの、それ以来、代々の所長は過分な程の気配りを続けてきた。
近隣から寄せられるクレームには折詰を持って頭を下げに行き、自治会に寄付を求められれば言い値を渡す。
時代が進み、周辺に事業所が増えてきても、一度低くした腰を上げる事は出来ないままだった。


比較的近くに住んでいる。
面倒を見なければならない家族がいない。
たった二つの条件を付けただけで、対象者はぐっと減る。
その時点で、該当する者は手を挙げろと言われているようなものだろう。
近くに立っている若い社員が苦笑いを浮かべながらこちらを窺う。
ありったけの諦めの気分を、溜め息と共に彼に返した。

若手の社員2人と、自分と、パートの事務員さんと、所長。
結局、清掃当番はこの5人で持ち回ることとなった。
2時間分の休日出勤を付けて良いとの話にはなったが、雨天決行という気合の入り様に心が萎える。
「都の公園なら、税金で何とかするべきなんじゃないんですか」
ぼやく若人に、所長はほぼ同意であるというニュアンスで言葉を返した。
「予算縮小で公園清掃の経費が削られたらしくてね・・・ボランティアを活用しろとのお達しだよ」

□ 93_心象 □
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心象(2/5)

初めての清掃活動の朝。
5時45分にセットした目覚まし時計が、夢の中から意識を引き摺り出していく。
眼鏡をかけ、カーテンを開けると
梅雨入りしたと宣言されて数日経つのにもかかわらず、憎らしい程の青空が窓の外に広がっていた。
雨が降るよりはマシだろう、そう自分に言い聞かせながら顔を洗い、身支度を整える。

当たり前のようにガラガラの電車に揺られ、人気のない改札を抜ける。
いつもより車通りの少ない幹線道路を渡り、路地に入った。
ふと目を落とした花壇には、ひょろ長く伸びた細い向日葵が立ち上がっている。
薄い黄緑色の茎は何とも頼りないものの、確実に夏が近づいていることを実感させてくれた。


公園に着いたのは6時20分を過ぎたくらいだったと思う。
集合場所の広場には、既に2~30人の人が集まっていた。
顔ぶれは老若男女様々で、近くの弁当屋のおばちゃんやコンビニバイトの兄ちゃんの姿もある。
大きなニレの木の前でハンドマイクを持って叫んでいるのが、自治会の会長だろう。
やがて人の波が動き出したので、そそくさと流れに乗った。

差し出された用紙に名前と所属を記入すると、軍手と清掃用のトングとビニール袋を数枚手渡される。
「石橋さんは、こちらの屋代さんと一緒に、このエリアの清掃をお願いします」
目の前に立つ中年の女は、傍に立つ男に視線を向けた後、公園の地図を指差した。
「屋代です。宜しくお願いします」
同じ歳の頃であろう背の高い男が、小さく頭を下げる。
「石橋です。今日が初めてなんで・・・いろいろと、宜しくお願いします」

釣り針を逆さにしたような形をした公園は、10万平方メートルほどの敷地面積がある。
指定されたエリアはその中でも奥の方にあり、行きつくだけでも10分以上の道程。
けれど、途中には水路や遊技場、テニスコートなど様々な施設が有り
何よりも生い茂る木立が広い敷地に続く光景が、何処となく懐かしさを呼び覚まさせてくれた。

「こっちの方まで来たこと無かったんですが・・・こんな風になってるんですね」
何気ない問いかけに、隣を歩く男の視線が向けられる。
「ええ、もうちょっと行くと野球場もあって。散歩するにも、子供と遊ぶにも良い場所ですよ」
「よくいらっしゃるんですか」
「この辺が地元なんで、小さい頃から遊び場だったんです」
「今も近くに?」
「一度は離れたんですが・・・結局、家を買うタイミングで戻って来ちゃいました」

しばらく続いたメタセコイアの並木を抜けると、野球場のフェンスが見えてくる。
脇の広場にはソメイヨシノが何本も立っており、春の盛りの時期を想像するのは難くなかった。
先に目を向けると、大きく空が開け、街並みが幾分小さく見える。
気づかない内に緩やかに上っていたのだと、その時になって初めて気が付いた。


奥まった場所だからか、人工物は殆ど落ちていない。
小枝や落ち葉などを掻き集めても、ビニール袋半分くらいの嵩にしかならなかった。
戦利品が少ないのは、彼も同じだったらしい。
「先週はもっと手前のエリアだったんで、結構な量のゴミがあったんですけどね」
そう笑う彼の袋には、枯草や数本のペットボトル、ファーストフードの紙袋などが入っていた。
どうやら、ゴミ拾いにも当たりはずれがあるようだ。
時間はまだ7時を少し過ぎたところ。
終了予定時刻の7時45分までは、まだ30分以上残っている。
「まぁ、少し休んで、のんびり戻りましょうか」
柔和な表情を浮かべた屋代さんは、そう言いながらポプラの木の下にあるベンチに向かって歩き出した。

ベンチに腰掛け、慣れない中腰で強張る身体を伸ばし、やや湿気を帯びた爽やかな風を浴びた。
僅かばかりの疲労と適度な空腹が相まって、頭の中の気怠さが払拭されていく。
仕事漬けの毎日の中、こんな時間があっても良いのかも知れない。
数時間前には青い空を恨めしく思っていたはずなのに。

「この辺も、随分変わったんですよ」
少し距離を置いて座っている地元の男は、馴染みの風景を見やりながら呟いた。
低層の家並みの中に高層のマンションが所々に突き出て、その真ん中を線路が通っている。
今しか知らない俺には在り来たりに見えるものでも、変遷を見てきた彼には違うのだろう。
「あのタワーマンションの近くに実家がありまして。昔はあそこ、銭湯だったんです」
幼い時分は、その煙突から出る煙をここから眺めているのが好きだったのだという。
「昔は街が変わっていくことを楽しく感じていたのに、今は何故か寂しく感じるようになってきましたね」
「思い出が無くなっていく、みたいな?」
「うん、それもあるし・・・何だろう・・・これ以上変化することが、怖いのかな」

地元を離れて8年。
正月に帰省する度、田舎の駅前は目に見えて寂れていっている。
国道沿いに出来たショッピングモールの所為だと母は笑っていたが
昔の賑わいが見る影も無くなった街を思いながら、東京へ戻る電車の中で時代の流れに切なさを噛み締める。
発展していく寂しさと、衰退していく寂しさ。
性質は正反対でも、変化することを憂う気持ちは変わらないのかも知れない。


実入りの少ない袋を手に、早朝集まった広場へ戻る。
ロープで区切られた仮置き場にゴミを置き、清掃完了の報告を済ませた。
「お疲れ様でした」
そう微笑んだ彼の後ろから、誰かの呼ぶ声が聞こえる。
振り返り、手を挙げて合図を送った相手は、恐らく地元の知り合いなのだろう。
「じゃあ、また来週」
再び俺の方へ視線を戻した男は、急ぐ様子で軽く頭を下げて、小走りに声の主の方へ向かっていく。
「あ・・・お疲れ様でした」

来週は自分の当番では無い。
好印象の男に対して、それを言いそびれてしまったことが、少しだけ心残りだった。

□ 93_心象 □
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心象(3/5)

「石橋さん、ちょっと良いですか」
日曜日の快晴が嘘のように梅雨空が続いた週の金曜日。
同じグループの取手君が、気まずそうな雰囲気を抱えて声をかけてきた。
歳は5つ下でも社歴は彼の方が長く、俺の先輩という立場だが、いつも気を遣って敬語で話しかけてくれる。
「何でしょう?」
「明後日の掃除なんですけど・・・代わって貰うことってできます?」

彼も俺と同じように、不幸にして清掃当番へ組み込まれた一人。
理由を聞くと、就職活動で上京してくる妹が部屋に泊めろと言ってきているらしい。
「ホテルに泊まれって言ったんですが・・・金がもったいない、親も泊めてやれって言ってると」
男の一人暮らしなら、当然見られたくない物も一つや二つじゃないだろう。
「僕がいない間に家探しなんかされたら、ホント、マジヤバいんで・・・」
若い社員の部屋にどれだけのヤバい物が隠してあるのかは知る由も無かったが
俺だって、家族が突然家に入れろと言ってきたところで、おいそれと上げられるような状態じゃない。
「他の人にも頼んだんですけど、皆用事があるって、断られちゃったんです」

気持ちはよく分かるが、俺は先週やったばかりだし、今週末は天気が荒れるという予報も出ている。
気乗りしない頭の中に、ふと、あの男の表情が過った。
目の前に広がる故郷の景色を眺めながら想いを呟く姿が妙に印象に残っていて
どうせ何の用事も無い日曜の朝、彼と言葉を交わす機会を持つのも悪くないとも思う。
地元の友人たちは家庭を持ち、徐々に疎遠になっている。
前の職場の同僚たちとも、なかなか顔を合わせる機会が無い。
異な縁を手繰り寄せてみるチャンスだと、自分を納得させた。
「分かりました。良いですよ」
俺の言葉を瞬時に理解出来なかったのか、年下の先輩は暫し言葉を失った後、表情を一気に緩める。
「ホントですか?ありがとうございます!あの、来週、昼飯奢りますから」


その日の夜になって天気は急激に荒れ始め、雷まで鳴る始末となった。
多くの社員が早めの帰宅準備をする中でも、社内報に載せる試験結果の原稿がまとまらない。
「早く帰った方が良いよ?電車止まっちゃうから」
背後に立つ北尾室長は、パソコンのディスプレイを覗き込みながら、そう声を掛けてくる。
会社の最寄りの路線は、大きな川を渡る関係からか、風雨が強くなると電車が止まることがままあるらしい。
「いや、でもこれ、月曜の朝一までって言われてて・・・」
社内報に載せる試験は室長が主導で進めていたものだったが、今回は俺の名前で出すことになっている。
学術論文と同様、社内報への投稿も人事査定に影響することから、特別に譲って貰った形だ。
「ああ、それかぁ。後どれくらいかかりそうなの?」
「1~2時間ってとこですかね」
「そっか。じゃ、オレもちょっと残作業やっちゃおうかな」
そう言って俺の肩を叩いた上司が、自席へ戻っていく。
「え、電車は・・・」
「それ書き終わるまではオレがいた方が良いだろうし。・・・終わったら、久しぶりに飲みに行こうか」
「こんな天気なのにですか?」
「こういう時の方が、きっと店も空いてるよ」

残業が飲む為の口実だったのかどうかはさておき
無事原稿がまとまり、総務宛てにメールを送る頃には、窓ガラスを揺らしていた風は大分弱まっていた。
帰り支度をして外へ出ると、雨も小降りになっており
眼鏡のレンズに水滴はつくが、傘が無くても何とか凌げる状況。
しかし、公園の歩道の上には木の葉や小枝が散乱しており、足元がやや滑っておぼつかない。
「こりゃ、掃除大変そうだねぇ」
意地悪な視線を送ってくる上司の言葉で、掃除当番を交代したことを思い出す。
「日曜日だけ奇跡的に晴れるなんて・・・ありますかね」
「無いんじゃないかなぁ」
「・・・そうですよね」


案の定、電車は遅延しているようで、駅の改札付近では駅員がひっきりなしにアナウンスを繰り返している。
それを横目に、高架下に並ぶ居酒屋の一軒に入った。
「いらっしゃいませ~、何名様ですか?」
室長の読み通り、店内の客は週末の割にそれほど多くない。

テーブル席に着いて間もなく煙草を取り出した上司が、手を止めて俺の背後を興味深げに窺う。
「どうかしたんですか?」
「ん?ああいう座り方、どうなんだろうなぁって」
振り向くと、奥の座敷には俺と同じ年代くらいのカップルが座っていた。
年配の男が言っているのは、彼らが向かい合わせでは無く、二人並んで座っていることのようだ。
若い子たちであればたまに見かける光景だけれども
やたらと距離が近い、それなりに成熟した男女の間には、燃え上がりつつある雰囲気が満ちている。
「さぁ・・・当人たちが良ければ、良いんじゃないですか」
「オレが歳取ったせいかなぁ、違和感あるの」
「いや、僕もちょっと思いますよ」
上半身を赤く火照らせた女にしな垂れかかられる男の立場が羨ましくないと言えば嘘になるが
望んだだけでなれる訳でも無いし、その為に努力しようと言う気力もあまりない。
ただ、漏れ聞こえてくる二人の会話から、どうやら関係が正式なものでは無いと分かると
羨ましさは何処かへ吹き飛んで行った。

思えば、大学時代にいた彼女と別れてから、恋愛とは縁の無い生活を送っている。
元々人間関係全般に対して淡白な方で、だから上辺だけで渡っていける営業が向いていたのかも知れない。
誰かに心を占領されるのが煩わしい、誰かの心に残ることが重苦しい。
そうこう言い訳を続けながら30歳を超え、結局今も一人のまま。
身体も段々枯れてきているようで、焦りよりも諦めの方が大きくなりつつある。
夢見るだけで人生が変わるはずもないことは、よく分かっているはずなのに。


ベランダに叩き付ける雨音を聞きながらベッドに入った土曜日の夜。
近くのコンビニで応急的に買ってきた安物の合羽は果たして用を成すのだろうか。
鬱々とした気分でなかなか寝付けなかったが、やがて意識が遠のいていった。

そして、カーテンの間から差し込む光で目覚めた朝。
窓の向こうには、晴れ渡る空があった。
「マジで・・・」
普段の生活態度が良かった訳でも無いのに、こんなところで貴重な運を使ってしまったらしい。
とはいえ、地面には濡れ落ち葉が散乱していることも容易に予測できる。
先週の様にのんびりとはいかないだろうと思いながら、一つ息を吐いた。

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心象(4/5)

雨に洗われた街は所々が煌めいていて、いつもとは少し違って見える。
同じ道を歩いていても、出勤する時とは明らかに違う心持が、自分でも不思議だった。
細い路地の向こうにある花壇の向日葵は
この数日の風の所為か支柱ごと斜めに傾き、膨らみつつある蕾が頭を垂れている。
ふと足を止めて花に目を向けていると、矢庭に玄関の扉が開いた。
怪しまれてはいけないと、咄嗟に身体が動く。
俺を気にする素振りも見せず花壇へ向かい、向日葵の支柱を整え始めた女の姿に
微かな嫌悪感を伴う記憶が蘇る。
それは、週末の夜、不義の時を楽しんでいた彼女だった。

3階建ての小さな白い家の玄関脇にはささやかな花壇があり
ガレージにはコンパクトワゴンが収まっていて、その奥に大小の釣竿が数本立て掛けられている。
絵に描いた様な微笑ましい家族の姿は、平凡だけれども、このご時世では簡単には手の届かない夢。
なのに、何故。
一体どんな気持ちで、花を育てているのだろう。
勝手に幸せの象徴に仕立てあげてしまっていた自分の軽率な感情を情けなく思いながら
やっぱり、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

公園に着くと先週とは裏腹に人影はまばらで、直前の憂鬱と相まって溜め息が出る。
自治会長の空元気な声だけが響く広場に目を向けると、頭一つ抜けた人影が見えて
やっと気持ちを落ち着かせることが出来た。


今日の担当エリアは、テニスコートの脇を流れる水路と東屋の周辺だった。
網で水面に浮かぶ葉っぱやゴミを掬い、デッキブラシで岩に付いた苔を剥がす。
足元がぬかるみ、籠めた力が空回りする度に、昨晩の雨を恨んだ。
「今日はちょっと、しんどいですね」
そんな中でも、朝日を浴び額に汗を滲ませながら、男は朗らかな笑顔を見せる。
「でも、まぁ、良い運動になります。普段は殆ど身体を動かす機会が無いんで」
「僕もです。子供に付き合って走ったりすると、軽く筋肉痛になったりして」
「お子さんはお幾つなんですか?」
「来年小学生なんです。わんぱくな盛りで・・・」
家族のことを語る彼の顔には、満ち足りた日常が垣間見える。
いつもなら卑屈な自分が顔を出すところでも、何故か今は、素直にその幸せを羨むことが出来た。
そうあって欲しいと、願っていたような気もする。

パンパンになったゴミ袋を抱えて広場に戻ると、既にゴミの搬出が始まっていた。
「早く早く、急いでー!」
遠くから聞こえる叫び声に、二人で顔を見合わせる。
「走ります?」
「・・・そろそろ限界ですけど」
「あと一頑張り、しましょうか」
口角を上げて目を細めた男が先に駆け出していく。
追いかける様に走ること、100メートルほどの間
何が可笑しい訳でも無いのに、無邪気な笑いが口から出ていった。

「はい、ご苦労さん」
思った以上に上がった息が整い切らない内に、手渡した袋がトラックの荷台に積み込まれる。
「お疲れ様でした」
「お疲れでした・・・あんなに必死で走ったの、久しぶりです」
「ホントですね」
やっと鼓動が静まり、背中を汗が流れ落ちていく。
ジーンズのポケットから自身のスマホを取り出した彼は、その画面を一瞥し、また同じ場所へと仕舞い込む。
「じゃ、また来週・・・」
「あ、あの、来週は・・・出張で」
結局、本当のことは言えず、つまらない嘘を吐いた。
「そうなんですか。・・・残念だな」
そして、その嘘をすぐに後悔し、自分への口実が出来たことに安堵した。
「・・・再来週は、大丈夫なんで。また、その時」
「ええ、楽しみにしてます」


翌週、俺は所長に、毎週の掃除当番を引き受ける旨を伝えた。
身体を動かす良い機会になるし、自然に触れるきっかけにもなって有意義だ。
そんな理由を並べた気がする。
今年の春に入社した社員を除けば、俺は所内で一番の下っ端。
余り出過ぎた真似はしない様に、良いことも悪いことも目立たない様にと思ってきたけれど
彼と些細な楽しみを共有していることを知り、自分自身にも踏ん切りをつけた。
「構わないけど・・・大丈夫?」
「もし急用が出来てどうしても、って時は、取手さんにでもお願いします」


そろそろ梅雨が明けようという夏の入口。
毎朝通る白い家の前には、健気に陽の光を追いかける大輪の花が咲くようになっていた。
けれど、花壇には雑草も目立ち始め、明らかに手入れがおざなりになっている状況が見て取れる。
他人のことを詮索しないようにと思いつつも、居た堪れなさを感じざるを得なかった。

二週間ぶりの清掃作業の朝、眩しい位の太陽に公園の木々が照らされていた。
集合時間になり、広場にいた人々が一斉に動き出す。
しかし、しばらく待っても、待ち人は現れない。
「屋代さんですか?今日はいらしてないみたいですね。いつも早めにいらっしゃるんですけど」
受付係の女は、そう言ってゴミ拾いセットを手渡してくる。
「そうですか・・・」
家族がいれば、急に来られなくなることは不思議じゃない。
きっと、何処かへ出かけているのだろう。
来週は顔を合わせることが出来るはず、そう考えながら持ち場へ向かった。


次こそは、次こそは。
そう思いながら、月日は過ぎていく。
もう、来ないのかも知れない。
でも、俺のいないタイミングで彼が姿を見せるかも知れない。
向日葵は枯れ始め、夏の暑さだけが増す中、義務感だけで朝の公園へ足を運ぶ。

「随分焼けてるねぇ」
「そうですね。このところ良い天気が続いてるんで」
犬の散歩を兼ねて掃除に参加しているという初老の男性と言葉を交わしていても
知らず知らずの内に、背の高い男の気配を探してしまう。
木陰で臥せっているレトリバーの姿を見やりながら、これは、あの煩わしさとよく似ていると、感じていた。

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心象(5/5)

初めて遅刻したのは、盆休み初日の日曜日。
時計を見た時、一瞬サボることも頭を過ったが、結局駅から公園までを走りきり、5分ほどの遅れで済んだ。
そんなに急がなくても大丈夫、と係のおばちゃんは笑っていたが
用紙に社名を記入する段になって、会社の名前を背負って来ていることを改めて実感し
これからは気をつけますと、軽く頭を下げた。

指定されたのは、初めて掃除をした時と同じ、高台の周りだった。
遅くなった為にコンビを組む人がおらず、一人でその場へ赴く。
途中の広場には子供の姿も多く見られ、世間はすっかり夏を満喫しているのだと他人事のように思う。

大した収穫も無いまま掃除は終わり、木々の向こうに見える街を眺めた。
変わり映えのしない風景の中、一か所、背の高いボーリングマシンが立っている場所がある。
恐らくマンションの建設現場であろうそこには、以前、何があったのか。
きっと彼だったら、そんなつまらない質問にも、笑って答えてくれたに違いない。

「あそこ、マンションになるんですね。この辺じゃ名の知れた和菓子屋があったんですが」
背後から聞こえた声に、思わず振り向いた。
驚きの表情を整える暇も無かった。
「・・・もう、掃除終わっちゃいましたよね。すみません」
走ってきたのか、幾分肩を弾ませながら、待ち侘びていた男は精一杯の柔和な表情を見せる。


二ヶ月程見ない内に、彼の表情には何処か寂しさが漂うようになっていた。
ベンチに腰掛け、しばらく無言の時間を過ごす。
「仕事、忙しかったんですか?」
何かがあったのだろう。
それは分かっていたが、どう聞いて良いのかの判断はつかなかった。
俺の声に顔を上げた男が、小さく溜め息をついてこちらに視線を向ける。
その眼の中に、かつての幸せの光は見えなかった。

息子が生まれるまで、彼は都心のマンションで妻と暮らしていた。
人材派遣会社の営業という仕事を天職だと信じ、がむしゃらに働く毎日。
同年代のサラリーマンから見れば破格の給与を手にし、ある意味充実していたと彼は振り返る。
けれど、家のことを蔑ろにし、子供が産まれても、その顔を見る時間すら取れない人生は
父として、男としてどうなのかという疑問が頭をもたげ始めた。
幸い貯蓄もあり、資産運用も波に乗っている。
数か月の葛藤の末、同業他社への転職と、この街へ戻ることを決めたという。

会社が遠くなり出勤時間は早くなったものの、残業はそれほど多くないし、土日も休むことが出来る。
平坦で平凡な毎日が、彼にとっては何よりも幸せだった。
やがて、子供が幼稚園に上がる頃、妻はパートに出るようになる。
彼の実家が同じ街にあり、義実家に面倒を見て貰えることも大きかったのだろう。
そこから、少しずつ歯車が狂いだした。

妻が子供を置いて家を出て行ったのは、一ヶ月前のこと。
何かが変わってきていると、気が付いてはいたのだという。
それでも、真実を見ることが、今の生活を歪めてしまうことが怖かった。
「正しいと思う選択肢を選んできた、つもりだったのに」
変化を恐れるがあまり、夢に縋ったのかも知れない。
「もう、今の僕には・・・何が後悔するべきことなのかすら、分かりません」

項垂れた大きな身体が、小刻みに震える。
掛ける言葉を見つけられないまま、宥めるように背中を撫でた。
「・・・情けない」
震えた声のすぐ後で、押し殺した嗚咽が漏れてくる。
重い思いを感じながら、彼が思い描いた原風景を、街並みに重ねた。


短い夏休みが終わり、気怠さを残したままの出勤時。
あの小さな家から、家族の面影は消えていた。
コンパクトワゴンも、釣竿も、向日葵も、幻では無かったはずだ。
人の営みの無常さをつくづく思い知りながら、その場を後にする。


翌週から、彼は息子を清掃作業に連れてくるようになった。
けれど、人見知りなのか、父親の影に隠れる様にこちらを見るだけで
しばらくすると、同じように親に連れられた友達の元へ走っていってしまうのが常だった。

「あれ・・・軍手が片方しかないな。ちょっと、貰ってきますね」
秋分を間近にし、なお暑い日が続いていた日曜日。
出会いから一ヶ月にして、初めて、男の子と二人きりになる事態が起こった。
駆けだしていった父を追いかける素振りを見せ、ふと足を止めた彼は、俺を見上げて言った。
「勇人くんは、パパとずっと仲良くしてくれる?」
「・・・え?」
「大好きなお友達に会いにいくから、頑張って早起きしてるって、言ってた」
上向いていた視線が地面に落ちる。
彼と目線を合わせるようにしゃがみ、軽く頭を撫でた。
「パパ、家だとあまり元気ないけど、ここに来るといつも楽しそうなんだ。だから・・・」
自分を守るべき存在の弱い姿を見るのが辛いのは、子供にとっては当たり前のことだろう。
家の中の微妙な雰囲気に、不安を感じているのかも知れない。
「大丈夫。ずっと仲良くするよ。約束する」
「ホントに?絶対だよ?じゃあ、ゆびきり!」

絡んでいた小さな指が離れていくタイミングで、父親が戻ってくる。
「何の約束?」
「パパには内緒!ボクと勇人くんだけの秘密!」
「太一、その呼び方は止めろって・・・」
「あっ、しょうくんだ!しょうくーん!」
朝から何てテンションだろう、そう思わせるほどの快活さをばら撒きながら子供は走り去っていった。

妻を奪った男と同じ苗字だったから。
彼の息子が、俺を下の名前で呼んだのはそういう理由だったらしい。
「僕が家でそう呼んでいたのを真似てしまったようで・・・すみません」
「構いませんよ。ちょっと、びっくりしましたけど」
「それで・・・太一とは何を話してたんですか?」
興味深げにこちらを窺う視線で、つい口が滑りそうになったが、これは男同士の秘密。
「早起き頑張ろうね、って」
「ホントですか?それだけ?」
「ホントですよ」
腑に落ちない、そんな表情を浮かべた彼に、一つ問いかけてみた。
「太一くんも約束してくれたんだから、屋代さんも約束してくれますよね」
「早起き?」
「そう」
視線を交わしたまま、彼はしばらく思案を巡らせる。
程なく、何か思い当たる節を見つけたのか、いつもの朗らかな笑みを見せてくれた。
「もちろん、頑張りますよ。太一には負けないようにしないと」

不思議な縁を繋ぎ留めてから、数ヶ月。
そういえば、誰かに心を奪われることを煩わしいと思わなくなったような気がする。
彼と並んで高台から眺める街並みは、少しずつ確実に変化を遂げていて
いつかこれが、俺の中の原風景になるのだろうかと思うと、嬉しさが込み上げた。

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Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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