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螺旋(1/8)

「お前、どうすんの?本当に残るのか?」
会社の近くの飲み屋で、ハイボールを煽る同僚はそう尋ねてきた。
「どうすっかなぁとは思ってるんだけど・・・イマイチ踏ん切りがつかないんだよな」
「今までみたいな仕事はできなくなるかも知れないんだぞ」
「それは、分かってる」

大卒で空調機メーカーの技術営業の職に就き、5年勤めた後で転職した電気設備設計事務所。
電気サブコンの設計部門が独立してできた会社は、来春、大手の総合事務所と合併することが決まっている。
表面的には対等合併とされていたが、実際のところは吸収合併であり
事業内容や組織改編についても、先方の会社が有利に進むであろうことは容易に想像できた。
上司や同期の中には、これを機に会社を離れる者が出てきており
目の前で管を巻き始めた根来も、先般、他の設計事務所への転職を決めた一人だ。

同じ年の彼は、俺とは違い事務所の生え抜きで
電気系インフラの施工会社に出向していた期間が長く、動力系の設計に於いては社内でも一目置かれていた。
一方で、俺が得意としているのは自動制御全般。
「ウチ、制御系が弱いから、マジ助かるよ」
入社したての頃は、慣れない雰囲気に戸惑う俺を適当にあしらいつつフォローしてくれていて
こいつのお陰でどれだけ助かったかと、口に出すことは無いまでも、ふと思い返すことがある。

「オレとしては、もうちょっとお前と仕事してたいんだけど」
「俺も・・・そうは思ってる、けど」
あれから6年、互いに信頼関係を築きながらやってきた。
酒の勢いで、二人で事務所でも立ち上げようかとの話になったこともあったが
同僚の転職の意思を聞いた時、同じ道を歩む決心はつかなかった。
彼が次の職場に選んだのは少数精鋭の電気設備設計事務所で、個々人の実力がものを言う組織。
正直俺は自分の実力に自信を持てていないし、彼の足を引っ張るのではないかと言う不安もあった。
「吸収されたら、当然待遇も変わるだろ?」
「まぁ、そうだろうな」
「どうすんだよ、あっちの会社の若い奴が上司とかになったら」
「あぁ・・・まぁ、どうすっかな」
真摯な誘いをのらりくらりと交わしている内に、恐らく決断のタイミングは逃してしまったのだろう。
日和見がちな俺の性格を知っている根来は、この日も、諦観の溜め息を吐きながら煙草に火を点ける。
「とりあえず、その気になったら言ってくれ。できる限り、推しとくから」
「分かった。ありがとう」


合併先となる城南総合設計は、元々意匠・構造系の設計事務所だった。
それが総合設計へと方向転換し始めたのが一昨年のこと。
集合住宅やデザイナーズ物件を主軸に展開していた事業を、商業施設やプラント系にも広げる為
去年・今年と立て続けに設備系の事務所を吸収した。
事務所ビルからプラント・工場まで手掛けるウチの会社は、合併相手としては最適だったのだろう。
労せず新たな顧客を手に入れられることも、彼らにとっては大きなメリットになる。

けれど、合併の2ヶ月前、正月休みに入る直前に配布された一枚の組織編成表が
両者の立場が対等ではないことを改めて突き付けた。
先方にも電気設備を統括する部署があり、そこに在籍する社員は5人。
こちらの会社の社員は、現状残っているだけで、社長以下25人。
社長は顧問となり、専務は執行役員、二人の部長の内、一人は電気設備部の部長となり、一人は次長へ降格。
3つに分けられたグループの頭に座る課長職は、二人がウチの会社から、一人は先方の社員が就く。
ポストからあぶれた現課長は副課長というポストを与えられ、係長・主任クラスも半数以上が任を解かれた。
CAD・営業チームは機械設備と統合され、全く違う部署となる。

「住宅とか・・・貧乏くじ引いたな、香椎」
俺と同様、係長職をスライドできた先輩が、興味深げに声を掛けてくる。
事務所ビル・商業施設、工場・プラント、住宅の3つの課に分けられた中、俺の配属は住宅のグループ。
今の直属の上司である安住さんが副課長になるとは言え、課長は城南の社員だ。
「しかも、この福森って奴、かなり若いんだろ?あっちの電設では頭張ってるらしいけど」
「マジですか」
適当にやり過ごしたはずの根来の冗談が、実際の話になって身に降りかかる。
想像以上に憂鬱さが増した。
「ま、オレらの上の人の方が、もっとやってらんない気分だろうな。安住さんなんて、もう定年近いのに」
「確かに・・・そうですね」
只でさえ少ない役職の椅子。
役職手当の代わりに別の手当てで給与の減額分を補填するということらしいが
20年以上会社を支えてきた40~50代の社員にとっては、成果であり褒賞でもある。
それを取り上げられた上、見知らぬ若い男が攫っていったとあれば、心情的に遣り切れないのは当然だろう。
彼らに比べれば、年下の上司を持つことくらい、まだ諦めがつく範疇なのかも知れない。


大所帯となり、新たなオフィスへ移転した2月の末。
電気設備部が置かれる6階の窓からは、高度の低い、柔らかな日差しが射しこんでいる。
「福森です。不慣れな点もあるかと思いますが、宜しくお願いします」
新しい上司は、そう言って小さく頭を下げた。
課長・副課長・係長と平社員3人の小さな所帯が、三課の面子。
殆どは見知った顔だったものの、安住副課長の勧めで名刺交換をする。
「香椎です。住宅はあまり経験が無いので、ご教授宜しくお願いします」
「こちらこそ・・・何かあれば、ご進言ください」
日差しを背に受ける若い男は、恐らくまだ30代になりたてといったところ。
細かな瞬きが、幾ばくかの自信と、大きな不安が入り混じる心情を教えてくれた。

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螺旋(2/8)

新しい会社として船出をしてから3週間も経つ頃には
以前から手掛けていた物件も一通り完了し、課本来の物件が手元にやってくるようになった。
複数の大手デベロッパーを顧客に持っている為、各々の仕様書を読み込むところから業務は始まる。
設計作業自体はそれほどでもないが、分厚い決まり事と頻繁な設計変更、タイトなスケジュールが
集合住宅設計の厄介なところなのだろう。
勝手が違う流れに戸惑いながら、使えない奴、というレッテルを貼られまいと気負いが大きくなった。


「こんなに人工かかりますか?出せても精々半分です」
新体制になり初めて任された高層マンションの設計業務。
元同期の事務所から上がってきた見積書を見て、福森課長はそう言って書類を突き返してきた。
「これだけの規模で、幾らなんでも半額は無理でしょう」
同一敷地に立つ2棟のマンションはいずれも30階を超える高層の建物で
住戸タイプ数は50種類にもなり、図面枚数も半端無い数だ。
おまけに、壁面太陽光発電を導入するということで、幹線経路はより複雑になる。
「今回、予算が厳しいんです。意匠にだいぶ持ってかれてますから」
「それは分かりますが、規模に見合った金額ってものがあるんじゃないですか」
打合せ机に並んだ図面を手に取った上司は、一つ息を吐いて、俺を見た。
「この物件では、どうしても、赤は切れません」

席を立った彼は、自らの机の上から名刺入れのファイルを手に取り、一枚名刺を抜き取る。
「ここに、連絡してみて下さい」
手渡された名刺には、エルテック設備設計という社名と、社長と冠された男の名前が記されていた。
社名を見るのは、初めてではない。
以前、破格の値段に釣られて仕事を依頼したは良いが、直前でお手上げの状態になり
結局、他の事務所に金額を上乗せする形で引き継いで貰ったことがあった。
その時に営業をかけてきたのも、確か、この男だったはずだ。
「ここって・・・」
「馴染みの所です。言い値でやってくれると思いますんで」
もちろん、その会社とは取引停止となり、以降、改心したのかどうかも興味は無かった。
「こんな所と付き合いがあるんですか」
思わず口を衝いた言葉に、福森課長の表情が僅かに険しくなる。
恐らく、彼だって件の会社の体たらくは身をもって知っているはずだった。
「香椎、良いから課長の指示に従え」
何かを言いかけた目の前の上司に代わり、傍で見ていたであろう安住さんの一言が飛ぶ。
「すみません、次は、そちらにお願いしますんで」
「・・・分かりました。こんな値段で頼んだら、私の信用も落ちますしね」

無愛想な声で応対した男は、まさに名刺に書かれた人物だった。
苛つきながら福森課長からの紹介だと言うと、その態度は一変し
物件の概要もそこそこに、憐れな程に媚びへつらった口調で、あっさりと言い値を飲み込む。
「では、さっそく打合せを・・・」
豹変した口調が耳に入ってくる度に、嫌な予感が徐々に膨らんだ。
「夕方の4時ですね。はい、お伺い致します。何卒、宜しくお願い致します」
電話の向こうで会釈でもしているのであろうノイズが、初老の男の声を霞ませる。
ああ、あの時もこんな感じだったなと、減給処分を喰らった失敗が蘇る。
何も覚えていないらしい先方の口調が、更に鬱憤を大きくさせた。


「半額?んなもん、できる訳ねーだろ」
ビルの1階にある喫煙所で根来に事の顛末を報告すると、間髪入れず答えが返ってくる。
「これ以上、出せねぇんだとさ」
「じゃ、何?自分でやるって?」
「いや、半額で受けるっていう所があって、そこに」
「そんなの、どんな図面上がってくるかわかんねぇぞ?」
設計期間は4月中旬から、GWを挟み5月末までの実質一ヶ月あまり。
数回の設計変更、デベロッパーとのデザインレビューを経て、確認申請提出は7月頭とされている。
マンションの売出し広告は申請が下りないと出すことができない為、スケジュール厳守と言われていた。

福森課長がエルテックに仕事を依頼するのには、それなりの事情がある。
大学で電気設備を学び、城南総合設計に就職した彼は、当初一人で電気設備を統括していた。
別事務所に回していた設備設計業務も含めて一括で受注する為、突貫で作られた部署。
そこに据えられたのが、新卒の社員だった。
教えを乞う先輩もおらず、日々積み重なっていく図面を遮二無二こなしていく。
なかなか下請けの事務所を開拓できずに焦り、限界を感じ始めていた時
電気工事業を営んでいた祖父の伝手で紹介されたのがエルテックだった。
実力が及第点に達していないことは初めての依頼で明らかだったが、彼にはここしか救いがない。
途中で音を上げたことは一度や二度では無いらしく、その度に自らフォローに回り、乗り越えてきた。
やがて、人員が補強され、事業も軌道に乗るようになってきても
恩を忘れる事はできず、未だに予算が厳しい物件では使っているのだと言う。

「危ねーな、そういうの。いつか取り返しつかないことになるぞ」
冷静な元同期の声で、若干の溜飲が下がる。
「ま、責任とんのは、俺じゃねぇし」
「お前だってとばっちり食うだろ」
「良いよ。そしたら、課長に、フォローして貰うから」
「何だ?年下課長がそんなに気に食わないか」
「そういう訳じゃ、ねーけど」
気に食わない気持ちは、確かにある。
上手くいなせなかった自分への歯痒さもある。
「それとなくアドバイスしてやったらどうだ?懐の深さ、見せてやれよ」
他人事として笑って話す根来の声に宥められながら、フィルターまで燃え尽きた煙草を灰皿に投げ入れた。

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螺旋(3/8)

幼いころに父親が失踪し、働きに出ている母に代わり、祖父母に育てられた。
その母親も、過労が祟り大学進学直前に亡くなったという。
「え、でも、大学出てるって」
「奨学金貰っただかしたらしいけど」
「若いのに苦労してんだな」
電気工事技師だった祖父の仕事を幼い頃から見てきたからか、彼も同じ道を目指したらしい。
しかし、期せずして設計事務所へ就職したことを、自身は今、どう思っているのだろうか。

大型連休の狭間、元の部署連中が久しぶりに集うことになった。
元上司の鶴の一声だったが、当の本人はまだ顔を見せていない。
「安住さん、おせーな」
「俺が出てくる時は課長と打合せしてたけど。もう来るんじゃねぇか?」
「しかし・・・あの人、やたら若殿に肩入れしてるみたいじゃん」
「まぁ、昔から面倒見は良いし。頭が潰れたら、俺らだって困るからな」
実際、同じグループに所属しているからといって、いつも顔を合わせている訳ではない。
現場定例や打合せ等で席を外すことが多い俺たちに比べて
決まった物件を持たず、文字通り課長の補佐役である安住さんの方が、課長とは馴染みも早い。
とはいえ、本来なら部長クラスまで出世してもおかしくはない人材であるはずなのに
自身の息子とそう歳の変わらない上司をフォローする姿に、居た堪れなさを感じるのも確かだった。

「そういや、あいつ元城南組からも疎まれてるみたいだな」
「何でだよ?一人で電設引っ張ってきたんだろ?」
「だからだろ。何でもかんでも自分でやろうとするんだとさ」
「めんどくせー奴。だったら役職なんか辞退して、一人で黙々とやってろ」
いけ好かない奴の悪言ほど、旨い肴は無い。
男たちの口は、酒の力もあってか段々と饒舌になっていく。
「後、ホントかどうか知らねーけど・・・」
「マジで?それは幾らなんでも・・・」
信憑性の乏しい話でも、興味をそそれば構わないのかも知れないが
俺だって、若い上司に良い感情を持っているとは言えないまでも、彼らよりは近しい距離にいる。
「もう、その辺で止めとけって・・・」
形式ばったフォローは何の効も奏しない。
とりあえず盛り上がる会話から意識を逸らしつつ、煙草に火を点けながら
何処か不信感を漂わせる雰囲気は、こんな状況から作らざるを得なかったのだろうと、勝手に同情してみた。


「お前たち、上司の陰口で盛り上がるのはいい加減にしておけよ」
座敷の小上がりに腰を掛けて靴を脱ぐ中年の男は、騒がしい集団をそう言って諌める。
「・・・あ、お疲れ様です」
「すんません、つい」
「ま、気持ちは分かるが、程々にな」
俺の前に座った副課長は、バタバタとやってきた店の女将からおしぼりを手渡されると
ついでにビールを注文し、顔を数回拭い、大きな溜め息を吐く。
「福森さんは、もう帰られたんですか」
「ああ、もうすぐ帰るって言ってたぞ」
「そうですか」
程なくやってきたビールジョッキを小さく掲げ、一気に飲み干していく元上司に、誰かが問うた。
「安住さんは、正直どうなんすか。あんな若造の下にいるって」

半分ほどになった酒を手元に置いた彼は、一本、と言って俺の煙草を拝借していく。
「満足してるぞ。お前たちは憐れんでくれてるのかも知れんが」
誰もが予想していなかった言葉に、場が一瞬静まった。
「むしろ、オレは福森君の気持ちがよく分かるからな。少しでも助けになれば、と思ってる」
「どういうことですか?」
「前の事務所が独立する前だから、もう、20年以上経ってるか」
吐き出された煙が、くすんだ天井に向かって流れ、消えていく。
「オレも、35手前で、課長に昇進したんだよ」

安住さんがまだ係長だった時代、彼の所属していたグループで機密漏洩を犯した社員がいた。
某メーカーの工場建設図面をライバルメーカーに横流ししたとして、会社が訴えられたという。
何とか示談に持ち込んだものの、以降、そのメーカーとは取引停止となり
懲罰人事として、課長・課長補佐がそれぞれ降格処分とされた。
「人材が不足してた訳じゃないと思うんだがな。何故か、オレに白羽の矢が立った」
そこで空いた課長のポストに据えられたのが、安住さんだった。
「酷いもんだよ。辞令が出てからは、年長の社員が全員敵に見えたもんだ」
前例の無い30代での課長昇進は、当然のことながら周囲の醜い思惑の渦を大きくする。
やがて嫉みは彼だけに収まらず、その部下にまで伝播していった。

「当時目をかけてた部下がいてね。女性だったんだが」
今でも希少な存在である女性技術者を、若き課長は大いに買っていたらしい。
新婚だった彼女は、それでも男たちの中で懸命に仕事をこなしていた。
課長昇進から3ヶ月ほど経ち、彼は部下から妊娠の報告を受ける。
「今とは時代が違う。あの頃は、女に対してえげつない輩も多くてな」
ギリギリまで頑張ると笑っていた部下の表情は、ある一つの噂で暗く沈むことになった。
「オレとの不倫の末にできた子供だって言いふらした馬鹿がいた」
「・・・最悪っすね」
「だろ?聞き流せ、気にするなとは言ってたんだが・・・」
「どうしたんですか、彼女」
「しばらくは耐えてた。でも、結局辞めてったよ」

空になったジョッキを脇に寄せ、上司は過去の後悔を眉間の皺に滲ませる。
「設計のセンスは抜群だった。そんな逸材を、あんなつまらないことで失ってしまった」
煙草の箱を差し出すと、小さく頷いて一本抜き取った。
「まぁ、あの時と立場は違うが、若い芽を摘んじまわないように、オレなりに考えてるんだよ」
炙られた先端から揺らぐ煙が上がる。
「・・・同じ轍は、もう踏みたくないんだ」

夜、照明を落としたオフィスでパソコンに向かう課長の姿が脳裏を過る。
あの若者が優秀な人間であることは、方向性はどうあれ、皆が認めているところだ。
何でも一人で抱え込んでしまうやり方は、副課長のアドバイスもあってか多少改善されてきているが
そうはいっても、周りとの見えない壁は、依然として高い。
「どうして会社は、わざわざ風当たりの強い場所に彼を置くんですかね」
「それだけ期待してるってことなんだろう。やり方が正しいかどうかは別として」
「ますます孤立するだけなんじゃ」
「なら、こっちから引っ張ってやれば良い」
意味ありげな笑みを浮かべた安住さんは、通り掛かった女将にビールを追加注文する。
「今の彼には、周りが敵だらけに見えてるだろうが・・・お前は違うだろ?」
「・・・え?」
「まだまだ先は長い。味方同士、手を取り合って登っていけたら、良いと思わないか?」

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螺旋(4/8)

GW明けの月曜日。
予想通りの展開に、溜め息も出てこなかった。
「後2週間しかないのに、こんな進捗状況で大丈夫だと思ってるんですか?」
エルテックから送られてきた図面は殆どが未完成で、住戸詳細図に至っては手つかずの状態。
休み前には順調に進んでいると言っていたのに、案の定、というところだろう。
「予想以上に数があって・・・」
「それは、図面リストを提示した時点で分かっていたはずです」
いつも横柄な態度が、この時ばかりはしおらしく偽装される。
「数を見越してスケジュールを立てるものじゃないですか?大きな設計変更もなかったでしょう?」
侮辱されているという意識が感情を逆撫でしていることは、自分でも分かっていた。
無為な時間を過ごしたところで、図面が仕上がる訳でもないのに。
「とにかく、何としてでも上げて下さい。また来週、進捗を伺いますので」
「ちょっと、物理的に無理が・・・」
「ご自分が言っている意味が、分かってますか?」
ふと、こちらを窺っていた課長と目が合う。
声のトーンを、少し下げた。
「結果如何によっては、福森課長の進退にも影響しますよ?そうなれば、そちらも困りますよね?」

電話が終わり、一連の報告を上司に行う。
「最悪の状況になる前に、手を打つべきかと思います」
スカスカな図面を手渡しながら、素直な意見を課長にぶつけた。
「パーセンテージとしては、どれくらいですか?」
「5割も行っていない感じですね。特に住戸詳細が全く」
「・・・参ったな」
課長にフォローして貰うから、根来にはそんな軽口を叩いたが、実際この物件の担当は俺だ。
完了できないとなれば、当然矢面に立たされる。
現状、他の物件については落ち着いていることだけが幸いだろうか。
困惑の表情で図面を捲る課長を視界に入れながら、自分の作業予定を組み替えていく。

「一応、僕からも話しておきます。もし、それでも厳しいようなら・・・」
俺を見上げる眼には、追い詰められた末の諦めが映っているように見える。
また、今までのように、一人で困難を乗り越えようとしているのだろう。
過去の温情がこじれてできたしがらみ。
断ち切るには、彼自身に事態の収束を任せないことが一番だと、思った。
「課長の手は煩わせませんよ。私の担当ですので、私が何とかします」
「いえ、でも、エルテックに依頼するよう指示したのは、僕ですから」
誰かの不手際のせいで、誰かが泥を被る。
それは、会社という組織で部下を持つ者にとって仕方の無いことだ。
ただ、上司が率先して全てを抱え込んでしまったら、部下の立つ瀬がない。
「でしたら、作業内容の変更と、それに伴う見積りの減額要求をして頂いて良いですか?」

結局、手が付いていない図面については俺がスケッチを描き
先方にはCAD入力と微調整だけを依頼する形にすることとなった。
もちろん、それに伴い見積金額は何割かカット。
併せて依頼するはずだった実施図については、他の事務所に引き継がせる約束も取り付ける。
残業時間が倍増し、数日徹夜をする羽目にもなったが
以前にも増して不機嫌になった電話口の声を聴きながら、これで良いんだと、自分を納得させた。


やっとの思いで申請図を提出した翌日。
根来の事務所から再び上がってきた実施図用の見積書を、課長に提示した時のことだった。
「福森課長、外線2番にお電話ですが」
「何処からですか?」
「それが、あの・・・兵庫県警、から」

俺がその場を外してから10分以上、上司は終始沈痛な表情で応対を繰り返していた。
動揺しているのか、受話器を持つ手は明らかに震えている。
電話が終わり、しばし呆然としていた彼に、安住さんが声を掛けた。
一言二言やり取りをし、二人は部長の席へ向かっていく。
深刻な事態であることは一目瞭然で、隣に座る部署の後輩と思わず顔を見合わせた。

「香椎、ちょっと」
安住さんの声に呼ばれ、視線を移す。
そこに課長はおらず、部長と副課長だけが神妙な面持ちでこちらを見ていた。
軽い緊張感に包まれたまま、二人の元へ急ぐ。
上司たちは目配せで発言権を譲り合い、最終的に権利を手にした安住さんが口を開いた。
「福森君の父親が、見つかったらしい」
「え?」
「自殺らしくてな・・・さっきの電話は身元確認の要請だったようだ」

幼い子供を捨てた父親は、つい最近まで、遠い親戚伝いに息子の安否を聞いていた。
僅かな所持品の中には、彼の名が記された遺書があったという。
「とりあえず忌引休暇を申請するように言ってあるから、仕事引継ぎの打合せの用意をしてくれるか」
「分かりました。・・・で、課長は?」
「だいぶショックを受けてるみたいでね」
溜め息混じりの声で言いながら、安住さんはフロアの向こうの廊下に目をやる。
「立ち直ってくれると、良いんだが」


探していた男は、トイレの洗面カウンターに手を付き、頭を項垂れたまま肩を震わせていた。
俺の気配で顔を上げた上司と、鏡越しに目が合う。
目を赤く腫らした彼は、当然普段の姿とは全く違って見えて、副課長が案じるのも無理はないと思わされた。
「・・・大丈夫ですか」
「ええ、すみません。大丈夫です。仕事の引継ぎの件ですよね」
「一先ず、今いる面子で分担して、後程振り分けます」
「ありがとうございます。でも・・・」
無理矢理口角を上げ、憂いを振り切るように顔を洗う。
ペーパータオルで流れていく水滴を拭き取り、ゴミ箱へ投げ入れた。
「定時まではやっていきますんで、皆さんが揃ってからでも良いですよ」

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螺旋(5/8)

俺たちは、この人にとって、未だ背中を預けられる存在ではないのだろうか。
良かれと思って言っているのだとしても、納得できる訳もない。
「・・・定時まで、ですか?」
「本来は、もっとやっていくべきなんでしょうが・・・」
「そうじゃない。逆ですよ。今すぐ、帰るべきだって言ってるんです」
「でも、それじゃ、皆さんに迷惑を・・・」
「何でも一人で抱えて、一人でやりきることが、誰の迷惑にもなってないと思ってるんですか?」
つい厳しくなった口調に、年下の男は素の表情を覗かせる。
「部下としては、そんな上司の姿見せられんの、いい迷惑なんですよ」
こんなタイミングで言うことじゃないと分かっていても、止められなかった。
「私たちを如何に信頼してないか、公言してるようなもんですからね」

鋭く、潤んだ瞳が、目線のやや下辺りから俺を真っ直ぐに捕らえる。
「・・・じゃあ、オレに、どうしろって言うんだよ」
やり場のない怒りに、その声は震えていた。
「なりたくもねぇ役職付けられて、周りから散々妬まれて、年上の部下に毎日気ぃ遣って」
若者の掴み掛らんとする気迫に押されながら、ヒートアップしていく感情を抑え込むように言葉を発する。
「貴方は、分かってない」
「はぁ?何が?」
「私たちは、敵じゃない。味方なんです」
憤懣が宙に浮き、彼は言葉を失う。
自分が四面楚歌ではないことを、やっと、信じる気になったのかも知れない。
「でも・・・」
「他の部署の奴らの言うことなんか、気にしないで下さい」
幸いにも、彼の部下たちは皆一人で業務をこなすことができる経験者ばかり。
だからこそ、技術者としては認めつつも、管理者としては歯痒い想いを抱えていた。
「少なくとも、私は・・・私たちは貴方に期待してるんです。上司として、その気持ちに応えて貰えませんか」


部署に戻ると、打合せに出ていた後輩が既に戻ってきており、偶然にも全員が顔を合わせることができた。
課長の今後一週間のスケジュールを確認し、振り分けできるものを列挙していく。
管理職権限で行う月に一度の考査は、幸い終わったばかり。
その他の見積り・請求の決済や、管理職会議への出席は安住さんが代行し
各物件の査図、客先や事務所との顔合わせは俺が行う。
その他、課長自身が抱えている物件については、3人の部下がそれぞれ1物件ずつ受け持つこととなった。

「あと、先ほどの見積もりなんですが」
手帳に追加のスケジュールを書き込む俺に、課長が声を掛けてくる。
「あれは・・・まだ時間がありますから。戻られてからでも」
「いえ。あの金額で、正式な見積書を送って貰って下さい。前のことも、ありますから」
伏し目がちの表情で心が上手く読み取れない。
とはいえ、俺が見ても吹っかけ気味の金額に、上司が納得している訳は無かった。
部下の返事が滞っていることから、そんな杞憂を読み取ったのだろう。
「その代わり、次に繋がる仕事を期待してますね」
不意に見せた穏やかな顔に、了承の言葉を返すことしかできなかった。

「本当に、ご迷惑をおかけします」
小さく頭を下げる福森さんに、安住さんはその肩を叩きながら声を掛ける。
「いろいろ考えることもあるでしょうが、これを機会に、肩の荷を下ろす練習をしても良いと思いますよ」
常に気を張っていた姿が、大きな負の感情で解けていく。
自分がぶつけてしまった言葉を悔いながら、それでも彼が、乗り越えてくれることを願っていた。

葬儀はしないとの連絡が入ったのは、彼が兵庫へ向かった翌日のこと。
火葬だけを済ませ、都内の共同墓地に埋葬するのだという。
社内規定で決められた香典を社名で送る以外、俺たちが上司にできることは無く
ただひたすら、自分の仕事と、引き継いだ仕事をこなす日が続いた。


「おはようございます」
若干やつれ気味の身体を引き摺り、彼は一週間経たない間に復帰する。
思いの外、各種手続きが迅速に終わったからだ、と作り笑いを見せつつ自席に着くと
机の上には部下たちがまとめた書類や報告書が並んでおり、そこに視線を落とした後、再度顔を上げた。
「あの・・・ちょっと、皆さん、集まって頂いて良いですか?」

いつもなら各々が各々の予定を確認し、当日のスケジュールを組み立てる始業10分前。
図面が散乱していた作業机を片づけ、部署の面子が顔を合わせる。
遅れてやってきたのは、住宅チーム専任の営業と、CADグループのチーフ。
「4ヶ月も経って、今更、という感じではあるんですが」
総勢10名ほどの社員の前で、課長はそう切り出した。
「これから、こういう感じで毎朝ミーティングをしていきたいと思います」

誰がどのような作業で動いているのか把握しておきたい、というのに加え
それを互いが認識し、更にどのようなフォローが必要なのかを調整する為だ、と上司は語った。
今までは各自が上司に報告するだけで、隣の席の後輩の状況すら、自分から探らないと分からなかった。
正直、それで仕事は回っていたし、問題はないと思っていたけれど
福森さんは恐らく自戒も込めて、このようなやり方を選んだのだろう。
若干戸惑いを感じさせながらも、その場にいた全員が彼の提案に異論を唱えることは無かった。


部長の決裁が必要な書類を手に、課長が席を立つ。
横目で彼を追う安住さんが、安堵するように呟いた。
「あれが、彼なりの荷の下ろし方、か」
現在携わっている物件が終わり次第、設計業務から手を引く。
今後は対外的な仕事に注力するつもりだと、何処か寂しげに言った表情が、印象に残っている。
「正面切って言ってくれるような人間が、居なかったんですかね。今まで」
無意識の内に答えた言葉で、副課長の視線がこちらを向く。
「お前、何か言ったのか?」
「え・・・いや、まぁ・・・ちょっと」
「そうか・・・何にせよ、これで一安心だな」

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螺旋(6/8)

「あることないこと噂するの、もう止めてくれないか」
盆休みを控え、前倒しの予定が増えてきた盛夏の頃。
気晴らしに向かった喫煙所の前で、よく知る声が聞こえてきた。
「あることないこと?ホントのことだろ?」
「オレ一人なら良い・・・でも、関係のない部下まで巻き込むなって言ってるんだ」
「自業自得だろ?福森、課長」
「まだ、あのこと、根に持ってるんだな。最終的に勝ったのは、お前じゃないか」
「だから何だよ。オレはな、一度でも、お前に負けたってことが納得できねーんだよ」
上司とは真逆の、低くしゃがれた声が聞こえた直後、何かがぶつかるような激しい音が扉の向こうから響く。
「・・・話逸らしてまで、否定したくねぇってか」

相手も、恐らく社員だろう。
そして、上司にタメ口を聞いているところから、同期か先輩か、それくらいの関係だと察しがついた。
扉に手をかけ、勢い良く開く。
目の前にあったのは、まさに、課長が男に胸倉を掴まれて壁に押さえつけられている姿だった。
「何やってんだ」
極力抑えたトーンの声に、男は振り返り、怪訝な顔で俺を見る。
そうかと思うと、舌打ちをしながら上司の身体を放し、不敵な笑みを浮かべた。
「別に・・・ああ、あんた。こいつの部下か」
この場に俺たち三人しかいなかったのは、幸いだったように思う。
「言葉遣いに気をつけろ。俺は課長の部下であって、お前の部下じゃない」
「あー・・・そうっすね。すんません。心労、お察ししますよ」
わざとらしい軽い口調が癪に障ったが、表情には出さなかった。
こちらへ向かってきた彼は、耳元で謝意の無い謝罪の言葉を残す。
「お騒がせしました。ごゆっくり」

出ていく気配を背中で探りながら、正面に立つ若者に視線を送る。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。すみません、何か・・・」
ネクタイの無い襟元を正しながら、上司は視線を足元に落としたまま答えた。
「いえ。それなら、良かった」
適当な距離を空けた位置に立ち、煙草に火を点ける。
「福森さん、煙草吸われるんでしたっけ」
「ずっと、止めてたんですが・・・いろいろあって、何となく」
吸わない方が良いですよ、そんなことを俺の口から言える訳も無く
溜め息のような深い息と共に吐き出されていく煙を、ゆっくりと目で追った。

「・・・さっきの、同期なんです。彼は、総務部ですけど」
煙草を吸い終えるタイミングで、俺が敢えて触れなかった話題に、上司は自ら踏み込んだ。
「そうなんですか」
漏れ聞こえてきた断片的な会話の内容は、知らなかったことにした。
「もう一人、女性の同期もいて。3人で、たまに飲みに行ったりしてました」

それは、余りにもありがちな展開だった。
女が一人の男を好きになり、もう一人の男が横恋慕をする。
告白を受けた福森さんは女を振り、結果同期の男は女を手に入れた。
最終的に二人は結婚したにも関わらず、それでも男は、その勝利を甘受してはいなかった。
「気に食わない男が、自分の妻をかつて受け入れなかったことに、納得できないんでしょうね」
身勝手すぎる独占欲。
或いは、自分は次点であるのかも知れないという恐怖心か。
どんな結末を迎えようとも、男たちの間の溝は、一生埋まることはないのだろう。


「何か、お前から聞いてた話と、随分違う感じだな」
福森課長が席を外した隙に、程々酒が入った根来は率直な感想を口にする。
「ああ・・・最近、ちょっと肩の力が抜けたってところじゃないか」
一度、改めて顔合わせの席を設けて欲しい。
上司にそう頼まれ、この夜、課長と元同期と三人での酒席を手配した。
遣う側、遣われる側、よく知る二人が腹の探り合いをする様を、傍観者気取りで眺めていたが
どうやら、向かいに座る男は幾分拍子抜けしたらしい。
「もっとしたたかな感じかと思ってたよ」
「頑なではあるけど、裏は無いな」
「なるほど・・・ま、後はもうちょっと単価を上げて貰えば、言うことないってとこか」

不意に間仕切りの向こうに目をやった男は、声のトーンを少し落として問いかける。
「で、例の話はどう考えてるんだ?」
彼と違う道を歩み出した時から示されている、一つの提案。
合併当初は、頻繁に思考の隙を突いて頭を過っていたが、最近では、めっきり考えることが無くなった。
「ウチの会社、リタイア近い人が多くてさ。後一人二人補強しようって話になってるんだよ」
「今は・・・あと少し、待てねぇかな。せめて、半期の結果が出るまで」
「ここ逃すと、難しいかも知んない。中堅どころに絞って募集するって言ってるし」
視線を上げた根来が、目を細めて彼方を見やる。
「・・・ま、早めに、どっちか選んでくれ」
「どっちって・・・何だよ」
瞬間、隣に人の気配が戻ってきた。
「大分混んできたみたいですし、そろそろ、いい時間ですかね」


大型施設と違い、住宅は薄利多売のサイクルで動く必要がある。
否が応にも抱える物件は増え、上司二人も査図や計算書の作成を担うことが多くなってきた。
「香椎、東電の内線規程借りていいか」
「それくらい、全部頭に入ってるんだと思ってましたけど」
「現場離れると、あっという間に消えていくんだよ。お前も20年したら分かる」
目尻に深い皺を寄せ、本を受け取りながら安住さんは苦笑する。
「ま、ここが正念場だからな」
目次を辿りながら、彼はそう呟いた。

半期決算には、各部署ごとに目標の利益率が掲げられている。
漏れ聞いたところによると、今の段階で目標がクリアできるかどうかのライン上にあると言う。
もちろん、各社員のボーナス査定、ひいては部署の営業方針をも左右する。
城南単独でやっていた頃は、その数値を下回ったことは無かったらしく
ここで数字を下げてしまえば、元の会社の矜持まで傷つけることになるだろう。
今は無くなってしまった会社とはいえ、ここまで育ててくれた恩がある。
それはきっと、仰け反る様に顔から本を離し、顔をしかめている副課長も、同じ思いのはずだ。

□ 89_螺旋 □
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螺旋(7/8)

仕事の波が落ち着き始めた初秋。
月に一度の部内全体ミーティングの場で、半期決算の見通しが伝えられた。
「各課とも、目標は達成。まぁ、合併して最初の決算にしては良い結果だろう」
いつも表情を崩さない部長の顔は、相変わらずの仏頂面だったものの
その声には、僅かばかりの安堵が覗いていた。

「後は、効率を上げていく方法を考えろと・・・三課が指摘されたのは、そんなところです」
部課長会議を終えた福森課長は、安住さんと俺にとりあえずの報告をしてくれる。
「事務所の選定だったり、デベロッパーの選別だったり、ですか」
「新規顧客の開拓もあるでしょうね。老健施設なんかは、ウチの会社自体で手薄ですし」
「老健は消防が複雑ですが、住宅より利益率は良いような気がします」
「近頃は、敷地内のマンションと老人ホーム一括で開発するデベロッパーもありますから」
混乱の中で何とか結果を出したという達成感が、課長の表情に覇気を与えているように見えた。
その姿に、ずっと心に抱えてきた迷いへの答が浮かんでくる。


現地調査に出かけ、とりあえず荷物だけでもと思い、会社へ立ち寄った夜のこと。
照明が落とされた廊下で、帰り際の上司と鉢合わせた。
「お疲れ様です。今、お帰りですか」
「ええ・・・ちょっと急いでるので、報告は、また明日」
数日前から余所余所しい雰囲気があったのは確かだった。
仕事の流れは順調だし、諍いがあった訳でもない。
「福森さん、最近、何か・・・」
「別に、何でもないですよ。気にしないで下さい」
俺から顔を背けたままで発せられた一言が、疲労も相まって苛立ちを生む。
去っていこうとする肩を掴み、傍の非常階段に無理矢理連れ込んだ。

壁を背に立つ彼は、やはり、俺と目を合わせることはない。
「あからさまに避けるの、止めて下さい。私が、何かしましたか?」
「何でもないって言ってるじゃないですか。そんなつもりありません」
「そんなはずないでしょう。不満があるなら・・・」
「違います。そうじゃない」
「じゃあ、何なんですか。はっきり言って下さい」
少し強くなった口調に、やっと上司の顔が上向く。
鋭い目つきの中に漂う切なさが、気持ちを少し萎縮させた。

『後、ホントかどうか知らねーけど、ゲイだって噂があるらしいぞ』
『マジで?それは幾らなんでも作り話だろ』
『女が嫌いだか、苦手だかって』
『それだけでそんな噂立てられちゃ、たまんねーな』
『もう、その辺で止めとけって・・・』

福森さんにまつわる種々の噂は、大半が良くないものだ。
「僕に関すること、いろいろ聞いているかと思います。殆どは、嘘っぱちですけど」
信憑性はどうあれ、当人の心を少しずつ傷つけているのは確かだろう。
「くだらない作り話なんか、気にすることないでしょう」
「確かに、ある程度のことは気にしないでいられるようになりました。・・・でも」

『あることないこと噂するの、もう止めてくれないか』
『あることないこと?ホントのことだろ?』
『オレ一人なら良い・・・でも、関係のない部下まで巻き込むなって言ってるんだ』

同じスタートラインに立っていたはずが、いつの間にか先を行く同期。
足を引っ張らずにいられない子供じみた嫉妬心に同情できない訳じゃない。
「僕は今まで、大切にしたいと思えるものがなかった。だから、何にでも盾突くことができた」
恐らく、あの時の男の態度を鑑みるに、貶める対象が俺にまで広がったのだろうと、思っていた。
「今は、大切なものが・・・それを、どうしても守りたいんです」
けれど、不意に歪んだ彼の表情に、その単純な考えが揺らぐ。
答を聞くべきかどうか、一瞬、躊躇った。
「・・・どういう、ことですか」

妄想と作り話の中に紛れた一つの真実に、彼と対峙することで、薄々気づき始めてはいた。
「彼女を傷つけまいと、カミングアウトしてしまったのが・・・間違っていたんです」
女からの告白を、彼は自らが同性愛者であることを理由に、受け入れなかった。
秘密にしておいて欲しい、その約束を彼女は守っていたのだろうが
時を経て、その夫が事実を悟り始める。
「何を言われても、否定し続けてきました。それなのに・・・」
尾ひれの付いた噂は、やがて、彼が上司として守るべき存在へと目標をシフトした。
「周りと上手く行き始めているのは、部下と、デキているからだと」
「馬鹿馬鹿しい。それこそ、鼻で笑ってやればいいじゃないですか」
「そうなんです、そうなんです。けど・・・」
「私のことを気にかけて下さっているのなら、結構ですよ。そんな話、気にもなりません」
わざと軽い口調で諭すも、上司は再び顔を伏せ、口をつぐむ。
「・・・僕が、耐えられないんです」
心情を吐露し、崩れるようにしゃがみ込んだ男は、頭を抱えて謝罪の言葉を繰り返す。
彼の大切なもの。
それが何だったのか理解した瞬間、矢庭に鼓動が早くなった。


静かな吐息が響くだけの無機質な空間に、どのくらい佇んでいただろう。
「・・・先に、帰って下さい」
震える訴えが、相変わらず蹲ったままの身体から聞こえてくる。
放っておける訳もなかった。
跪き、彼の肩に手を置くと、その身体が酷くビクつく。
「一緒に、帰りましょう。もう、大分、遅い」
赤の他人からぎこちない上下関係を経て、やっと理想の信頼関係を築くまでになった。
"どっち" を選ぶか、その問いの答も、自分の中では固まっていた。
だからこそ、首を横に振りながら上司が呟いた一言が、どうしても許せなかった。
「僕は、やっぱり・・・一人でいるべき人間なんです。信頼なんて、僕には必要ない」

□ 89_螺旋 □
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螺旋(8/8)

「・・・ふざけたこと言ってんじゃねぇよ」
男の胸ぐらを掴み上げ、頭を壁に押さえつける。
怯えた目が、真っ直ぐに刺さった。
「自分さえ良けりゃ、それで良いのか?」
「そういう、訳じゃ」
「信頼ってのは、互いが積み上げて作ってくもんだろ。あんたが梯子を外したら、俺はどうなる?」

折角追い出したはずの悲劇の主人公が、彼の瞳の中で揺れていた。
否定しなければ、部下が自分への負の感情を募らせる。
否定すれば、自分の想いが悲鳴を上げる。
結果、彼は俺から逃げることを選んだ。
恋慕だけを、抱えて。

「僕は・・・信頼を得られるような、そんな、人間じゃない」
「それを決めるのは、俺だ」
苦しげに顔を歪める上司から、自信と矜持が霧散していく。
こんなところで失いたくない、そんな純粋な独占欲が突き動かされたのは
俺がこの会社にいる意義を彼が握っているという認識が、確かにあったからだろう。
加えて、弾みで乗り越えようとしている垣根は、案外、低いようにも思えた。
「片想いの辛さは、よく分かってるんじゃないのか」
「・・・え?」
一方通行の想いは、ただの自己満足。
そんな惨めな感情に翻弄されたままでいるのには、耐えられなかった。
「あんたの想いは、俺が叶えてやる。だから、あんたは、俺の想いを受け止めるんだ」

襟元をネクタイごと掴み、頭を引き寄せた。
程なく唇が触れ合い、すぐに離れる。
唖然とした表情で視線を泳がせる上司の顔を、間近で見つめ続けた。
やがて眼差しが交錯し、頬の辺りの硬直が融けていく。
「・・・逃がさない。絶対、一人になんかしない」
彼は、俺が囁いた言葉で静かに目を伏せ、ゆっくりと頷いた。


「何なんだよ、急に」
帰途につく途中の駅で待ち合わせた男は、然程困った素振りも見せずに、そうぼやく。
「いや、さ。気持ちが変わんねー内に、言っておこうと思って」
表情に僅かな戸惑いを残した上司を見送った後、すぐに元同期へ連絡を取った。
引き伸ばし続けた答を、返しておきたかったからだ。

駅前の立ち飲み屋は、週の真ん中だというのに結構な繁盛具合で
店内に風が吹き込んでいるにもかかわらず、酷い熱気に包まれていた。
薄い焼酎で喉を潤し、煙草に火を点ける。
向かいに立つ根来は、もつ焼きを串から箸で引き抜き、皿に並べてから口に運んでいた。
「んで、何?」
「前に話してた、件なんだけど」
「ああ、ウチに来るって話?」
「そう、それ」
持っていた箸を置き、彼は一つ溜め息をつく。
「残るんだよな。今の事務所に」
咄嗟に言葉が出なかった俺の顔に、彼の視線が止まった。
「ま、そんなこったろうと思ってたよ」
「悪い・・・いろいろ、話しつけて貰ってたのに」
「すっげー残念だけど、お前が決めたことだし。しょうがねぇ」

この男は、仕事をする上でのパートナーとして申し分のない存在だと、今でも思っている。
付き合いが長い分、精神的な結びつきも強い。
途中で別れても、最終的に帰る場所は彼の元だと、いつまで待たせても許してくれるだろうと思ってきた。
どちらかを選べ。
急に目の前に突き付けられた選択肢は、優柔不断な俺に対する、試練だったのだろう。

「なーんか・・・ちょっと妬けるな」
「何が?」
「あの課長がいるから、だろ?」
「まぁ・・・そう。でも、新しい社員、募集してるんじゃないのか?俺よりも・・・」
「お前の代わりがいたら、嫉妬なんてしねぇの」
卑屈な笑い声をあげ、彼は再び手元に目を移す。
箸を手に取り、余りにも自然な手つきで俺の皿にバラバラになったレバーを載せた。
「いや、俺レバー嫌いなんだけど」
「オレも嫌い」
「じゃ、頼むなよ」
「良いじゃん、食ってみろよ。旨いかも知んないぞ」

今までと変わらず、ちゃんと仕事を寄越すように。
別れ際、根来はほろ酔いの口調で俺を諭した。
「オレ、諦めてねーんだ。いつかの為に、恩売っておかないとな」
彼を選ばなかったことに対して、もちろん後悔はあったし
何より決断の後ろめたさを何処かに引き摺っていた俺には、救いになる言葉だった。


年末の動きを見据え、新たな物件が増えてきた10月中旬。
安住さんが、11月いっぱいで早期退職をするという話が耳に入ってきた。
「オレも、そろそろ第二の人生を楽しもうと思ってな」
昼食を取りながら、上司と部下の前で、彼はそう笑う。
「でも・・・突然、ですね」
神妙な顔をする課長の呟きに、安住さんは何故か俺を見る。
「もう、良いだろ。お前に任せて」
「は?・・・えっと」
「馬鹿だな。そういう時は嘘でも良いから、心配ありませんっていうもんなんだよ」

隣に座る上司と、不意に目が合う。
渦を巻くような想いが巡るほどに、決意が固まるようだった。
彼を選んだことは間違っていないと、改めて自分に言い聞かせる。
「大丈夫です。後は、私が」
「そう、それで良い。ああ、代わりに褒美をやろう。内示が出るのは11月だろうが」
「・・・内示?」
「後は頼んだぞ。香椎、副課長」


部下の分まで夜食の使いを買って出た課長と二人、非常階段を上る。
年末進行で慌ただしさを増す空気は躯体壁一枚で遮られ
幾分荒い息だけが、静寂の空間に響いていた。
あの秋の夜から、こうやって階段を上り下りすることが習慣になっている。
やや使い勝手の悪い場所にあるからか、滅多に人は通らない。

先を行く彼が4階の踊り場に辿り着いた時、ふと、その手が差し伸べられる。
指を絡ませるように手を繋ぎ、段を上がり、身体を引き寄せた。
言葉もないまま、視線だけを交わして唇を寄せ合う。

「ありがとう。離さないでいてくれて」
握り締められる手に、力が篭る。
「まだまだ、これからだよ」
見上げると、無機質な螺旋状の階段が闇に伸びていた。
一段一段登って、辿り着いた先には、何があるのだろう。
「何処まで行けるのか、見届けるまで・・・離さないから」
その声に応える柔和な表情が、肩の荷を軽くしてくれる。
互いの大切なものを抱えながら、俺たちは再び階段を上り始めた。

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Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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