Blog TOP


黄昏(1/5)

賞味期限なんて、ただの数字の羅列。
法律に遵守しているという会社の体面を保つ為だけのもので、それ以上の意味は無い。
夏の暑い盛り。
寒い位に空調が聞いた工場の中で、3日前の日付が印刷されたシールを一包みずつ剥がす。
手元には、一週間後の日付が書かれたシールがシートで束になっていて
それをまた、同じ包みに一枚一枚貼っていく。

初めてこの作業を指示された時、多分、俺の顔には戸惑いが現れていたのだろう。
こんなこと、何処でもやっていることだ。
監督者の中年の男はそんな表情を浮かべ、微かな赤色の雰囲気を纏わせた。
面倒は避けたい。
その一心で、自分の感情を引っ込める。

半年ほど前から働いている食品工場。
地元では知らないものはいない特産品を製造するメーカーの中の一社で
商品の殆どは観光客のお土産用に作られている為、俺も含め、一般客が口にする機会は滅多に無い。
ここ数年、マスコミやネットを使ったマーケティングが功を奏したのか
業績が随分上がってきていると言う話は、社員食堂で漏れ聞いていた。
年季が入ってきた工場も、改修の計画が出ているらしい。
そうすれば、少しくらい時給も上がるだろうか。
さして美味くも無いカレーを口に運びながら、些細な希望で自分を慰めた。


地元の大学を出て、初めて就職したのは全国規模の引っ越し業者だった。
ルートセールスとしてエリアを回り、同業他社との駆け引きを繰り返す。
決して嫌いな仕事では無かったし、成績もそれほど悪くは無かった。
引っ越しシーズンに契約が増えるのは当たり前のこと。
それよりも、シーズンオフにトラックの予約表が埋まっていくことが、楽しくて仕方なかった。

順調だった生活に影が差し始めたのは、就職して5年経った、ある春先のことだった。
同居している母が病を患い、入院することになった。
年末辺りから体調が悪いと言いつつ、更年期の症状だろうと笑っていた彼女の病魔は
しかし、念の為と病院で検査した時、既に手の施しようのない状態になっていた。
地銀に勤める父と二人、交代で看病をしていたものの
それまで快活に過ごしていた母は、自らの寿命を悟ったからなのか
殻に閉じこもったように沈み込み、やがて軽い認知障害を併発してほぼ寝たきりの身体になった。

肉親が壊れていく様を直視できる人間が、何処にいるのだろう。
けれど、余命半年との宣告を受けた母を放っておく事は出来ない。
会社は引っ越しシーズンに突入し、午前様が続く中で、自分自身にも限界を感じ始めていた。
父も同様、決算時期で家に帰らないことが多くなっている。
両親の親戚は双方とも遠方に住んでいることから、そうそう手を頼むことも出来なかった。


何とか空けて貰った一日だけの休暇。
春の陽が差し込む病室のベッドには、小さくなった母が横たわっていた。
「母さん、前に食べたいって言ってたお菓子、買ってきたよ」
ベッドの脇に立ち、話しかけた俺に、彼女は薄い笑顔を浮かべる。
白ぼける姿が、不意に青く染まったように見えた。
「久しぶりね、ケンちゃん。なかなか来てくれないから、お母さん、凄く、寂しかった」
「・・・ごめん、仕事が忙しくて」
「お父さんも、仕事。ケンちゃんも、仕事。・・・お母さんには、何もない」
目の前の青が、何処からかやってきた赤色と混ざり、鈍い紫を成す。
疲れているのかと思い、目頭を強く抑えた。
「お母さん、邪魔者なのね。早く、死んじゃった方が、良いよね」

報いが欲しくて介護をしているんじゃ無い。
せめて穏やかに、残りの生涯を過ごして欲しい。
その一心で、俺も、父も、懸命にやってきた。
「そんなこと、言うなよ」
つい、きつくなった声に、母の表情が曇り、シンクロするように色が青みを強くしていく。
「父さんも、俺も、頑張ってるんだから。母さんも、頑張ろう」

結局、周りの努力の甲斐も無く、母は1ヶ月もしない内に天国へ旅立った。
言葉も無かった最期の姿は仄かに赤い光に包まれ、生命の灯が消えると共に、色味も失われた。
やっと、終わった。
心の何処かで安堵してしまったことを、否定は出来なかった。


故人を偲ぶ余裕も無いまま、嵐のような忙しさに翻弄された一週間。
自分の身体の変調を認められるようになったのは、やっと落ち着いてきた辺りだった。
どんなに晴れていても、日常の光景に灰色の霞がかかり
それは人の周りに、まるでオーラのように、時には色を以って纏わりついている。
眼科に行ってみても、特に異常はない。
霊的な何かを信じられるほど、心に余裕がある訳でも無い。
もちろん、会社でも、客先でも、その状況は変わらず
営業成績が落ちてきた俺を叱責する上司は、常に暗赤色を背負い
背水の陣で限界の金額を提示した時の客は、満面の笑みと共に黄色い靄を吐き出した。

自分に向けられる感情が見えている。
混乱の中で導き出した結論は、自分でも信じがたいものだった。
どうしてこんなことになったのか、考えるだけ無駄だと分かっていても
絶え間なくやってくる色の洪水に、段々と心が疲弊していく。
笑顔で悲しみ、無表情のまま苛立ちを募らせる人々。
そして、何かしらの鬱屈を抱えながら死んでいった、母。

「健一郎、お前、最近少し様子がおかしいぞ」
多忙の中、たまに顔を合わせた父は、そう声を掛けてきた。
「・・・別に、何ともないよ」
青みがかった灰色の気配を背負いながら、彼は神妙な顔を浮かべる。
「忙しい日が続いたからな。ちょっと、休んだらどうだ」
労いの言葉とは裏腹に、色味は失われ、程なく透き通っていく。
ああ、唯一の肉親であるこの人は、息子に対してさしたる関心は無いのか。
それから俺は、他人と目を合わせることが、怖くなった。

□ 85_黄昏 □
■ 1 ■   ■ 2 ■   ■ 3 ■   ■ 4 ■   ■ 5 ■
>>> 小説一覧 <<<

黄昏(2/5)

「引っ越しして、やり直したいと思って。人生、何もかも」
夕焼け空を背景に、そう呟いた青年の表情を今でも思い出すことがある。

入社して3年目の初夏。
やっと営業成績が伸びてきて、金銭的な駆け引きを覚え始めた時期だった。
客は俺が卒業した大学の3年生で、学部も同じだということもあり、双方の印象は悪くなかったと思う。
ただ、こんな中途半端な時期の引っ越しは珍しい。
しかも、彼が住んでいたのはファミリー向けの物件で、一人暮らしをするには幾分広く感じた。

一通り荷物をチェックし、概算見積もりを弾き出す。
大物はベッドと必要最低限の家電のみで、その他の荷物はかなり少なめ。
移動距離は隣の市まで、約20km程度。
荷造り・荷解きは本人が行う。
シーズンオフの平日と言うこともあって、単身プランの中でも大分安い金額にまとまった。

「・・・やっぱり、これくらい、かかりますよね」
とは言え、学生の身分では容易いものでは無かったのかも知れない。
表情を曇らせる彼に対して、幾ばくかの罪悪感が芽生えた。
提示する見積額には段階があり、初めは概算の2割増し程度で様子を見る。
それで渋られた場合は概算額を出し、更に値切られた時は会社に一報を入れ、限界額まで落とす。
「予算は、どれぐらいで考えてるの?」
「だいたい・・・」
青年の提示額は、俺が考えていた限界額よりもまだ少し低い程度。
「うーん・・・時間指定無しなら、ここまで落とせるかも知れないかな」
「いつ着くか、分からないってやつ?」
「今のところ混んでないから、あんまり非常識な時間にはならないはずだけどね」
「全然、大丈夫・・・それで、お願いできますか」

本来なら、ここまで引き止めるような客でも無い。
安くあげるつもりなら、レンタカーを借りて友達連中と数日かけて引っ越したって良いだろう。
「・・・良かった」
背後にある西側に面した窓から夕陽が差し込み、彼の明るい髪を更に輝かせる。
切なげに安堵の表情を浮かべる雰囲気をあしらえる程、場数を踏んできてはいない。
「後輩だから、特別だよ」
「ホントに?」
「冗談だけどね。卒業する時にでも、またウチを使ってくれれば」


その日は、丁度休日だった。
平凡な一日を過ごし、会社に連絡を入れたのは夕方前。
「中園です。お疲れです。・・・あのお任せ便って、どうなった?」
昨日時点でのスケジュールでは、午後には搬出、夕方過ぎには搬入まで完了する手はずだった。
ところが、前の客の荷物が想定以上に多く、用意したトラックでは積み切れないことが分かり
彼のところに行くはずだった車を回してしまったのだと言う。
「マジで?何やってんだよ。・・・で、何時くらいになりそうなの?」
もちろん、時間指定無しのプランは、そういったトラブルが起こることも想定しての値段設定になっている。
いつもなら、しょうがないの一言で済ませるようなことなのにと
ついムキになった自分の声で気付かされた。


西日を浴びたマンションの白い壁が、柔らかなオレンジ色を帯びている。
エントランスの植栽に腰を下ろした若い男が、顔を上げてこちらを窺った。
「部屋で待ってたら良いのに」
「・・・何か、落ち着かなくて」
「トラック、もう来るって?」
「さっき電話があって、後30分くらいで着くって言ってました」
時間は、もう4時を過ぎている。
このペースでは、搬入が完了するのはかなり遅くなるだろう。
「ちょっと、トラブったみたいで。悪いね」
「いえ。でも・・・営業さんも、引っ越し、やるんですか?」

彼の疑問はもっともで、本来、営業が引っ越し現場に出ることは無い。
規則で禁止されている訳では無いけれど、作業員がやりにくくなると言うこともあるのだろうし
現場の裁量は、殆どが経験則に基づくもの。
マニュアルに絡め取られた俺たちのやり方とは、相容れないところも多くある。
俺自身、こんな風に現場に顔を出したのは初めてだった。
「遅れてるって言うから、気になって」
たった一回相対しただけの青年のことを気にかけてしまうのには、きっと何か他に理由があるはずだ。
でも、すぐには答えが出ないだろう気配を読み取って、考えるのは止めた。
「人手が足りない様なら手伝うよ。これでも、研修で3ヶ月、現場に出てたからね」


傾きを増した太陽が、街並を橙に染める。
道の向こうに、背の高い車の影が見えた。
立ち上がった青年が、遠くを見据えたままポツリと呟く。
「引っ越しして、やり直したいと思って。人生、何もかも」
学生時代にありがちな、不遇に心酔する感情。
僅かに冷めた気持ちで言葉を聞き流したことを、振り向いた彼の顔を見て後悔した。
柑子色の光の中に映る表情は、余りにも哀しげで儚く
自分が従事している仕事の意味を、改めて思い知らされた。

俺はその夜、彼の為に時間を費やした。
同棲していた恋人が出て行ってしまったこと。
しばらく待ってみたものの、戻って来ることは遂に無く
その内、一人では家賃が払いきれなくなり、引っ越しをせざるを得なくなってしまったこと。
搬送中の待ち時間に入ったファミレスで、彼は、思い出を撫でながら語ってくれた。

転居先はシンプルなワンルームのアパートで
少ないと思っていた荷物も、搬入を終える頃には自由な空間の殆どを奪い去った。
それでも、今日からここで、彼は新しい人生を歩き始める。
玄関先で深々と頭を下げて見送ってくれる青年を背に、未だ出ない答でも探そうと考えていた。

□ 85_黄昏 □
■ 1 ■   ■ 2 ■   ■ 3 ■   ■ 4 ■   ■ 5 ■
>>> 小説一覧 <<<

黄昏(3/5)

天職だと思っていた仕事を辞め、自宅に引きこもっていた期間が半年を数えようとする頃。
体重は10kg以上も落ち、髪も髭も伸ばし放題のまま昼夜逆転の生活を送っていた俺に
痺れを切らした父が持ってきたのは、食品工場でのバイトの話だった。
「一日数時間でも、外に出てみるきっかけにしたらどうだ」
息子の変化の理由も分からず困惑している彼は、濃い藍色の背景に立っている。
久しぶりに目にする他人の色。
俺は、まだ、おかしいままだ。
「・・・考えておく」
それだけ答え、自室に戻った。

何か趣味がある訳でも無く、恋人がいる訳でも無い。
貯えもある程度あるし、父もまだしばらくは現役で働き続けるはずだ。
動かないから腹も減らず、ただ、空を見つめているだけの毎日で、何かを考えることも億劫になってくる。
こうやって、何十年も生きていくなんて、あまりにも時間の無駄だ。
俺も死ぬ時は、きっと後悔だけを背負っているんだろう。
紅い喘ぎを吐きながら、逝くんだろう。

ある日の深夜。
トイレに向かう途中のリビングで、ソファに座り、うな垂れる父の姿を見かける。
いつもなら床に就いている時間のはずだった。
俺の気配には気が付いていなかったらしく
彼は青く塗り潰された感情を洗い流すように、嗚咽を漏らしていた。
母の死に目でさえ涙を見せなかった父が、初めて晒した弱い姿は
心を狼狽と焦燥に巻き込み、結果、立ち上がるきっかけをくれたようにも思う。


人間扱いされない。まるで自分が機械の一部になった様。
一日誰とも喋らない職場。咄嗟の時に口から言葉が出てこなくて困る。
長時間のルーチンワークに耐えられる奴限定。

父から聞いた工場の評判をネットで調べると、とても優良な職場とは思えない言い分ばかりが目に付いた。
創造性の欠片も無いであろう作業に、全く魅力は感じなかったが
環境はむしろ、俺向きなのかも知れないとも自嘲する。
電話の受話器を持つ手が震え、惨めさに打ちひしがれても
この家をいつまでも群青の海の中に沈めておく訳にはいかないと、覚悟を決めた。


勤務先は、確かに、ほぼ噂通りの様相だった。
学生から年季の入ったご老体まで、様々な人間が、ひたすら商品を流れ作業で作り上げる現場。
皆が白い作業服と帽子とマスクを身に着け、一定の温度に保たれた室内で黙々と手を動かす。
担当する作業は、シフトに入っている人数によって毎日振り分けが行われ
2週間も経つ頃には、概ね全ての工程が頭に入った。

早朝自宅を出て、最寄駅までやって来る送迎バスに揺られ、半日工場で働き、夕方前には帰宅。
営業をしていた時には想像も出来なかったスケジュールをこなす日々は
それでも、少しずつ人生を営んでいる実感を植え付けてくれるようだった。
けれど、周りの人間は誰一人色を発する事無く、無色透明の世界。
俺が誰にも関心を寄せないように、彼らもまた、俺に関心を向けることは無い。
目も眩むような彩に溢れた過去と、砂を噛むような虚しい現在。
どっちがマシか、なんて考えは、きっと無駄なことなんだろう。

学生の長期休みが終わると、工場内は俄かに閑散とした雰囲気になった。
一人一人の作業量が増え、残業を求められる日も多くなる。
家に帰ったところで、何をすることもない。
俺みたいな存在は、工場にとって格好のコマだ。
朝日に照らされる建屋に入り、出るのはすっかり夜が更けてから。
中途半端な身体の疲れが、心に充足感を与えてくれることは無かった。


夜6時半のチャイムが工場に響く。
「晩飯食ってきて良いよ」
制服のボタンを留めながら持ち場についた夜勤担当の監督者が、そう声を掛けてきた。
「この分が終わったら、行ってきます」
手元に積まれた包みは、後10個ほど。
幾分派手な薄紙で包み、赤い紐を巻き、ラベルを貼るという工程は、一包み辺り30秒といったところか。
「キリが良いところで。任せるから」
彼は既に飯を済ませてきたのだろう。
その肩には、満足げな黄色い光が漂っていた。

工場に隣接するように、本社の建屋がある。
事務方の社員が工場に入ることは滅多に無いので、その姿を目にすることも無いが
夜になると、あちらの社員食堂は閉まってしまうらしく
この時間の食堂には、ワイシャツ姿の社員がちらほらと見受けられた。

食券の自販機の前で迷うのが面倒な時は、いつもカレーを頼む。
愛想が良いとは言えないおばちゃんから皿を受け取り、窓際のカウンター席に着く。
ブラインドが上げられた窓の外の闇に白い月が浮かんでいた。
俺はいつまでこのままなんだろう。
別にこのまま流されたって、誰が困る訳じゃない。
常に頭の中を巡る自問自答。
黒白の世界が、少しだけ、そんな心を落ち着かせてくれる。

視界の隅に、一瞬、明るい色が見えた。
ガラスに映る背後の世界に意識を戻した時、その色は、確かな記憶として蘇る。
あれから、どのくらいの月日が過ぎただろう。
こんな所で、こんな形で再会するなんて、思ってもいなかった。

□ 85_黄昏 □
■ 1 ■   ■ 2 ■   ■ 3 ■   ■ 4 ■   ■ 5 ■
>>> 小説一覧 <<<

黄昏(4/5)

「また・・・会えるかな」
新居への荷物搬入も終わり、作業員も帰った後
労いの缶コーヒーを手渡してくれた彼は、狭い室内を見渡しながら呟いた。
「彼女に?」
「いや・・・ええ、まあ」
「気持ちは分かるけど・・・折角やり直すって決めたんなら、新しい恋でも探した方が良いんじゃない?」
大した恋愛の経験も無い俺には、そんな一般論しか口に出来なかった。
「なかなか、簡単には」
「まぁ、そうだけど。簡単に手に入らないからこそ、長続きするんだと思うよ」
けれど、何気なく言ったそんな一言に、彼は何かに想いを巡らせるよう目を伏せる。

暫しの沈黙の後、青年は再び視線を俺に向けた。
「今度、引っ越す時も・・・お願いして良いですか?」
「引っ越したばっかりなのに、そんな」
「あ・・・それも、そうですね・・・」
笑ってやり過ごそうとさせてはくれない複雑な表情に、次の一言が出てこない。
彼もまた、必死で言葉を探すかのように、唇を揺らしている。

新居へ引っ越したというのに、目の前の男からは高揚感も安堵感も感じられなかった。
逃げても逃げても逃げ切れない程の、強迫観念でもあるのだろうか。
恋人との別れによる喪失感から来ているのかも知れない。
「良いよ。当分、今の会社にいるだろうから。その時は、名刺の番号に電話して」
俺が埋められる穴じゃない。
それでも彼は、俺の声で、やっと顔を緩めてくれた。


彼に、良い人だと思われたい。
それが、あの時出した答えだった。
遠い未来の恩返しを期待するでも無く、金銭的な見返りを求める訳でも無い。
建前と額面だけに埋もれていく毎日が、息苦しかったのかも知れない。
偽善だと分かっていても、もう二度と会うことの無い存在であれば、罪悪感も小さくて済む。
ちっぽけな自尊心をくすぐって愉しむ為にやったことなのだと、結論付けていた。


2、3人の社員らしき男と歩く彼は、服装の他は当時とそれほど変わっておらず
短く揃えられた黒い髪と、幾許か疲れを見せる顔が、社会人の雰囲気を醸し出していた。
「垣内、今度引っ越すんだって?」
「ええ。道路の拡張工事で、アパートごと立ち退けって・・・」
「良いじゃん。金も幾らか出るんだろ?」
「それはそうなんですけど、学生の頃から住んでるんで、愛着もあるんですよね」
夕食の載ったトレイを手にした彼らは、そんな雑談を交わしながら通り過ぎていく。
まだ、あそこに住んでいたのか。
一瞬の懐かしさを仕舞いこみ、食事もそこそこに席を立った。

こんな姿を見られるのは、耐えられない。
境遇を同情されるなんて、まっぴらだ。
もとより、彼は俺のことを覚えているだろうか。
日々出会う数多の人間の中の、たった一人の存在で足りうる要素がある訳でも無いのに。
俺は、こんなにも鮮やかに、思い出しているのに。

持ち場に戻ってからも、食堂での予期せぬ遭遇が頭の中を巡っていた。
ここに来たから、再会できた。
ここにいるから、声はかけられない。
機械の様に単一的な動作を繰り返しながら、憐れで惨めな自分を慰める方法を必死に探す。

「中園君!聞こえてる?!」
しゃがれた男の声で我に返る。
「あ・・・え?」
「冷蔵倉庫から商品取ってきてって、言ってるでしょ?」
「すみません、すぐ・・・」
少し離れた場所から軽蔑の眼差しを送ってくる姿は、白い作業服が染まるほどの赤い空気を纏っている。
「バイトだからって、手抜いて良い訳じゃ無いんだよ?」
「はい・・・分かってます」
「ただでさえ人、足りないんだからさ。気合い入れてやって!」
些細な鬱憤を晴らそうとしているだけなのだろう。
必要以上の大声が、夜の工場に、機械の音と混ざり合いながら響いた。


夜勤組が乗り込んだ帰りのバスは、疲れた沈黙に満ちている。
工業団地を抜け、造成中の敷地と田畑が混在する地域に入ると、車窓は急に闇深くなった。
ガラスに映る冴えない自分の顔を視界に収めていた時、ふと、あることを思い出す。
窓の中の、数年越しの彼の姿。
それは、今まで見たことの無い、まるで夕映えのような色に包まれていた。

真っ赤な光を纏いながら、怒りに任せて絶叫する上司。
青い背景の中に溶け込んでしまうよう、子供の行く末を嘆く父。
たまたま受け取っただけで、礼を言いながら黄色く瞬くチラシ配りの女の子。

感情による色の違いは、ある程度把握できていると思っていたけれど
彼が纏う彩の意味が分からない。
そもそも、彼と対峙もしていないのに、何故色が見えたのか。
気が付いていない振りをされていたのかも知れない。

バイパスを越えると、車窓は徐々に賑やかになってきた。
俄かに物音でざわつき始め、終点が近いことを教えてくれる。
真実を知ったところで、何も変わらない。
空っぽの心の片隅に思いを放り投げ、コートのボタンをかけた。


晩飯を自販機で売っている菓子パンとコーヒーで済ませるようになってから数日後。
帰りのバスに乗り、座席に着くと、窓の向こうに一台の車が停まっていた。
暗がりの中で携帯を手にした男の周りは蒼く沈み、何処か寂しそうな顔が窺える。

騒々しいエンジンの音が車内に響き、ブザーと共にバスの扉が閉まる。
不意に顔を上げた青年と、目が合った。
驚きの表情、その背景が渦を描くように変色していく有様が目に焼き付く。
視線を逸らす間もなく、バスは彼の傍を離れ
シートにもたれながら、もう逃げられないのだろうと、失望の溜め息をついた。

□ 85_黄昏 □
■ 1 ■   ■ 2 ■   ■ 3 ■   ■ 4 ■   ■ 5 ■
>>> 小説一覧 <<<

黄昏(5/5)

「・・・あの」
予想通り、翌晩、彼は工場の通用口で俺に声を掛けてきた。
「中園さん・・・ですよね」
おどおどした口調が、緊張感を滲ませる。
俺は、彼の記憶の中で、良い人のままでいたかった。
誤魔化す方法は幾らでもあったはずだった。
「僕のこと、覚えてますか?」
それなのに、彼の全身を包み込む憂いの青に、思考が眩まされていく。

「・・・久しぶり」
絞り出した一言を遮るよう、少し離れたロータリーからバスのエンジン音が聞こえた。
無意識のうちに身体が反応し、追いかけるように思考が我に返る。
「ごめん、バスが出るから」
「送ります、僕が」
咄嗟に掴まれた右腕を振り払う。
「いいよ、大丈夫。ありがとう」
目を逸らし、背中を向けても尚、彼は俺の腕に縋ってくる。
「少しだけ、話を・・・」
「話すことなんか、無いから」
「お願いします、本当に、少しだけ・・・」

玄関から出てきた数人の従業員が、バスへ向かって走っていく。
出発時間が迫っているのだろう。
「もう、あの時の俺じゃないし。君の役には、立てない」
会えて嬉しかった。
でも。
皮肉なめぐり逢いを断ち切ろうとするよりも早く、力任せに引っ張られた身体が傾く。
肩同士がぶつかり、よろけた二人の身体が壁にもたれかかる。
「会いたかったんです・・・ずっと、ずっと探してた」
耳元で囁かれた言葉が鼓膜を揺らすと共に、夜の闇にバスのブザーが響いた。


不夜城を前に停まる車の中で、彼は未だに蒼然とした雰囲気を抱えている。
「なかなかいらっしゃらなくて・・・だから、あの時は諦めました」
一度目の引っ越しの機会は、去年大学を卒業する時だったと言う。
丁度、母が入院し、俺が思うように仕事に集中できなかった時期だ。
「別に、俺がいなくても、他の営業がちゃんと・・・」
その意図が掴めずに困惑気味の声を上げる俺に、彼は小さく首を振る。
「僕には・・・これしかチャンスが無かったから」
「チャンス・・・?」
「中園さんに、もう一度、逢うチャンス」
俺と彼を介在するものは、たった一つの行為だけ。
そして、二度目の機会がやってきた時、事実を聞かされた彼は深い絶望に苛まれる。
「会社を辞められたと聞いて・・・僕には、もう、チャンスは残されていないんだと」

何故、彼は、そこまで俺に執着するのか。
ただ、引っ越しの営業担当になって、イレギュラーな形で手伝っただけなのに。
「優しさが、嬉しかったんです。あの時の僕は、優しさに、飢えていて」
それとなく出した問への答、装った偽善に対する罪悪感を蘇らせる。
「そんな時、恋人に裏切られた傷を、癒してくれたから」

初めて自分のことを好きだと言ってくれた人。
彼にとっては、そのことが相手への想いの中枢だった。
不自然な金の無心にも疑いを持つことは無く、必要最低限の単位だけを取り、バイトに明け暮れる大学生活。
やがて、一人部屋に残されても、信じる気持ちを拭い去れなかった。
「あの言葉は嘘だったのかも知れないと思えるまで、随分時間がかかりました」
溜め息交じりに話す表情に、きっと未だ、何処かで嘘を信じているのだろうと思わされた。
「他人の感情が見えたら、どんなに良いんだろうって・・・思っちゃいますよね」
微かな青い笑みを口元に浮かべ、彼はそう呟く。


「良いことなんか、一つも無い。そんなの、見えない方が良いに決まってる」
思いも寄らない大きな声が、彼の視線を怯ませた。
「本音を曝し合って付き合えるほど、人間は強く出来てない」
心の叫びだったのかも知れない。
深くなる紺青に、夕映えの色が遠くなる。
彼との関係を失い、自分の立ち位置さえも見失い、この瞬間に求めた物は、皮肉にも夢現の色だった。
「・・・見えるんだ、俺。頭おかしいと、思うかも知れないけど」
「見える?」
「他人が、どんな感情でいるのか・・・色が、見える」

混乱を素直に顔に出した青年は、視線を至る所に漂わせ、やがて俺を見て目を細める。
「僕は・・・どんな色に、見えてますか?」
「・・・悲しい、色をしてる」
「あの頃から、見えてた?」
「いや・・・母さんが、死んでから」
触れてはいけない空気に曝されてしまったよう、彼は瞬きをして、軽く息を吐く。
彼の背中に、一筋の雲の切れ間が見えた。
「・・・中園さんは、いつでも、夕焼けの色をしてます」
「え?」
「夕陽の中に、いつもいたから。そのイメージが、強いんですかね」
街灯の光が射しこむ薄暗い車内に、眩しいほどの光が広がってくる。
「その姿を・・・僕は、いつも思い返してた」
柔らかな笑顔を向けられると同時に、求めていた色で、視界が染まった。


季節が冬に足をかけ始める頃。
あの頃から随分数を増した荷物を全て搬入し終わったのは、奇しくも夕刻に差し掛かる時間だった。
1SLDKの間取りは、前のワンルームよりもかなり余裕のある空間になっており
やや西に傾いた南側の窓からは、柔らかな橙色の光が射しこんできている。
「ありがとうございます。休みまで取って貰って」
「別に。引っ越し手伝うって約束がやっと守れて、ホッとしてる」
俺を見てはにかむ姿に、昔、彼が口にした言葉を思い出した。
「また・・・人生やり直す?これを機に」

不意に彼の手が、俺の右手を掴む。
狼狽える俺とは対照的な、真っ直ぐな眼だった。
「一緒に、やり直しませんか」
黄昏ていく空に、わだかまりが融ける。
力を抜いて、彼の指を受け入れた。
絡まる肌の感触が、身体中に想いを浸み込ませていくようだった。
「・・・ああ、良いよ」

彼の色がどんな感情を示していたのか。
真実を知ったのは、彼と共に過ごした大晦日の夜だった。
その時の俺にとって、受け入れられない想いでは、無かった。

しばらくして、俺の視界に映える魔法の色が徐々に薄くなり始める。
一週間ほどで、世界は無色透明に戻った。
赤い色に脅えることも、青い色に遣り切れなくなることも無くなったけれど
彼だけは、いつでも同じ夕映えの中に立っている。

□ 85_黄昏 □
■ 1 ■   ■ 2 ■   ■ 3 ■   ■ 4 ■   ■ 5 ■
>>> 小説一覧 <<<
Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

*** Link Free ***



>> 避難所@livedoor
Novels List
※★が付く小説はR18となります。

>>更新履歴・小説一覧<<

New Entries
Ranking / Link
FC2 Blog Ranking

にほんブログ村[BL・GL・TL]

駄文同盟

Open Sesame![R18]

B-LOVERs★LINK

SindBad Bookmarks[R18]

GAY ART NAVIGATION[R18]

[Special Thanks]

使える写真ギャラリーSothei

仙臺写眞館

Comments
Search
QR Code
QR