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形影(1/4)

木々の緑が、澄み切った青い空になだらかな稜線を描く。
真夏とは思えない涼やかな風が吹く草原に、影が映える。
一瞬吹いた突風で地表の草花が棚引く先に、確かに、彼は立っていた。


「浦本さん、まだやるんですか?」
終電まであと一時間となった社内には、資料を広げたままパソコンに向かう先輩の姿があった。
「ん、もうちょっと」
俺に視線を向ける彼の表情は、明らかに疲れ切っている。
「あんまり、無理しないで下さいよ」
「大丈夫」
多分、この憂慮は余り伝わっていないんだろう。
いつものように口角を上げるだけの笑みで、それでも彼は、後輩を労ってくれる。
「園部も、明日遅刻するなよ?お疲れ」

この事務所に転職してから4年弱。
服飾の専門学校を出て就職したアパレル用品の卸の営業は2年と持たなかった。
興味だけで突き進める意欲が足りなかったのかも知れない。
作り笑いも、感情を押し殺すことも上手くなったけれど、残ったのはそれだけだった。

CADが出来る人、そんな触れ込みだけで入ったこの会社は、小さな設計事務所。
半年ほどは図面の読み方やCAD図面の書き方などを覚えるのに必死な日々。
それを超えると、仕事の運び方も段々分かってきて、身体も楽になったような気がする。

ただ、周りが見えてくるようになると、別の気苦労が目に入ってくるようになった。
社長以下ヒラ、という組織の中、設計部隊はほぼ一匹狼で仕事をこなす為
設計担当の先輩方は、ほぼ毎日残業の憂き目にあっている。
小さな会社だから仕方が無いと言えばそれまでだけれども
特に中堅どころの浦本さんは、あまりの仕事量に埋もれてしまうんじゃないかと心配になってしまう。
何か少しでも力になれれば、そう思う気持ちが大きくなるほどに、努力する気概が生まれる。
皮肉だけれど、これが、この会社のやり方なのかも知れないと、何処か煮え切らない部分を抱えていた。


ペーペーだった頃から随分経って、俺の仕事内容も補助から実務へと変わってきている。
打合せにも同行するようになり、資格の勉強も始めている。
何の興味も無かった部分に嵌まり込んだのは、素養があったからなんだろう。
楽しいばかりでは無いにせよ、向いている仕事なのかも知れないと思うようにはなってきた。
「早く一人前になってくれよ。そうすれば、オレが楽出来るからさ」
まさに、ニヤリ、と言う笑顔を浮かべる先輩の言葉も、力強く背中を押してくれる。

決して面倒見の良い先輩では無い。
ぶっきらぼうな説明にイライラすることも少なくはなかったけれど
時折かけられる親身な言葉が、一人で悩むことを許さない。
「まだ残ってんの?しょうがねぇな。半分くれ、オレがやるから」
どんなに大変な時でも、彼はそう笑いながら、一緒に苦労を被ってくれた。

この会社の年齢層は、かなり高い方だ。
設計担当では、30代に入ったばかりの彼が一番の若手で、その上はもう40歳半ばの人間になる。
恐らく、入社当時、歳の近い社員はいなかったはずだ。
誰かに頼りたい、そんな時、彼は何を拠り所に踏ん張って来たのか。
人知れず厳しい時間を経てきたからこそ、的確な心配りが出来るのだろうと思う。


「から揚げ弁当で良いんですよね?」
残業中の唯一の楽しみである晩飯。
会社の近くの弁当屋で買って来た弁当を、先輩の机に置く。
「おう、ありがとう」
疲れた笑顔で金を渡して来る先輩の背後には、高原の風景。
「それって、何処の写真なんですか?」
プロが撮った写真じゃない、旅行写真の様な素人っぽさの残る写真が表示された画面を
時折、目を細めて眺める浦本さんの姿が印象に残っていた。
「ん?ああ、田舎の写真なんだよ」
「浦本さんの?」
「そ。今年の夏に帰った時、撮ったやつ」

さほど社交的では無く、プライベートな話もそれほどしない彼の唯一の身の上話は、田舎自慢。
日光にある彼の実家は、山々に抱かれた長閑な場所にあると言う。
夏は涼しく、冬は厳しい寒さだと彼は笑うが、そんな四季のリズムが身体に沁みこんでいるから
熱帯の様な東京の気候の方がキツイと零すことも少なくない。
「仕事さえありゃあな、すぐにでも帰りたいけど」
悪戯っぽい表情で呟く言葉は、きっと心からの本音なんだろう。
青い空と、深緑の山並と、浅緑の芝が広がるデスクトップを見やりながら、そんなことを考える。

「年末、帰省は?」
「この調子じゃ、どうかな」
弁当を食べ終わった浦本さんは、寂しげな顔で立ち上がる。
その拍子に、小さな鈴の音が聞こえた。
友達から貰ったと言う地元の土産物の携帯ストラップが、スーツの胸ポケットで揺れている。
「何か、手伝えることがあったら言って下さい」
「そうだな・・・何か、探してみるよ」
後輩に負担をかけないように、口調と表情にはそんな心情が見え隠れする。
もっと頼って下さいと言える程の自信が付いていないことも、悩ましい。
互いに思いやることが、却って閉塞的な状況を生む。
彼の後姿を見ながら、悔しさが込み上げた。

□ 63_形影 □
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形影(2/4)

風の匂いが、明らかな冬の気配を運んでくる。
テナントビルの屋外階段に置かれた灰皿の前で、先輩と二人、煙を吐き出す。
雑多に並ぶ建物が歪な夜景を作り出し、露骨な色のネオンが鄙びた雰囲気を強調していた。

私鉄の高架を挟んだ向こう側に見えるラブホテルには、忍ぶ様に出て来る一組の男女。
残業中の哀れな男たちの視界に収まっていることなど、当然知るはずも無い。
興奮冷めやらないのか、寒風の中、外灯の下の影が一つになる。
顔がはっきり見える位置ではないにせよ、何をしているのかは一目瞭然だった。

「ああいうの、もうすっかりご無沙汰だな」
吐き捨てるように言った彼の声が耳に届いた。
「彼女とか、いないんですか?」
「学生の時は、ちょっとだけ付き合った女がいたけど・・・下手すると、それっきり」
他人のことは言えない。
と言うか、俺は彼よりも、ある意味深刻だ。
「園部はどうなんだよ?」
「俺もまぁ・・・一緒ですけど」


あれは中学2年生の秋。
転勤族の父に引き摺られるよう、全国を転々としていた頃だった。
教室に置いてあった荷物を背負い、向かった先は美術室の隣にある部室。
油絵具とリンシードオイルの匂いが微かに漂う部屋の隅に、描きかけの風景画が立てられている。
持って行けないからと処分をお願いしたはずだったのに、そう思っていると後ろから声を掛けられた。
「今日で、最後なんだっけ?」
振り向いた先にいたのは、部長である狭山さんだった。
小柄で穏やかな笑顔を浮かべた彼は、自分の絵の前を通り過ぎ、俺のキャンバスの前に立つ。
「あの、それ・・・」
「これさ、貰って良いかな?」
「え?」
色が乗せられていない部分を撫でながら、何処か愛おしそうな視線を滑らせた。
「君の絵、結構好きなんだよね。だから、記念に」
「別に・・・構わないですけど」
「そう、良かった」

面倒見の良い先輩だった。
興味本位で入部した俺に、画材の使い方やデッサンのコツなどを丁寧に教えてくれ
絵を描くことへの意欲を引き出してくれた人だった。
誰かに憧れると言う気持ちを持ったのも、彼が初めてだったかも知れない。
兄の様な、先生の様な、単なる先輩として以上の存在だと思っていた。

部内で転校の話を出した時、皆が一様に寂しげな顔をしてくれた中
彼は僅かに目を細めただけで、あまり感情を表には出さなかった。
それが残念で、切なかったことを覚えている。
「・・・寂しくなるな」
だからこそ、俺に背を向けたままで呟いた一言が、心に響く。
言葉に迷いあぐねる時間が、ゆっくりと流れていった。

惑う視界にいる彼は、不意に振り向き、儚げな笑みを浮かべながら近づいて来る。
その手が俺の頬に触れ、震える体温に心が揺らぐ中、彼の唇がそっと俺の唇に重ねられた。
初めてのキスだった。
酷く柔らかな感触はあっという間に消え、彼の吐息が前髪を掠める。
「元気でね」
棒立ちになったままで混乱する俺の頭を宥めるように数回撫で、彼は部屋を出て行った。
「・・・さようなら」
主の変わった絵を見やりながら発した独り言が、空間に沁みた。


気が付いていなかっただけなのか、目を背けていただけなのか。
あれから10年以上経つと言うのに、俺は未だに彼の面影を思い出してはざわめく心を鎮めている。
異性に気が向かない訳じゃ無いし、同性なら誰でも良い訳じゃ無い。
繊細で衝撃的な初恋に、捕らえられてしまっているんだろう。
そして、目の前に立つ、今にも壊れてしまいそうな男が、彼に似ていると気が付いてから
俺は必死で、その感情を抑え込む毎日を過ごしてきた。

「なぁ」
「何ですか?」
吸殻を灰皿に放り込み、溜め息をついた彼は、振り向きざまに言った。
「キスしてくれよ」
「なっ・・・」
冗談に決まっているのに、そう思いたくない惨めな願望が顔を出す。
同時に巡ったのは、狼狽えちゃいけない、そんな自制心だった。
「何、言ってるんですか」
先輩の悪ふざけをかわす後輩を演じることは、出来たと思う。
一瞬目を閉じて薄く笑った彼が、俺の脇を通り、階段を上って行く。
「流石に、そこまで飢えちゃいないけどさ」
「勘弁して下さいよ」
「悪いな、こんな冗談でも言ってないと、やってられないんだよ」

その後ろ姿は、あまりにも弱弱しく見えた。
彼の身体で揺れる鈴の音が、夜の階段に響いていく。
あんな小さな物でさえ、彼の気持ちを鎮めているのかも知れないのに、俺には何も出来ない。

□ 63_形影 □
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形影(3/4)

「もう、いいや。後、オレやるから」
浮足立った世間に居心地の悪さを感じる冬の夜のこと。
計算書の作成を手伝っていた俺に、浦本さんはそう言った。
慣れない作業で、進みが遅かったのは確かだったものの、提出まではまだ時間があると聞いていた。
彼の口調は明らかに苛立っていて、足手まといを追い払うような、そんな態度だった。
腑に落ちないけれど、反論しても仕方が無い。
どんなに彼の助けになりたくても、本人がいらないというのなら、意味が無い。
「・・・分かりました」
「今日は帰って良いよ。明日、別のこと頼む」

あんな言われ方をしたのは、初めてだった。
ただ、ここ数日、不機嫌な態度は顕著で、彼はそれを隠そうともしていなかった。
気持ちに余裕が無くなっているのだろう。
そう分かっていても、どうすれば落ち着いてくれるのかが分からない。
「お疲れ様でした」
パソコンに向かう彼の背中に向かって挨拶をし、自席を離れる。
気の利く言葉すら、何も思いつかなかった。


会社のビルの入り口付近には、朝の出勤時間帯、時折猫が集っている。
何処かの猫好きが餌でも撒いているのかも知れない。
近づくとすぐに散ってしまうから、マジマジと眺めたことは無いけれど
その光景に、気分が癒されるようだった。

前日の先輩の言葉を引き摺りながら出社した俺の視界に、今日も猫溜まりが入ってくる。
いつもと違うのは、その真ん中に人の姿があったことだった。
近づくと、やっぱり猫たちは逃げて行く。
俺の気配に気が付くのが遅かった一匹の猫が、目の前に立つ男の足の陰に隠れ、つぶらな瞳で威嚇する。
「猫、好きなんですか?」
「別に、そういう訳じゃないんだけどな」
足元の猫に優しい眼差しを送りながら、先輩はそう笑った。
「俺が近づくと、いつも逃げられるんですけど」
「食われるとでも思うんじゃないか?」
「そんなこと、思ってませんよ」

逃げ遅れた猫が、フイと狭い隙間へ滑り込んでいく。
その影を追いかけた穏やかな表情に、懐かしさすら感じる。
「犬と猫、どっちが好きです?」
「・・・お前、結構つまんないこと聞いてくんのね」
「普通の質問ですよ」
俺の言葉を鼻であしらった彼は、玄関に向かって歩き出しながら答える。
「そうだなぁ・・・どっちも嫌いじゃないけど」
「浦本さんだって、つまんない答じゃないですか」
「普通の答だろ?」

狭いエレベーターに乗り込み、会社があるフロアのボタンを押す。
「でも、お前はどっちかって言うと、犬っぽいよな」
「それって・・・褒め言葉じゃ、無いですよね」
「まぁな」
からかうような口調でそういう彼の視線が、俺を捕え、すぐに外れた。
「昨日は悪かった。ちょっと、イラついてた」
「・・・いえ」
「折角手伝って貰ってたのに・・・ホントは、凄く、助かってるから」
「・・・はい」
「代わりと言っちゃなんだけど、今日はガッツリ頼むから、覚悟しておいてくれ」
エレベーターが目指すフロアに到着する。
口角を上げた悪戯っぽい笑顔を向けて降りる彼に、分かりました、と声をかけた。
憂鬱なはずの残業が、楽しみにすら思えてくる。
彼の役に立てる、必要とされることを心から嬉しく感じていた。


「冗談じゃないですよ!間に合う訳ないでしょう?」
怒りを抑えきれない声が社内に拡がる。
「最終の要望書は一週間も前に締め切ってるじゃないですか。現場対応で何とかして下さいよ」
どうやら、来週提出予定の図面に関する設計変更の連絡のようだった。
「統括してんのは、そっちだろ?!」
ヒートアップする一方の先輩を宥めるように、上司が対応を代わる。
張りつめた雰囲気に強張る俺に、彼が声をかけてきた。
「その計算、ちょっと待って。床面積変わるっつーから」

凝った意匠が目を引くマンションの新築工事。
何かと我儘な施主に、自らの信念を通そうとする建築家の先生のコンビは最凶だった。
事あるごとにやってくる設計変更に、流石に業を煮やしたのか
浦本さんは、要望書の提出がなければ変更には対応しないと、打合せの席で無理矢理了解を取った。
にも拘らず、イレギュラーでやってくる要望の数々。
今の今までキレなかったのが、不思議なくらいだった。

溜め息交じりで電話を切った上司が、浦本さんを呼ぶ。
「金額上げるから、何とか対応してくれだとさ」
「何とかって・・・もう、来週出しなんですよ?」
「あと5日あるだろ?」
「ああ・・・土日も入れて、5日ってことですよね?」
冷静を装えない程の憤りを感じているのか、その声は僅かに震えているように聞こえた。
「これも勉強だ。もう少しの辛抱だから」
「・・・そうですか」

年末を控え、社内は確かに煩雑な状況を迎えている。
中でも彼の仕事量は突出していた。
頼りになる中堅どころとして、会社からの信頼の厚さだとポジティブに受け取ることも出来るのだろうが
彼が欲しかったのは、きっと、助けの手だったのだろうと思う。
諦めを帯びた目が、望郷を映すディスプレイを見つめている。
この時、糸は、切れてしまったのかも知れない。

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形影(4/4)

「悪いな、休みなのに」
クリスマスを明日に控えた日曜日。
恐らく、ここ数日はほぼ徹夜だったであろう浦本さんの手伝いに赴いた。
「・・・大丈夫です?」
「ん、ああ。あとちょっとだからな」
そう言って背伸びをする彼の机には、若干の違和感が残る。
「片づけでもしたんですか?大掃除にはまだ早いですよ」
妙にサッパリした机回り。
お世辞にも綺麗好きとは言えない先輩は、笑いながら言った。
「気晴らしだよ。夜中に煮詰まったから、掃除でもするかって」
物件ごとに整理されたプラスチック製の資料ボックスが、改めて彼の重荷を示していた。


土曜日に私用で来られなかった分、今日はいつまでも付き合う心づもりでいたから
時計が日を跨ぐ頃になっても、大した焦燥感は無かった。
やっと終わりが見え始め、幾分気も緩み始める。
「何か、買って来ましょうか」
俺が作った計算書のチェックをする先輩に、そう声をかけた。
「お前、終電は?」
「もうそろそろですけど、今日は良いですよ。そのつもりで来たんで」
疲れた顔を緩め、一息ついた彼は、矢庭に立ち上がる。
「オレも行くわ。座りっぱなしで、ケツ痛ぇし」

「らっしゃいませ」
コンビニの制服にサンタ帽を被った若い男は
まるで自分だけが不幸を背負ったかのような顔でレジに立っている。
オフィスビルと飲み屋が隣り合い、背後に風俗店が潜んでいるこの街では、夜中の客はそう多くない。
店内のディスプレイだけが一人はしゃぐ状況に、辟易しているのだろう。
パンや飲み物をレジに持っていく俺たちだって、彼と大して変わらない位置にいる。
少しだけ同情を感じながら、同士から釣りを受け取った。

エレベーターから降りた浦本さんは、そのまま屋外階段へ歩いて行く。
先輩がドアを開けると同時に、冬の風が全身を冷やす。
眼下に派手な色彩を見下ろしながら、煙草に火を点けた。

こんな場末の、あんな安いラブホテルでも、今日は特別らしい。
精々5分程度の間に、訪れては去っていくカップルが何組いただろう。
「きっと、しばらく経てば、笑い話になるんだろうな」
階段の柵に肘をつき、彼は笑った。
「でも、あれが原因で別れるかも知れませんよ?」
「そりゃ、それまでの仲だったってことだろ」
振り向いたその表情は酷く穏やかで、それなのに言い知れない不安が生まれる。
「なぁ」
「・・・何ですか?」
「キスしてくれよ」
それは多分、冗談では無かったと思う。

よっぽど飢えていたのか、クリスマスという雰囲気に飲まれたのか。
いずれにしても、男にキスをせがむ心境に何故なったのか、俺には理解出来なかった。
もちろん、俺と同じような気持ちを持っているなんて、考えられるはずも無い。
狼狽える俺が明確な返事を出さないことを、彼は是と捉えたらしい。
近づいて来た彼は、俺の顎に指をかけ、少しだけ上向かせる。
その眼は、真っ直ぐに唇を見ていた。
後は、俺が、近づくだけだった。

首を傾いで、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
乾いた感触が、煙草の匂いとともに全身を駆けて行く。
互いの眼差しが、互いを掴み、離さない。
震えるほどの歓びが、身体を熱くさせた。

「オレは、どっちかって言うと犬の方が好きかも知れないな」
煙草に火を点けた先輩が呟く。
「え?」
「その方が、オレが傍にいて欲しい時に、いてくれるだろ?」
吐き出した煙が、くすんだ夜空に溶けて行った。
いつでも傍にいられる存在になりたい、なれるかも知れない。
彼の言葉を胸に仕舞い込みながら、そう、考えていた。


無事に図面提出を終えた翌日。
出社時間を過ぎても、先輩は姿を現さなかった。
10時、11時、時間が経っても連絡は無い。
上司や社員が代わる代わる携帯電話にかけても、誰一人繋がらなかった。
昼休みに差し掛かる頃、業を煮やした社長から俺に声がかかる。
彼の自宅まで様子を見に行け、とのことだった。

初めて降り立つ駅から程近くに、彼が住むマンションはあった。
オートロック式の玄関でインターホンを押しても、応答は無かった。
管理会社に連絡をするかどうか上司に伺いを立てると、とりあえず今日は様子を見ようとの返事。
仕方なく帰る途中、来た時には気が付かなかった掲示板の文字に、目を奪われた。
『今朝、当駅で発生した人身事故の影響により、ダイヤが乱れております』

嫌な予感が全身を強張らせる。
そんなバカなこと、ある訳ない。
第一、それなら会社に連絡があっても良いはずだ。
でも、身元の分かる物を何も持っていなかったら?
目が回りそうなほどの、不毛な思考の氾濫。
早くなる鼓動を抑えながら、ホームへ続く階段を上った。

人の少ない昼間のプラットホーム。
電車が来るまでは時間があるからとベンチに腰掛けようとした時、ある物が目に入った。
拾い上げると、それは儚い小さな音を響かせる。
似たような物は幾つもあるのだろうと思う。
けれど、俺には、その時の俺には、これが誰の物であるのか、一つの結論にしか至れなかった。
固いベンチに沈み、白い息を吐く。
「浦本さん、この電車じゃ、田舎に帰れませんよ・・・」


無断欠勤3か月をもって退職とする。
前代未聞の出来事を受けて急遽作られた社内規定により、春を迎える頃、彼はクビになった。
既に両親は他界されていて、唯一の肉親である姉の元にも、連絡は無いとのこと。
生死も分からないまま、俺の気持ちを離さないまま、彼は消えてしまった。
確実に巡る季節は、既に盛夏に近づきつつある。
中核を失った会社はしばらく迷走を続けていたが、何とか、立ち直ってきていた。

残業中のある夜。
携帯に一通のメールが届いた。
送り主のアドレスに覚えは無かった。
件名も本文も無いメールには、画像が一枚添付されている。

紺碧の青空に力強い稜線を描く山並みと、遥か広がる草原。
そして、芝生に写り込んだ、長い人影。

電話を持つ手の震えが止まらなかった。
小さな望郷の風景が、徐々に滲んでいく。
彼の面影と感触を頭に思い浮かべながら、声を殺して、泣いた。

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Information

まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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