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浸染(1/8)

今日は、特別冷えるな。
他の地域よりは暖かいと揶揄されているけれど、千葉生まれの俺にとっては身に沁みる。
震える身体をコートとマフラーと手袋で落ち着かせながら、地下鉄の駅に入った。
ここから会社までは、20分程度。
にわかに混雑し始めた車内で、しばしの休息を得る。

朝8時前。
近くのベローチェでコーヒーを買って、事務所へ入った。
使われ始めたばかりの室内は、リフォームしたての独特の匂いがする。
什器もそれほど整っていないガランとした室内に、申し訳程度に設置された机は6台。
島から少し離れた場所にある自分の机に荷物を置いて、ブラインドを上げると
南の方角に、市街地の中から突き出た2本の高層ビルと、電波塔が立つ山が見えた。
この街に来て、2ヶ月。
自分の街と言うには、まだ時間が足りない。


「そろそろ景気も上向いてきたしね、良いタイミングだと判断したんだよ」
去年の秋の終わり、東京本社の会議室。
課長代理だった俺に、突然の辞令が出た。
手薄になっていた東北地方に販路を広げようと、支社を立ち上げる計画。
その支社長ポストを与えられたのだ。
「オール電化住宅も徐々に増えてきているし、原油の高騰も、ウチにとっては追い風だ」
うちの会社は電気を熱源とする給湯器やボイラーの製造メーカー。
電力各社が電化住宅を推し進めていることもあり、業績は悪くは無い。

「君は営業成績も良いし、東北の物件も担当してるだろ?」
「ええ、まあ・・・」
「どうだ?仙台に骨を埋める気は、あるか?」
40歳も半ばに差し掛かり、正直、東京でこれ以上の昇進も望めない。
ただ、業績が振るわなければ、支社を畳む可能性だってゼロではない。
幸いなのは、俺が独り者だと言うことくらいだろうか。
会社側も、それを加味していることは明白だった。
しかも、部屋に充満する雰囲気は、俺に選択肢を与えない。
「・・・分かりました。お引き受けします」


正式に支社が開設するのは、2ヶ月先の4月中旬。
今は、その準備期間として、電力会社やハウスメーカー、ゼネコンへの挨拶回りをしたり
小さな展示会などを開催しながら、製品の広報活動を進めている。
ここに常駐する社員は、今のところ3人。
春には、東京から数人の社員が増員される予定だ。
それが待ち遠しくなるほど、何しろ販路が広い。
秋田や青森まで日帰りで出張、なんてよくある事で、体力勝負の日々が続く。

「営業二課の日比野と申しますが、嶋津支社長はいらっしゃいますか」
福島での展示会を控えたある日の夕方、本社から電話が入る。
「私です。どう言ったご用件でしょう?」
「突然にすみません。以前、支社長が担当されてた物件の改修を担当することになりまして」
本社の営業部は、3つの課に分かれている。
一課は大型設備、二課は一般建築・住宅、三課は公共工事の専門部署。
俺が二課にいたのは入社してすぐの頃だったから、彼と籍を共にしたことは無い。

幾つかの質問を受け、手持ちの資料をメールすると約束して、電話を切る。
耳触りの良い声が印象深かったが、顔を思い出す試みは上手く行かなかった。
声のトーンは、まだ若さを感じさせる。
数年前に新人研修を担当していたことがあるから、その時に顔を合わせたのかも知れない。
そんなことを考えながら、手を止めていた作業に戻った。


冬の佇まいを漂わせる街並みを歩いていると、つい視線を泳がせる自分に気がつく。
昇進にも地位にも、それほど興味が無かった俺の背中を押した、この街の存在。

数年前の夏。
たまに足を運んでいたバーで、ある男と知り合いになった。
初めは一言二言交わすだけだったけれど、相性が良かったのだろうか。
1ヶ月もすると、互いの存在を意識するような仲になった。

「智志さんは、東京の生まれなんですか?」
「いや、柏なんだよ。君は?」
「オレは、仙台なんです。出てきて、もう5年位かな」
「仙台か・・・行ったこと無いな。寒いんだよね?」
俺の薄い質問に、彼は人懐っこい笑顔を見せる。
「東京に比べれば、やっぱり寒いですよ」
彼の手が、そっと俺の手に触れた。
「でも、寒いのも、悪くない、かも」
それだけの行為で、僅かに心が熱くなる。
この歳になって、こんな気分になるのには戸惑いもあったけれど
自分の中で彼の存在が大きくなっていくことが、何よりも嬉しかった。

彼は、出会った時から、バイセクシュアルであることを話していた。
俺は、彼とは違い、恋愛対象は男だけ。
しかも、一回り以上も歳が離れている。
不安が無かった訳ではなかったが、彼にのめりこんで行く気持ちは、止められなかった。

□ 27_浸染 □   
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浸染(2/8)

「JR線内での信号トラブルにより、千代田線内のダイヤも大幅に乱れております」
朝8時前の駅のホームには、たくさんの人だかりが出来ている。
またかよ、そんな気分になるのも、慣れたものだ。
満員御礼の電車を何本か乗り過ごし、詰め込まれるように電車に乗る。
20分も我慢すれば、会社最寄の駅にたどり着くはずだ。

会社に飛び込んだのは、始業時間ギリギリだった。
PCを立ち上げ、まずはメールをチェックする。
『昨日の件』と簡素な件名のメールが届いた時間は、夜中の1時過ぎを示していた。
急ぎの用件ではなかったのにと思いながら内容を確認する。
署名には見慣れない支社名と、懐かしい名前。
昨日の電話の反応から察するに、僕のことは覚えて無いんだろう。
仕方ないよな、と少し残念な気持ちになりつつ、送って貰った資料に目を通す。


「最後に・・・入ったばかりの君たちを脅す訳じゃ無いけどね」
小さな会議室のホワイトボードの前で、彼は意地悪そうに微笑んだ。
「正直、営業職の定着率は、ここ最近、悪化の一途を辿ってる」
周りの同僚たちの顔が、僅かに強張るのが見えた。
「3年後離職率が、大体30%ってところかな」
新人研修用の資料を片付けながら、ベテランの営業マンは続ける。
「だからって、怖がる必要は無い。ただ実直に、真面目に。最初はそれを心がけて」

営業の新人研修の講師は、一課の嶋津課長代理。
一つの課に籍を置くのが通常らしいが、彼は全ての課に所属したことがあるという変り種。
その為、非常に人脈が広く、営業成績もかなりのものらしい。
彼に講師を任せるということは、彼を目標にするようにと言う会社の意図なんだろうか。

その日の帰り、会社の近くのベローチェで、主力製品となる温水器のカタログを眺めていた。
用途によって多くのラインナップがあり、ほぼ素人の僕には殆ど頭に入らない。
一つ一つ、その製品が作られた目的を噛み締めるように、メモを書いた付箋を貼る。
新しい知識が染み込んでいくような感覚が、少し楽しかった。

「勉強熱心だね。でも、こんなに溶けちゃ、もったいないよ?」
頭上から、不意に声をかけられる。
顔を上げると、そこには講師の彼が立っていた。
彼の視線の先にはテーブルに置かれたコーヒーゼリー。
うず高く積まれていたはずのソフトクリームは、すっかり溶け切っていた。
「あ・・・お疲れ様です」
「ここ、良いかな?」
「ええ、どうぞ」

味気無くなってしまったゼリーを流し込みながら、 カタログを眺める彼を見る。
「開発の意図を知ろうとするのは、いい方向だね」
「まずは、商品を良く知らないことには、と思いまして」
「後は、お客さんのイメージを如何に読み取るか、かな」
顔を上げて僕を見る視線は、何処かに期待を覗かせる。
「ま、それはこれから経験を積んで、覚えて行くしかないけど」
「頑張ります」
コーヒーを一口含み、彼は優しげな笑みを浮かべた。
「・・・君の声、いい声だね」
「えっ?」
「耳触りが良いって言うのかな。そう言う印象も、営業には武器になるから」
突然の褒め言葉に、僕は気恥ずかしさと戸惑いを覚える。
ただ、目標とする営業の先輩に言われた台詞は、新人時代の僕を奮起させてくれた。


オフィスの片隅に置かれた作業机の上には、春から発売になる新製品のカタログが置かれている。
何の気なしに手に取り、眺めていたところで、手塚課長から声がかかった。
「日比野、ちょっと良いか?」
僕を見る課長の表情には若干困惑が混ざっていて、何かミスでもしただろうかと緊張する。
「お前、生まれは長野だったよな」
「そうですが・・・」
「じゃ、寒い所は平気だな?」
「は?」
「ウチからも一人出せって、お達しが出た」
「あの・・・話が良く、分からないんですが」
はっきり言いたくない、そんな雰囲気を醸し出しながら、彼は言葉を捻り出す。
「・・・東北支社に、行く気はあるか?」
「え・・・」
「一先ず、3年、支社が軌道に乗るまでって話だが」
「それは・・・私が指名されたんですか?」
「いや、そうじゃない。ただ、若手で、雪に慣れた人間をご所望でね」
それは確かに、僕にお誂え向きの条件だ。
ただ、支社の開設は4月、あと2ヶ月しかない。
答えを出してから、辞令が出るまで、殆ど時間は無いんだろう。
「猶予は一週間ある。ちょっと、考えてくれないか」

新規で支社を立ち上げ、その開設から携わることが出来る。
サラリーマンとしては、きっと大きなチャンスなんだと思う。
寒い所に抵抗も無い。
何より、今でも僕の中で憧れとなっている人の、下に就くことが出来る。
それでも即決出来ないのは、もう一つの存在。

席に着くと、携帯にメールが届いていた。
『今日って、待ち合わせ8時で良いんだよね?』
目の前に迫った決断が、楽しみにしていたはずの予定に影を落とす。

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浸染(3/8)

彼との付き合いは、1年ほど続いた。
秋の気配が街を包む頃、俺の隣に座る彼は別離の言葉を口にする。
「田舎に・・・帰らなくちゃならなくなったんです」
この関係がずっと続くことを、淡い期待として抱いていた。
きっと同じ気持ちでいたはずの彼に対して、動揺は隠さなかった。
「・・・突然だね」
「先週末にオヤジが倒れて・・・会社を、継げと」
「そうか・・・」
彼の実家が電気工事を生業とする会社であることは聞いていた。
兄がいるそうだが、既に街を出て家族を持ってしまったと言うことと
実際に彼が今付いている職業が、少なからず家業に関連していることが決め手になったらしい。

「離れたくない」
彼は素直だった。
「それは、俺だって、同じだよ」
「距離を置くことで、心変わりしてしまうかも知れない・・・それが怖い」
寂しげに目を伏せる彼の頭を、そっと撫でる。
互いを思う気持ちは、それなりに強い、そう信じていた。
けれど、遠距離になることで、それが薄まって行くであろうことも、否定できなかった。
「俺は、それを、責めたりはしないよ」
微かに震える頭を、肩口に引き寄せた。
「もし、心変わりしても、俺のことを引き摺らないで欲しい」
俺を見上げる瞳は潤んでいた。
彼の手が俺の頬に触れる。
切なげな顔が近づいてきて、唇が重なり合う。
長い長い、別れのキス。
それから1週間後、木枯らしと共に、彼は故郷の街へ帰って行った。


空いた穴を埋める存在は、あれから現れていない。
探そうともしなかった、と言う方が正しいのかも知れない。
若い彼には、まだ色々なチャンスがある。
中年に入った俺には、彼が最後のパートナーだったような気もする。
彼の手や唇の感触をどうしても拭いきれない。
引き摺るな、彼に言った言葉が、自分に刺さる。
どうしようもない小さな期待を、この街にしてしまう自分が、本当に愚かに思えた。


出張帰りに事務所へ戻ると、既に皆帰宅した後だった。
冷え切った事務所の机の上に、慎ましい小さな包みが置いてあるのを見て
今日がバレンタインであることを初めて認識する。
派遣事務の女の子がくれた物なんだろう。
綺麗な形をしたトリュフのほろ苦い甘さが、疲れた身体に染みた。

本社から届いている増員に関するFAXに目を通す。
当然のことながら、あちらの感触は芳しいものでは無い。
本社だって人が余っている訳ではなく、限られた人材で回している。
回答の最終期限までは後2週間。
少なくても、営業各課で一人ずつは欲しい。
それまでは、期待と不安の入り混じる日々を過ごすことになるのだろう。

胸ポケットに入れておいた携帯が、微かな振動を始める。
見ると、同期の手塚からだった。
「おう、久しぶりだな。仙台はどうだ?」
「まぁ、毎日忙しくやってるよ」
手塚は東京本社の営業二課長。
新人時代、同じ二課で良きライバルとして働いてきた仲だ。
俺が他の課を点々とする中で、奴は順調に昇進軌道に乗り、40歳になったばかりで課長になった。

「ところで、増員の件なんだけど」
想像通りの用件だった。
「そっちも大変なのは、分かってるんだ。でも、助けて欲しい」
「助けたいのは、山々なんだけどな」
「お前でも、良いんだぞ?」
「馬鹿言うなよ」
そう言って、同期は笑い声を上げる。

「具体的にこれ、って言う条件は無いのか?誰でも良いって訳じゃ無いんだろ?」
「お前の次の次くらいの課長候補、って言うのは贅沢か?」
「贅沢過ぎるな」
「3年くらい、貸してくれよ」
「そのまま、そっちに残るって言われたら、堪らんぞ」
スピーカーの向こうから、苦笑が聞こえる。
「少数精鋭で勝負をかけるしか、無いんだよ」
窮地に立たされた心情を組んでくれたのか、手塚はしばしの沈黙の後、溜め息をついた。
「・・・しょうがないな。ちょっと声かけてみるか」
「恩に着る」

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浸染(4/8)

週末の赤坂は多くの人で賑わっている。
待ち合わせ場所に着いたのは、僕の方が先だった。
程なく、小さな紙袋を提げた待ち人がやって来た。
「ごめん、ちょっと仕事が押しちゃって」
「うん、大丈夫だよ」
「あ、これ。バレンタインは終わっちゃったけど。会えなかったから」
そう言って、彼女は紙袋を渡してくれた。
「瑛祐、甘いの好きだよね?だから、大きいのにしちゃった」
「ありがと。智花は、自分の分、買ったの?」
「もちろん。こんな時じゃないと、高いチョコなんて買わないもん」
彼女は明るい笑顔を見せながら、自然に僕の手を握る。
冷たい指先の感触が僕の指に絡んで、熱を少し冷ましてくれた。
けれど、いつもと変わらないはずの週末は、燻る悩みで曇ったままだった。

彼女と出会ったのは、半年くらい前の秋口。
会社の先輩に、半ば無理矢理連れて行かれた合コンでだった。
第一印象は、サバサバした姉御肌、と言った感じ。
実際、僕よりも2つ上の彼女は、それ以上にしっかりしているように見えた。
同じ営業と言う職に就いていることから、仕事に対する意識もあまり変わり無い。
何回かメールを交換する内に、自然に惹かれ合うようになっていった。


智花がお気に入りだと言う、通り沿いのイタリアンに入る。
幾つかのアンティパストとワインを頼み、互いの近況を話し合っていると
ワイングラスから口を離した彼女は、ふと僕の表情を窺う。
「・・・何か、あったの?」
引っかかるものを抱えて喋る僕の様子に、彼女は気がついたようだった。
いつか話さなきゃならない、結論を出さなきゃならない。
彼女は、どんな反応をするんだろう。
そう思うと、なかなか言葉にならない。
「仕事のこと?」
「・・・そう、なんだ」
「転勤、とか?」
彼女の口調には、若干冗談じみたものがあった。
それが僕を、更に居た堪れなくする。

空になったグラスに、彼女がワインを注いでくれる。
その音が、周りの雑音を掻き分けて、耳に響いた。
「・・・今度、仙台に支社が出来るんだ。そこに、来ないか、って言われてる」
「仙台・・・?」
彼女の表情が、明らかに曇る。
「もう、決まりなの?」
「いや、一週間、猶予を貰ってる」
「他の人じゃ、ダメなの?」
「分からないけど・・・先方の希望に、沿うからって」
テーブルの上に組んだ手に、彼女の手が添えられた。
「・・・断る気、無いんだ?」

待っていて欲しい。
ついて来て欲しい。
正直、僕の本心が何処にあるのか、自分でも分からなかった。
ただ、彼女が言った言葉だけは、明確に自分の中で固まったものだった。
卑怯だと思いながら、僕は彼女の言葉を待っている。

「私、遠距離は、無理だよ」
彼女は、そう言い切った。
「今の仕事、辞める気も無い」
寂しげな目が、心をえぐるようだった。
「でも、折角のチャンス、逃したくない瑛祐の気持ちも分かる」
「・・・ごめん」
「行くとしたら、いつくらいになるの?」
「多分・・・来月初めには」
「もう、すぐじゃない」
苦笑する彼女の手を、握り返す。
静かに息をつき、彼女はまるで子供を諭すような口調で僕に言った。
「じゃ、それまでは、私との時間を大切にすること」


週明け、僕は手塚課長の下へ赴く。
「先日の、お話なんですが」
「・・・良い答えなのか?」
「と、思います」
課長の顔が、フッと緩んだ。
「そうか。・・・お前を手放すのは、惜しいんだがな」
「ありがとうございます」
「嶋津を、しっかり手助けしてやってくれ」
「分かりました」

正式に辞令が出たのは、3月に入ってすぐだった。
手がけている物件の引継ぎや、お客さんへの挨拶回りに忙殺されながら
夜は、残り少ない彼女との時間を過ごしつつ、荷造りを進める。
引っ越し先は、共に赴く社員の分を含め、先方で手配してくれると言うことだった。
「いつか、仙台に行ったら、観光案内してくれる?」
「もちろん」
果たされる可能性の低い約束。
まだ隣に体温を感じているはずなのに、僕らの間の距離は徐々に開き始めている。
別れの日は、近かった。

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浸染(5/8)

3月も中盤に差し掛かろうというのに、ここではまだ雪が降る。
今日も、灰色の空からは雪が舞い降りて来ていた。
新幹線のホームに、待ち人が乗った車両の到着を知らせるアナウンスが流れる。
程なく滑り込んできた新幹線からは、週末だからか、多くの人が下車して来た。

人波に視線を泳がせていると、ふと一人の男と目が合った。
静かに笑みを浮かべた彼は、こちらに向かって歩いてくる。
「嶋津支社長ですよね。二課の日比野です。お世話になります」
頭を下げる彼の顔と、その声で、やっと昔の記憶が蘇った。
確かに彼と、会ったことがある。
「遠い所、本当に申し訳ないね」
「いえ、支社長こそ。わざわざ出迎えて頂いて、ありがとうございます」
「それは、構わないよ。・・・荷物は、いつ着く予定?」
「明日の予定なんで、今日はホテルを取りました」
「そうか・・・じゃ、会社も見ておく?」
「ええ、そうできれば」
彼が持っている荷物を一つ引き受けながら、俺たちはホームを後にする。

仙台駅から事務所があるビルまでは、十分徒歩圏内だ。
「雪は・・・平気?あまり驚かないね」
「え・・・?」
彼は、俺の質問の意図がよく分からなかったらしい。
こんな時期に雪が降るなんて、東京じゃ珍しいはずなのに。
「上京してからは、あまり触れてませんけど、地元は雪の多い土地なんで」
「そうか。東京近郊の生まれじゃ、無いんだね」
その言葉に、彼は更に不可解な表情を見せた。
「・・・雪に慣れた人を、と言う条件だったのでは?」
「手塚が、そんなことを?」
「はい」
あいつらしい、そう思って苦笑が漏れる。
「まあ、その方が、こっちも助かるけど」
「そう、ですか」
「俺がつけた条件は、一つだけだよ。将来有望であること、ってね」


ようやっと会社らしくなってきた事務所の中には、主を待つ机が一つ。
「日比野君は、ここ、使ってくれる?」
「分かりました」
「あと、本社で使っていた荷物は、もう届いているから」
彼は幾つかのダンボールに視線を向け、俺に尋ねてくる。
「今日、荷解きしてしまっても良いですか?特に予定も無いので・・・」
「構わないよ」
「すみません、土曜日なのに」
「仕事は、腐るほどあるからね。俺はそっちを片付けるよ」

テキパキと自分の机を整えて行く彼の様子を眺めながら、差し迫った営業日程の確認をする。
カレンダーには、来月の支社開設まで、びっしりと予定が入っている。
身体が持つか、そんな弱気な部分が顔を覗かせた。
人員が増えて、少しは楽になるかと思っていたが、実のところはそうでも無い。
結局、初めの内は、どの担当にも俺が同伴する必要があるからだ。

「他の二人は、もう来てるんですか?」
机に置かれたノートパソコンを開きながら、部下が話しかけてくる。
「ああ、週末に赴任してきたよ」
「あまり、顔を合わせたことが無いので」
「多分、彼らも同じだから。心配無いさ」
彼の視線が、俺の顔を捉える。
「でも、嶋津支社長の下で働けるのは、本当に光栄です」
不意に突きつけられた敬意に、若干動揺する。
「そんな風に言って貰えると・・・嬉しいよ」
言葉が上手く出てこない中、机の隅に置かれた小さな箱に目が行った。
「そうだ、これ。新しい名刺」
彼は席を立ち、俺の机の側にやってくる。
東北支社、と記された真新しい名刺を眺めながら、彼は何処か決意に満ちた表情を見せた。
これが、同期一押しの営業マンの顔か。
彼がいれば、多難な前途を何とか乗り切れるかも知れない、そう思った。


片付けも一段落し、部下と共に近くのベローチェで休憩を取る。
「今日は、コーヒーゼリー、頼まないんだ?」
彼が新人の頃、ソフトクリームが溶け切るまで熱心にカタログを見ていた姿を思い出す。
オーダーをしていた彼は、愉快そうに微笑み、追加注文をした。
その様子に、固いままだった気分が解される。

「もう、覚えていらっしゃらないのかと」
「悪いね、やっと思い出したよ」
高くそびえるソフトクリームを口に運びながら、彼は言った。
「あの時、言われた言葉が、本当に糧になって」
「良い声だ・・・って言ったんだっけ」
「新人で自信のあるものが何一つ無い中で、唯一誇って良いものだ、と支えにしてました」
感じたまま、素直に出ただけの言葉。
どんなことが奮起させるきっかけになるのか、人間の感情の複雑さを実感させる。

通りに面した大きな窓から見える空は、徐々に暗さを増している。
窓沿いに視線を滑らせると、思わず、身体が固まった。
そこにあったのは、残酷な現実だった。

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浸染(6/8)

スーツを脱げば、ただの男。
如何にエリートであろうと、私服でもその風情を感じさせる存在は、なかなかいない。
目の前の上司は、そう言う意味では稀有な人なのかも知れない。

窓の方を見やる彼の表情が、ふと曇った。
また雪でも降ってきたんだろうか、そう思って、彼の視線を追いかける。
街は軽い闇に包まれ、大きな通りには車が行き交っていた。
特に変わりの無い風景。
そこに被さる様に座る窓際の若い夫婦。
どうやら上司の視線は、彼らにあるようだった。

知り合いだろうか。
かと言って、それを軽々しく聞けるような表情では無かった。
何処か懐かしむような、それでいて寂しげな顔。
沈黙の時間は、それほど長くは無かったと思う。
彼は僕の方に向き変えると、はにかんだ笑みを見せる。
「ああ・・・悪いね」
「いえ・・・」
手元のコーヒーを一口飲み、何か気分を落ち着かせるよう、軽い溜め息をつく。
「・・・日比野君は、結婚はまだ?」
「え・・・ええ」
聞かれてもおかしくは無い質問に、何と答えていいのか、迷う。
彼女の顔が、頭を掠めた。
「まだ・・・考えて無いですね」
「そう」
「しばらくは、ここで、頑張るだけです」
僕は、つい昨日経験した別離を悟られないよう、精一杯の笑顔を返した。


視線の先の上司に影が差す。
目を上げると、さっきまで窓際に座っていた人物が彼の側に立っていた。
「お久しぶりです。智志さん」
多分僕とそう歳の変わらない、左手の薬指に指輪をした男は、上司を名前で呼んだ。
「・・・久しぶりだね」
「こちらへは、仕事で?」
「ちょっと前に、転勤してきたんだ」
「・・・そうですか」
どういう関係なんだろう。
つい、プライベートを詮索してしまう罪悪感が、背筋を強張らせた。
上司を真っ直ぐに見る目が不意に僕へ向けられる。
疚しいところは何も無いはずなのに、思わず視線を逸らす。

彼らの間には、それほど多くの会話は無かった。
まるで、視線だけで語り合っているかのように、僕には見えた。
僕の中の上司像には無い、その表情。
心の奥に、何故か憧れの念が生まれてきて、居心地が悪くなる。

彼らの再会の時間は短く、程なく男は別れの挨拶を口にした。
「また、何処かで、お会いできると良いですね。・・・お元気で」
男はそう言うと、瞬間、上司のこめかみ辺りにキスをして、去って行く。
「君も・・・元気で」
彼はその行為を目を閉じて受け容れながら、小さく呟いた。


周りの状況は、僕らが店に入った時と何も変わらない。
けれど、僕と上司を取り巻く状況は、明らかに変化を来たしている。
手を組んだまま押し黙っている彼に、僕は何と声をかけるべきなのか分からなかった。
窓の向こうには、すっかり夜の帳が下りている。
店を出るきっかけさえも見つけられず、時間だけが過ぎていく。

「時間と距離には、抗えないもんだね」
沈黙を破るよう、寂しげな笑みを浮かべ、彼は呟いた。
「君は、聞かないんだ?」
「え?」
「俺が、結婚して無いこと。・・・気になるだろ?」
気にならない、訳は無かった。
仕事も出来て、ルックスも決して悪くない。
結婚して、子供もいて、家の一軒くらい建てている、そう言われても何の違和感も無い上司。
そうではない事実と、ついさっき彼に起こった出来事を繋ぐもの。
頭に浮かぶ想像で、少し鳥肌が立った。
彼は、僕の僅かな表情の変化を読み取ったのだろう。
「他の社員には、黙っておいてくれないか」
「・・・はい」
発した声は、微妙に震えていたかも知れない。
思いも寄らない形で知ることとなった、上司の秘密。
僕自身、現実を飲み込むことが、なかなか出来なかった。


新しい支社で働き出して2週間も経つと、徐々に生活リズムも掴めて来た。
上司なりの気遣いなのか、今のところは市内の設計事務所を周る毎日。
共に転勤して来た仲間との交流も徐々に取れてきて、当初の懸念は大分薄れている。
そんなある日、遠方への出張の話が舞い込んできた。
「郡山の地場ゼネコンなんだけど・・・一緒に行って貰えるかい?」
若干疲れた顔を見せる上司に、僕は当たり前の答えを返す。
「はい、大丈夫です」
「申し訳ないけど、日帰りだからね」
意地悪そうな笑みを浮かべ、彼は言った。

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浸染(7/8)

言うべきじゃなかったのかも知れない。
あの日から、俺の中ではその考えが頭を巡っていた。
彼にとっては無関係な秘め事を、無理矢理共有させてしまった罪悪感。
些細な希望も失った心に、それが重く圧し掛かっている。
悟られてはいけない動揺を打ち消すように、俺は多忙な毎日に身を没した。

「その節は、大変お世話になりまして」
「こちらこそ。・・・いやぁ、支社長さんですか。びっくりですね」
「あの頃は、まだまだ駆け出しでしたから」
昔、取引があったゼネコンの担当者。
俺が平社員から支社長になる間、彼は係長から専務まで上り詰めていた。
「是非、改めてご挨拶に伺いたいのですが」
「もちろん、お待ちしてますよ」
各県の大きな都市のゼネコンやハウスメーカーは、概ね回って来た。
件の会社は、福島中部での足がかりになる郡山にある。
しかも、住宅やマンションに特化した会社でもあり、押さえておきたい存在だった。

机の上のカレンダーには、既に土曜日まで予定が入り込んでいる。
何とか予定を空け、日帰り出張の手はずを整えた。
「まぁ、新幹線で一本だから」
「分かりました」
同行予定の部下は、疲れを感じさせない笑顔で、そう答えてくれた。


春を感じさせる陽気の中、昼過ぎの新幹線で郡山へ向かった。
車内では、会社の概要や以前手がけた物件について下打ち合わせを行う。
今日は俺も同行するが、実際に営業担当となるのは二課で鍛えられてきた日比野君。
それを分かっているのか、彼の表情にも幾分の緊張と気合が見て取れた。

「君は、嶋津君の若い頃に似ているね」
久方ぶりに会った専務は、一通りの話の後、部下を見てそう言った。
突然の言葉に驚いた表情をし、フッと笑顔になった彼は、軽く頭を下げる。
「身近に大きな目標があると、私も励みになります」
「いい部下を持って、君は幸せだねぇ」
「ありがとうございます。これからも、日比野共々宜しくお願いします」
これが、上に立つ、と言うことなのか。
営業として一段上がったかのような顔を覗かせる部下を見ながら
自分まで、何か誇らしげな気分になった。
今までも部下は何人もいたけれど、新しい支社ではその数が少ないだけあって
より距離も近く、各々の成果がダイレクトに響いてくる。
責任も大きい、プレッシャーも半端じゃない。
それでも、俺はこの職務を引き受けたことを、初めて良かったと思えた。

郡山から新幹線に乗ったのは、既に陽が傾いてからだった。
この日程で、よく身体が持ちますね、そう苦笑していた部下は
電車が走り出して程なく、眠りに落ちていく。
その隣で、手帳に書かれたスケジュールを確認しながら、無意識に溜め息が出る。
明日は市内でハウスメーカーとの新規プロジェクト立ち上げ、明後日は本社で会議。
目が回るような忙しさの中を駆けて来た、数ヶ月。
支社開設まではあと2週間あまり。
それまで、張り詰めた気持ちが切れなければ良いが。

ゴン、と鈍い音がした。
見ると、部下は窓に頭を擦り付けるほど、身体を傾けている。
「首、痛めるよ?」
部下の肩を座席の方へ軽く引き寄せる。
ああ、と虚ろな声を挙げながら座席に落ち着いた身体は、程なく再び傾き始めた。
手帳を持つ肩が、俄に重くなるのを感じる。
徐々に増してくる重みに負け、手帳を簡易テーブルの上に放り、座席に身を任せた。

それまでの生活を突然断ち切られたであろう部下。
しかも、互いのこともあまり知らないまま、奥底の素性を晒された嫌悪感もあるはずなのに
彼からの敬慕の念が、薄れているようには感じられなかった。
愚痴もこぼさず、実直についてきてくれる彼に、俺は肩を貸す以上のことが出来ているだろうか。
その寝顔に一瞬視線を向けた後、車窓に目を移した。
真っ暗だった視界に、徐々に光が浮かび始める。
部下の髪が、頬をくすぐった。
唐突に、不徳な感情が沸き上がる。
それに蓋をするよう、天井を仰ぎながら、目を閉じた。


夜になっても、寒さが身に沁みることは無かった。
「今日は、直帰したら?資料は持って行くよ?」
「いえ、大丈夫です。今日の日誌も付けて行きたいんで」
新幹線の中の転た寝で英気を養ったのだろうか。
会社へ戻る道すがら、部下の笑みは明るかった。
圧倒的な年齢の差を見せ付けられたような気がして、少し羨ましくなる。
「嶋津さんは、大丈夫ですか?」
「え・・・ああ、今が正念場だからね」
ここで弱音を吐いてはいられない、そう思う気概だけで、足を進めた。

既に他の社員が帰宅した後のオフィスに戻る。
部下は言葉通り、自らのパソコンを立ち上げ、更なる仕事に向かう。
俺は不在中のメールチェックをしつつ、明日の打合せの資料を眺めていた。
急に視線を感じ、顔を上げる。
真剣な表情をした部下と、目が合った。
「・・・どうか、した?」
俺の怪訝な問いに、彼が口を開く。
その言葉に、何と答えれば良かったんだろうか。

□ 27_浸染 □   
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浸染(8/8)

目標とするべき営業マンであり、尊敬できる上司がいる。
サラリーマンとして、これ以上幸せなことは無かったはずだった。
その彼が同性愛者であるという事実は、少なからず僕の心に影を落とす。
嫌悪感が無いといったら、嘘になる。
それなのに、過去の男に向けられていた視線が、目の裏に焼きついて、離れない。
彼に対する気持ちが少しずつ歪んでいくような気がして、怖かった。

上司は、事務の女の子が作って行った分厚い資料に目を通している。
明日の打合せの資料だろう。
営業日誌が概ね完成したところで、僕はその姿をぼんやり視界に収める。
疲れてくると、彼の目は少し細くなり、目尻に皺が寄る。
今もまさに、その表情が見て取れた。

あの男と上司は、どんな時間を過ごしたんだろう。
僕の知らない彼の姿を、そいつは知っている。
僕には見せないあの視線を、感じている。
それだけのことが羨望の念を募らせた。
独占欲、なんだろうか。
ふと顔を上げた上司と目が合った。
「・・・どうか、した?」
不思議そうな顔をしながら発した問いに、僕は答えた。
「・・・僕じゃ、ダメですか?」

眉間に皺を寄せ、上司は言葉を失う。
「僕は、もっと・・・嶋津さんに、見て欲しい」
「どうした、急に。何、言ってるんだ?」
この気持ちを、どう表現して良いのかが分からなかった。
「僕が部下だから、彼の様にはなれないんですか?」
彼の顔に動揺が浮かぶ。
何を言わんとしているのか、確信したのかも知れない。
「日比野君、君は・・・」
僕から外された視線が、あらぬ方向へ向かう。
静かに溜め息をつき、彼は再び僕を見て言った。
「君は同性愛者じゃないから・・・却って踏み込むのに躊躇がないのかも知れないね」
彼の目つきは寂しげで、真剣だった。
「いざと言う時の、逃げ道が、あるから」
その言葉に、全身が震えた。


「今日は、もう帰ろう」
しばらくの沈黙の後、彼はノートPCを閉じ、立ち上がる。
僕は何も言えず、それに続いた。
入口近くにある照明のスイッチを切ると、擦りガラスのドアから廊下の明かりが入ってくる。
彼がドアに手をかけ、開けるまで、少しの間が空いたような気がした。
自分が抱える曖昧な気持ちが、その時間に耐えられなかった。

「・・・やめるんだ」
カバンを持つ彼の手を掴んだ僕に、彼は背を向けたままで言った。
僕は無言で、その手に力を込める。
薄い光に照らされた顔が静かに揺れた。
「分かって、くれないか?」
俯いたまま彼は言葉を搾り出す。
「失うには・・・大き過ぎるんだ、君は」
僅かな震えが腕を通して感じられた。
それは僕の鼓動と共鳴するように、徐々に大きくなる。

「僕を、見て、下さい」
緊張で声が上ずる。
彼は観念したかのように、ゆっくりと振り向いた。
その視線は、やっぱり、僕の待つ視線では無かった。
けれど、いつもの上司としての顔とは明らかに違う、薄弱な男の顔。
「・・・君は、彼とは違う」
「分かって、ます」
僕は、逃げ道の無い彼を追い詰めているのだろうか。
いずれ来るであろう結末に想いを馳せ、彼は脅えるような口調で呟いた。
「きっと、もう、耐えられない・・・」

彼の腕を軽く引き寄せると、その身体が力なく僕の肩にぶつかる。
震える唇が、すぐ耳元に迫っていた。
鼓動と体温を直に感じる。
閉ざされた心の扉を見つめながら、僕はそれに、手をかけた。

乾いた唇の感触が、意識を一瞬薄くする。
取り乱した目が、細い視界に映った。
僕は、最低な部下だ。
自分勝手な羨望を、寂しさを、紛らわせる為に、上司の心を侵している。

唇が離れても、僕たちの顔は互いの息遣いを感じる距離にあった。
何かを諦めたような彼の視線は、真っ直ぐに僕に向かっている。
「・・・ダメ、ですか、僕じゃ」
小さく吐いた息が、前髪を揺らした。
彼の手が、僕の頬に触れる。
熱が伝わるように、耳が火照る。
再び、唇が触れ合った。
束の間の緊張の後、彼の視線が、僕の心に染みていく。
瞬きをするのも忘れて、それを受け止め続けた。


前を行く上司の背中が、遠くに見える繁華街の灯りに滲むようだった。
振り返った彼は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「飯でも、食ってこうか?」
「・・・ええ、良いですね」
少し早歩きをして、彼の横に付く。
行く先にある暗がりの中のケヤキ並木が、春の風に揺れていた。
ここが僕と彼の街になるのは、そう遠い日じゃ、ない。

□ 27_浸染 □   
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まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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