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托生(1/6)

終業時間を過ぎる頃、南西に位置する窓の向こうから、夕陽が部屋の中に挿し込んでくる。
「清水さん、引っ越し、明日でしたっけ?」
帰り支度を済ませた後輩の関くんが、そう声をかけてきた。
「ああ、そう」
「何か手伝いますか?」
「いや、大して荷物も無いし、大丈夫。ありがとう」
真新しいデスクに身体を預けていた彼は、少し弾みをつけて立ち上がる。
「じゃあ、何かあれば五十嵐でも呼びつけて、こき使ってやって下さい」
「分かった、そうするよ」
「では、お先です」
「お疲れ様。来週から宜しく頼むね」

都内にある事務所が手狭になったという理由で開設された埼玉分室。
什器の設置や種々の設定も終わり、来週頭から運用が始まる。
若手を中心とした5人の社員が配属され、その中で、室長という立場を与えられた。
もちろん、仕事内容は今までと変わらないが
入社して15年近くが経ち、ややもすると気が緩みがちになってくる時期に
こういった変化がもたらされることは、社会人として有難いことかも知れない。

ただ、一つ難儀だったのが、住んでいる場所だった。
同一路線上にある本社と分室。
異動になる社員の殆どは元から埼玉に居住していたが
俺だけは本社を挟んで反対側の東京南部に住んでいた。
大学時代から住んでいる街で、それなりに愛着もあったものの
流石に通勤時間が30分以上も延びるのは厳しいと考え、引っ越す決心をした。

『そちらはどんな感じですか?』
机の上に置いておいたスマートフォンの画面に、そんなメッセージが表示される。
『一通り準備も終わって、皆帰宅したところ。そっちは?』
明日から住む街は、分室から東京寄りに3駅行った、東京と埼玉の境。
『ちょっと急ぎの修正が入っちゃって、遅くなりそうです』
『じゃあ、今日は早めに帰って、残りの荷物まとめることにするよ』
『分かりました。また後で連絡します』
そこは、彼の住む街。
職場は離れても、せめて近くに存在を感じていたかった。


初めて彼と出会ったのは、5年前の春。
「五十嵐史彦と申します。至らない点も多々あると思いますが、宜しくお願いします」
大学を卒業したばかりの男の印象は、元々、そう悪いものでは無かった。
新入社員にありがちな根拠のない自信と、それとは裏腹なやや度の過ぎた謙虚さは目に付いたが
教育係を任されていた後藤女史のスパルタも効いたのだろう。
半年も経つ頃には社内の雰囲気にも慣れ、仕事に対する貪欲さが見えてくるようになっていた。

とはいえ、業務中、彼との接点は殆ど無い。
俺が配属されているのは主にインフラ設計を手掛ける部署。
一方で、彼は測量とその作図を担う部署にいる。
業務自体はリンクしているものも多くあり、多忙な時期は互いのヘルプをすることもあるが
時折、数分の雑談を交わす程度の仲から、進展することは無かった。

そんな彼にある感情を抱くようになったのは、些細な日常の風景がきっかけだ。
打合せから戻った昼休み、測量部署の数人が談笑をしていた。
何を話していたのかは分からなかったが、皆一様に笑顔で、その中心には若い男の姿。
自信を持ち始め、社内のムードメーカーとしての頭角を現しつつある存在を遠目に眺める感覚が
過去に抱いた仄かな想いに重なり、懐かしく、切なく、愛おしく心に蘇った。


自分が他人と何か違うのだと気が付いたのは、中学生の時。
明るく活発で、おまけに勉強までできるという少年が、同じクラスに転校してきた頃だ。
どちらかというと内気で人付き合いも上手くなかった俺にとって
あっという間にクラスの中心に立った彼を、疎ましく思いつつも、何処かで羨んでいたことを覚えている。

「清水くんも、歴史好きなんだ」
放課後の図書館、本棚の前で歴史書に手をかけた時、そう声を掛けられる。
振り向くと、人気者の彼が立っていた。
いつも教室の隅から、多くの友に囲まれている姿を見ていたからか
一対一で対峙していることに妙な緊張感を覚える。
「・・・うん、幕末辺りが、好きで」
「へぇ。オレは戦国時代かなぁ。誰も知らないような地元の武将とか、調べるのが好きなんだよね」
隣にやってきた彼は、一通り棚を眺めた後で小さく薄い本を手に取った。
「親の転勤でいろんなとこ行くから、その度に、城の跡とか見たりして」
表紙には、この辺では有名な、けれど歴史の表舞台には出ることの無かった名も無き武将の名前。
「この人、知ってる?」
「この辺じゃかなり有名だから・・・」
「そうなんだ。なら、今度いろいろ教えてよ」
屈託のない笑顔を向けられた瞬間、思わず顔が緩んだ。
遠い存在だと感じていた彼と同じ位置に立てたことが、嬉しかったのかも知れない。

それからも、クラスの中での関係性に、特段の変化は無かった。
けれど、週に何回か図書館で顔を合わせ、週末には二人で史跡を巡る。
共有する時間が積み重なっていく程に
今まであまり興味の無かった "友情" というものを意識するようになり
人生に対して何となく冷めた目を向けていた幼稚な心を、融かしてくれる存在になっていた。

結局、中学3年の秋に彼が再び転校するまで、幸せな時間は続いた。
年月を経て、2児の父となった男とは、今でも年賀状のやり取り程度の付き合いがある。
子供の頃の面影を写真の中に探る度、あの頃抱いていた感情が心をざわつかせ
それは "友情" では無かったのだと思い知る。
人の輪の中で笑う存在が象徴する想い。
一時だけでも、自分だけに向けられていたことへの悦び。
これまでも、これからも、二度と味わうことはないと思っていた。

□ 05_感触 □   
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□ 99_托生 □
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托生(2/6)

今から1年ほど前の、ある夜。
測量部隊の作図作業が間に合わないという理由で、大半の社員が徹夜残業の憂き目を見ていた。
夜も深夜の1時を過ぎ、一息入れる為にフロアの隅にある休憩室へ向かうと
椅子に浅く腰掛け、前屈みの姿勢で項垂れている五十嵐くんの姿があった。
俺が扉を開ける音で顔を上げた彼の様子は明らかに疲れ切っており
こちらを見やる虚ろな眼に、居た堪れなさを感じる。
「・・・あ、すみません」
「いや・・・大丈夫?」
「最近、寝不足で・・・何か、一気にきた感じです」
「もう少し休んだら?」
「いえ、あとちょっとなんで・・・」
儚い笑みを浮かべ、立ち上がろうとする彼の上半身が急にバランスを失う。
咄嗟に抱えた身体は、すぐに、重さを増した。
「五十嵐くん?」
呼び掛けに応える声が無い代わりに、程なく、静かな寝息が聞こえてくる。
肩口に納まった頭の重みが鼓動を僅かばかり急き立て、思わず、その背中に腕を回した。

少しずつ腕に力を籠めてみる。
やがて、彼の髪が頬を撫で、吐息がうなじに沁みていく。
他人とは何かが異なる自らの本能がくすぐられるほどに、躊躇いが頭を過る。
振り切るように視線を上げると、時計の針が刻一刻とタイムリミットに迫っていた。
独り善がりな衝動を溜め息に溶かしながら、一度だけ、その身体を抱き締めた。


フロアに安堵の雰囲気が漂い始めたのは、東の空が白み始める頃だった。
作業が一通り完了し、外にある喫煙所で一服して再び戻ると、空間には早くも静寂が訪れ始めている。
机に突っ伏す、椅子を並べて横になる、直に床に横たわる・・・皆が様々な方法で仮眠を取る中
明日、もとい今日の作図依頼資料をまとめ終わったところで、彼の様子を窺うことにした。

皆、気を遣っているのか、部屋の中には彼一人が眠りに就いている。
椅子に腰かけ、穏やかな寝顔を見やる内に、急激な睡魔に襲われた。
眼鏡を外し、一瞬目を閉じる。
意識が落ちていく心地良い快感が身体を駆けるタイミングで、声が聞こえてきた。
「・・・今、何時ですか?」

慌てて向き直すと、やや寝ぼけ眼の若い男と目が合った。
「ああ、気が付いたか。今・・・5時過ぎくらいかな」
そのまま時計を見やり、時間の感覚が正しいことを確認して、再び彼を視界に収める。
「そうですか・・・すみませんでした」
自らの状況を把握したのだろう、遣り切れない様に口をつぐみ、小さな溜め息を吐く。
「作業は、どうですか?」
「一通り終わったから、大丈夫。それよりも、具合はどう?」
「まだちょっと目眩がしますけど、平気です」
倒れた時に比べれば若干顔色は良くなったように見えるが、それでも言葉は大分弱弱しい。
「少ししたら始発出るから、それで帰ると良いよ」
「でも・・・今日納品ですよね?」
「CADチームにお任せ。後藤さんにも言ってあるし」
それなりに経験を積んできているとは言え
若さ故に、仕事に対する力加減の調節が上手くいかないところが往々にしてある。
「しばらく忙しかったからね。しっかり休養取って、また月曜日から頑張って貰わないと」
「・・・分かりました」

椅子から立ち上がった俺を、彼は眼で追いかけてくる。
縋るような目つきに、理性が揺さぶられた。
「もう少し、休んでなよ」
ゆっくりと手を差し伸べ、そっと額に添える。
「・・・時間が来たら、起こすから」
程よく柔らかな髪の毛を掻き揚げるように、数回撫でた。
目を細めた安堵の表情を間近にし、堪え切れなかった。
身を屈め、彼の額に口づける。
瞬間、驚きを示した面持ちは、けれど、抗いの様子は窺えない。
「じゃ、また後で」
それだけが、救いだった。


しかし、それからというもの、フロアの向こうの彼を見かける度
得も言われぬ後悔の念が膨らんでいくことに気付き始めていた。
あの日のことを言及されることも無く、関係は特に変わらず、挨拶や雑談を交わす程度。
それなのに、ほんの些細な感触は心を侵蝕し続け、奥底に隠してきた心情に火を点けようとしている。
叶うはずも無い想い。
遠巻きに見ているだけで満足だったはずなのに、どうして踏み止まれなかったのか。


「お先に」
「お疲れ様でした」
仕事が落ち着いてきたある日の夜。
残業に励む後輩たちの脇を通り抜け、廊下に出たところで、ある女と一緒になった。
「今日は早いのね」
「早いって言っても、定時はとっくに過ぎてますよ」
「まぁ、そうだけど」
「後藤さんも、今日は残業ですか?」
「引き継ぎあるからねー。入院中に仕事の電話とか、取りたくないじゃない」

成り行きでエレベーターホールまで一緒に歩を進める。
「あぁ・・・」
小さく声を上げた彼女の視線の先には、下へ降りていく表示灯が見えた。
溜め息を吐いてボタンを押す彼女の様子に、随分昔に聞いた言葉を思い出す。
「・・・あの、飯でも行きません?」
「珍しいね。清水くんから誘ってくるの」
「たまには良いかと思って。・・・家の方は、大丈夫ですか?」
「うん、2時間くらいなら」
その時は余りにも遠く聞こえた一言が、今の俺には息苦しくなる程に理解できる。
「今日は俺が奢りますよ」
「いいよ、清水くん飲まないし」
「じゃあ、7:3で」
「了解。なら、お店選びは私に任せてね」

□ 05_感触 □   
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托生(3/6)

CADチームのリーダーである後藤女史は、元々インフラ設計の部署にいた俺の先輩で
新人の頃は何かと相談に乗って貰うことも多かった。
大学では土木工学を専攻し、上下水道計画の基礎を学んだ彼女には
会社としても期待するところが大きかったはずだ。
技術者として順調にスキルを重ねていた女に転機が訪れたのは、今から10年前。
左手の薬指には婚約指輪替わりに貰ったというシンプルな指輪が光り
まさに、幸せの絶頂という時期だった。

先輩から頼まれた作業が終わったのは、夜の8時過ぎ。
定時を過ぎてすぐ、上司と共に会議室へ入っていった彼女は、未だに戻ってこない。
慢性的な人手不足の折、仕事は幾らでもやってきて手持ち無沙汰になることは無かったが
不自然な離席の長さが、僅かばかり、心にざわめきをもたらしてくる。

一服して、気分を落ち着かせよう。
そう思って立ち上がった瞬間、フロアの奥の扉が開く。
中から出てきた男女は、俺が予想していたものとは少し違い
何処か晴々とした表情を浮かべる後藤さんとは対照的に、上司の顔には困惑が見て取れた。
遠くから視線を送る後輩に気が付いたのか、女は歩きを速めて近づいてくる。
「ごめん、もう終わったよね?」
「え、ええ・・・」
「後、見ておくから。今日は上がって良いよ」
さっきまでと何も変わらない様子が、却って不安を募らせたものの
結局その夜は、真相が分からないまま過ぎていってしまった。


突然の辞令が下りたのは、それから一週間も経たない週明けのことだった。
インフラ設計からCADチームへの異動。
多くの物件を任され、部署の重要な歯車だったはずの人材が何故。
俺を初め、事情を知らない社員は皆一様に疑問を抱いたはずだった。
家庭の事情、上司からの説明はその一言だけで、本人も笑ってそれを繰り返す。
結婚が近いという話は知っていたものの、それなら他に言い方があるだろう。
ともあれ、彼女が抜ける穴はそれなりに大きく
ぎこちない雰囲気の中、本筋の業務と並行して、火急の引き継ぎ作業に取り掛かることになった。

元々口数の少ない女では無い。
ふとした時に場を和ませる会話を持ってくるような存在だった。
けれど異動が決まってからというもの、その口からは謝罪の言葉が多く出てくるようになった。
「本当にゴメンね。こんな途中で」
大机に広げられた図面は、未完成の管路設計図。
まだ経験の浅い俺にはとてつもなく複雑に見えるその経路を、彼女は懇切丁寧に説明してくれる。
しかし、難易度の高い物件が積み重ねられていくことに、正直、焦りもあった。
「・・・せめて、持ってるのが片付くまで、異動を待って貰えないんですか?」
気遣いを装った愚痴が、つい口を衝く。
一瞬止まった空気が、静かな溜め息で動き出す。
「急な話で迷惑かけて、本当に・・・」
「別に、やるのが嫌とか、そういうんじゃないです・・・けど、何でって」
伏し目がちに窺ったその表情は、やや切なげなものに変わっていた。
「そうだよね。皆そう思ってるのは、分かってる。私だって・・・本意じゃない」


父親を早くに亡くし、看護師の母と、大学生の妹と3人暮らし。
彼女曰く、"ごく普通" の家族だった。
異変に気が付いたのは、半年ほど前。
活発な性格だった妹が徐々に学校へ行かなくなり、無気力な様子が目立ってきた。
理由も分からないまま夏休みを迎え、9月を過ぎる頃には昼夜逆転の生活になり
今ではすっかり部屋に引きこもるようになってしまったのだという。
夜中に奇声を上げては何かに脅え、激昂する。
流石に何かがおかしいと、無理矢理病院に連れていったのが2ヶ月前のこと。
そこで受けた診断は、統合失調症だった。

投薬と通院で様子を見ていたが、症状には波があるようで
家族に暴力を振るうことも、少なからずあるのだという。
回復のきっかけを見逃さない為には、どうすれば良いのか。
「本当はもう少し先にする予定だったんだけど、ちょっと、状態が良くなくてね」
時短勤務が可能な部署に異動したいと告げた彼女に、上司たちは揃って慰留を続けたらしい。
現職での時短も勧められたと言うが、先輩はそれを固辞した。
「やりがいを感じてるからこそ、全力で取り組めないのは悔しいでしょ?」
久しぶりに見せた勝気な笑顔には、遣り切れなさが滲んでいた。


そこかしこに走り書きのメモが並ぶ図面を眺めながら、一つ息を吐く。
「まあ、細かいところは逐一聞いてくれれば良いから」
「分かりました」
資料を片付ける女の手に、ふと目が向いた。
いつの間にか生じていた変化に、思わず言葉を失う。

女の勘の良さは、こんな時にも如何なく発揮される。
後藤さんは俺の顔を一瞥してから、視線を下に落として、自身の左手を数秒見つめた。
「彼とは、別れたの。今のままじゃ、結婚は無理だから」

どんな時も支え合いながら、二人で生きていく。
夢ごこちな理想から遠く離れた人生を歩む俺にとって、彼女の選択は俄かに認めがたいものだった。
愛する者が苦難の途にいる時、手を差し伸べない人間が何処にいるだろう。
当然、別れを告げられた男も、同じように憤慨にも似た感情を抱いたに違いない。
「もちろん、一緒に頑張ろうって言ってくれた。でもね・・・」
不意に潤んだ瞳は、その覚悟が女の弱さ故のものだと教えてくれた。
「自分の人生に他人を巻き込むのが、怖かったのよ」

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托生(4/6)

奇跡は、確かに起きた。
想いを確かめあい、憧れだった時間を手に入れた。
それなのに、日に日に薄れていく感触と、深くなる後悔。
本能に抗えなかった弱さが、彼を巻きこんでしまった。
独りで生きていく、その覚悟の言葉が戒めの様に頭を巡る。


開け放たれたバルコニーの掃出し窓の向こうには、見慣れない風景が広がっている。
築浅の低層マンションの一室には、家具や段ボール箱が雑然と置かれたままだ。
「この辺の荷物、開けちゃいます?」
積み上げられた箱に手を置き、彼はそう問うてくる。
「いや、とりあえず寝る場所さえ確保できれば良いかな。後は追々・・・」
「そんなこと言ってると、いつまでも片付きませんよ?」
やや呆れ気味の声を聞きながら、一先ず、煙草に火を点けた。

気分が落ち着かないのは、この部屋の混沌とした空気のせいだけでは無い。
男の手を引いたあの日から、再びその身体に触れることは無かった。
会社でも、プライベートでも、それなりに仲は深まってきていたし
気持ちが何処かで繋がっているという勝手な安心感だけで、満足だった気がする。
ただ、今まで自宅が離れていた為、互いの家に足を踏み入れたことは無く
自らのテリトリーに他でも無い彼がいる初めての緊張感が、気持ちを波立たせていた。

「新しい家は、どうですか?」
少し離れた位置に腰を下ろした後輩は、俺と同じ方向を見やりながら呟く。
「どうだろう・・・とりあえず、静かで良いな」
周りは住宅街で、駅からは割と離れた場所にあるからか
休日の昼間、聞こえてくる音は、時折通る自動車のものくらいだった。

無言の空間に押し潰されまいと、小さく深呼吸をする。
「・・・清水さん」
ぎこちない呼びかけに、一瞬の間を置いて振り返った。
躊躇いがちに伸びてきた指が、頬に触れ、唇をなぞる。
間近に迫る眼は、迷いと恐怖を見透かしていたのだろうか。
無理やり笑顔を作った彼は、そのまま、静かに唇を重ねてきた。

数回触れ合わせた唇が離れ、男の腕が俺の身体を絡みとる。
強く抱き締められる力に呼ばれるよう、その背中に手を添えた。
未経験の感情の中を模索しているのは、彼も当然、同じはずだ。
むしろ、同性を好きになったことに一番戸惑っているのは、彼自身かも知れない。
「良かった」
肩口に顔を埋めたまま、彼はそう漏らした。
俺を包む全ての感触が、幸せに思える。
それなのに、未だ燻ぶる葛藤が想いの隅に影を落とす。
こんな俺の人生に、彼を巻き込んでしまうのが、怖い。


分室での業務がやっと軌道に乗り始めた夏の初め。
人員補強でやってきた社員の歓迎会の為、久しぶりに本社がある街へ赴いた。
週末の夜ということもあり、駅前から伸びる何本かの小路は何処も人で賑わっている。
「騒がしいのも、悪くないですね」
改札を出るなり浮かれた声を上げた部下の言葉に、それとなく同意の表情を返した。
確かに、今の会社がある街は大人しすぎる。

待ち合わせ場所になっていた駅の売店傍には、見知った顔が集っていた。
「ああ、来た来た。じゃ、行きますよ~」
どうやら幹事を買ってでたらしい後藤女史は、こちらに視線を送るなり周りに呼びかける。
「変わんないですねぇ、後藤さん」
「多分定年まであのままじゃないかな」
「分室にもああいう人、欲しくないですか」
「関くんがやってくれても良いんだよ?」
軽口を叩きながら、歩き出した集団についていく。
後ろから眺めた先で目に入った男の傍には、相変わらず数人が寄合い、談笑していた。


新しく入ったのは、二人の女性オペレーター。
3ヶ月の試用期間を経て、正社員になる予定なのだという。
入社して2ヶ月近く経っているからか、既に社内の雰囲気に馴染み始めているようで
却って、分室のメンバーの方が疎外感を覚えるほどだった。

「室長、ウーロン茶と緑茶、どっちが良いですか?」
大きなペットボトルを持った後藤さんは、ご機嫌な表情で俺の向かいの席に座った。
「そういう呼び方、止めて下さい」
「良いじゃない。誰もそう呼んでくれないでしょ?」
「呼ぶなって言ってるんですよ」
差し出されたウーロン茶のペットボトルを手に取り、グラスに手酌すると
彼女は自分のグラスを俺の物に軽く打ちつけて、さっさと酒を口に運ぶ。
「気になる?」
「・・・何がですか」
この人をはぐらかしたところで何の意味も無かったが、動揺に気づかれるのも癪だった。
会が始まってから、そろそろ1時間。
何回か彼と視線が合ってはいたが、その隣にはずっと新入社員が座っている。

「重村佐紀と申します。宜しくお願いします」
大卒3年目の25歳、前職は設計事務所のCADオペレーターだったという。
一回り近く年下の女の中には、初々しさと理知的な雰囲気が微妙なバランスで同居しているように見え
直属の上司である後藤さんも、彼女の飲み込みの早さを認めているらしい。
「教育係を五十嵐くんにお願いしててね」
意味ありげな表情を浮かべながら、年上の女は言った。
「すごく親切に分かりやすく指導して頂いてるので、助かります」
はつらつとした声と明るい笑顔から、彼への想いが何となく読み取れる。
毎日連絡を取り合っている男から、彼女の話が出たことも、無かった。
「そうなんだ」
つい今し方までモヤモヤしていた心が、不思議と軽くなっていくような気がする。
きっとこれが、本来の筋書き。
やっと、心を蝕む罪悪感から解放される。

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托生(5/6)

一次会を終えても、幾つかの集団は店の前に留まっていた。
この後の店を選ぶ者、我関せずで帰途に就く者。
分室の面子も、銘々の端末で次に行く場所を探しているらしい。

「お疲れ様です」
背後から声を掛けてきたのは、五十嵐くんだった。
「二次会、行きます?」
「うん、たまには皆に付き合おうかと思ってる」
「僕、ちょっと・・・」
ふと困惑気味の表情を浮かべた彼は、遠くをしばらく見やり、こちらに向きなおす。
その視線の先には、新人の女の子が他の社員に支えられている姿があった。
「飲み過ぎたらしくて、誰か送ってやらないとって話に」
「家は近いの?」
「ウチの駅から、会社の方に2~3駅行った所だそうです」
「じゃあ、送ってあげたら。あの様子じゃ、一人だと危ないだろうし」
今の状況で出せる最適解を、彼に投げる。
それなのに、目の前の男は少し目を伏せて、口を歪ませた。
「なら、二次会の店決まったら、連絡ください。後で合流するんで」
「良いけど、俺も長居はしないと思うよ」
「・・・そうですか」
「とりあえず、明日連絡するから。気を付けて送ってあげて」

小柄な女は、まんざらでも無い表情を浮かべて男の腕に自らの腕を絡ませた。
覚束ない様子で数回会釈をしながら集団から離れていく二人の姿を
数人の社員たちが冷やかしては笑い声を上げる。
振り返った彼と目が合っても、哀しいほどに、嫉妬心は芽生えてこなかった。

「清水さん、次、どうします?」
トーンが一つ上がった関くんの声に呼ばれ、そちらへ近づく。
「何処か良いところ、あった?」
俺自身が酒を飲めないこともあり、普段、社員と親睦を図る機会を持つことは殆ど無い。
「ここなんか、どうですか」
「ああ、良さそうだね」
小さな画面に映る内容は余り頭に入ってこなかったが、了解の返事を口にする。
「たまには俺の奢りにしようかな」
「ホントですか?」
「何?清水の奢りなの?」
「分室メンバー以外は実費でお願いします」
「何だよ」

結局、後輩に連れられて行った店を出る頃には終電も無くなり
何軒かの店で時間を潰した後、空が白み始める頃に帰途に就く。
『今、家に着きました。帰り、気を付けてください』
電車の中で確認した彼からのメッセージは、彼らと別れて1時間も経たない内に届いていた。
最寄駅に向かい、彼女を駅で降ろし、自身の家まで帰るルートで想定される最短の時間。
『いろいろあって、今から帰るよ』
心変わりに安堵している後ろめたさを抱きながらも、そんな返事を送る。
『お疲れ様です。じゃあ、お昼くらいに電話します』
時間は朝の5時を回った辺り。
即座に戻ってきた言葉に、俺は何も返せなかった。


彼と過ごす休日は、これといって特別なことも無い。
駅前で待ち合わせて、昼食を取って、未だ片付けの終わらない俺の部屋でたわいも無い話をする。
夜を一緒に過ごすことは無く、身体で愛を確かめあう機会も、訪れてはいない。
平行線を辿る月日が長くなればなるほど、心苦しさは薄れていくものの
互いの想いに対する疑問符が大きくなることも、確かだった。

この日も、それは変わらなかった。
ただ、昨日の今日で彼女の話題に触れぬ訳にもいかないと、彼は思ったのだろう。
教育係になり、社内では一緒にいる時間が長いこと。
帰り際に声を掛けられ、何回かお茶の誘いに乗ったこと。
週末になると、それとなく土日の予定を探られること。
「でも、別に・・・これといったことは、本当に無くて」
もちろん、彼にだって女の意図はある程度察知できている。
だからこそ、敢えて聞いてみた。
「・・・五十嵐くんは、どうなの?」

その問は、少なからず彼を傷つけたのだと思う。
「どうって・・・どういう意味ですか」
怪訝な表情を浮かべ、僅かに語気を強めた声をぶつけてくる。
「彼女のこと、どう思ってるのかなって」
「だから、そういうんじゃ・・・」
遣る瀬無さで震える唇を目にしながら、あくまで冷静を努めた。
「悪い気しないんじゃない?彼女のこと、一回も話に出なかったよね」
「それは・・・」
男が女に惹かれる本能を、決して否定はしない。
違う色の情動が彼の中に燻ぶり始めているのなら、俺は煽る役目を果たしたい。
「君の思うようにすれば良いよ。俺に気を遣う必要、無いから」


翌週の金曜日、彼から一通のメッセージを受け取った。
人と会う用事ができたので週末は会えないかも知れない、という内容だった。
余りにも身勝手な悔恨に、これで良かったのだと言い聞かせて、必死で耐えた。
本気で好きだから、道連れにはできない。
本気で好きだから、俺と情を通じたことを、いつか、後悔して欲しくない。

□ 05_感触 □   
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托生(6/6)

誰もいない仕事場の中で、いつもより作業が捗ったような気がする。
予定していた事務作業も終わり、来週から始まる案件の予備資料まで作成できた。
一段落着いたのは、土曜日の夜9時過ぎ。
5分ほど迷いあぐねた末、今日の業務を終えることにした。

その日初めて彼からの連絡が入ったのは、電車が目的の駅に着く直前だった。
『何時でも良いので、連絡ください』
どんな顔をすれば良いのか、何を話せば良いのか。
些か身体に緊張が走ると共に、電車はホームへ滑り込んでいく。

乗降客の波が行き過ぎるのを待ち、一つ溜め息を吐いた。
視線を上げると、電車が去っていくホームのベンチに人影が見える。
楽しい時間を過ごし、帰途につくところなのだろう。
けれど、目を伏せたまま座っている姿は、少なくとも、喜びとは無縁のように思えた。


「今、帰り?」
俺の声に顔を上げた女は、少し驚いた様子で小さく頷く。
「清水、さん・・・こちらにお住まいなんですか」
「引っ越してきて、まだそんなに経ってないけど」
「そうなんですね・・・」
1メートルも開いていない二人の間に、居た堪れない空気が満ちていく。
男が出した結論は明らかだった。
ゆっくりと息を吸い込み、静かに吐き出す背中と共に、明るい髪が揺らいだ。
「・・・フラれちゃいました。やっぱり」

新たな職場で出会った翌日には、彼のことをもっと知りたいと思うようになっていた。
久しぶりに味わう、衝撃的な一目惚れ。
仕事への意欲も、褒めて貰いたい一心で湧き出した。
時折交わす雑談からは、男がそれほど恋愛沙汰に長けているようには見えない。
帰りの電車でたまたま乗り合わせたことをきっかけに、彼女は徐々に間合いを詰めていった。

ありふれた会話の中に少しずつプライベートを織り込みながら、それとなく自分の気持ちをアピールする。
逆転の可能性を見出したのは、彼からある存在について話が出た時だった。
「付き合っている人がいるんだ。でも、最近、想いが一方通行になってる気がして・・・」
上手くいかない恋愛の相談に乗ることで、二人の距離は更に縮まる。
歓迎会の帰りも、先輩の誘いを蹴って送ってくれた。
何度もお願いしていた週末の誘いにも、やっと乗ってくれた。
満を持してのデートのはずだった。

「どうしても、諦められないって。どんなにそっぽ向かれても、やっぱり好きなんだって」
想いを馳せながら空を見上げる女の顔は、何処か晴れ晴れしく見える。
「羨ましいのと同時に、そこまで想われてるのに何で冷たくするの?って、ちょっとムカついちゃいました」
明るく砕けた言葉が、心に刺さった。
邪険にしている訳じゃない、ただ、俺は。
「でも、後悔してません。五十嵐さんを好きになったこと」
「・・・どうして?」
「彼のこと考えてる時が、すごく幸せだったから。後悔なんてしたらもったいないじゃないですか」


コンビニ袋を手に自宅マンションの前に差し掛かると、植栽にもたれかかる男の姿が目に入った。
「すみません。待ちきれなくて」
いつから待っていたのだろう。
彼もまた、女と同様、浮かない表情をしている。
「ゴメン。・・・駅で、重村さんと遭って」
「そうですか・・・」
「中で、話そうか」
重苦しい雰囲気を引き摺りながら、エントランスをくぐる。
例え実らぬ恋でも、好きになったことは後悔しない。
そう思える前向きさが、羨ましかった。


「確かに、彼女に惹かれた面は、ありました」
ベッドに腰掛けた俺に、彼は立ったままで言葉を投げた。
「でも、僕はやっぱり、清水さんが好きです。それじゃ、ダメですか?」
「それは、嬉しいけど」
「気持ちが冷めました?もう、僕のこと・・・」
「好きだよ、今でも。好きだけど・・・」
見上げた先の顔を直視できたのは、一瞬だった。
「巻き込むのが怖いんだ、君を、俺の人生に」
彼には、もっと、他の道がある。
俺と一緒じゃ、一生、今と同じ場所にしかいられない。

男が近づいてくる気配を感じた直後、身体がベッドに押し倒される。
いろんな感情が綯交ぜになった顔が急に大きくなり、そのまま唇を奪われた。
二つの手に頭を抱えられたまま、吐息交じりの貪るような口づけを受け入れる。
俺の身体に馬乗りになる彼の重みが、その想いに比例するかのように感じられた。
「じゃあ・・・僕の人生に、巻き込まれてくれませんか」
僅かに離れた唇は、震えていた。
「僕は、怖くない。清水さんと、一緒なら」
二人で生きていく、その覚悟の言葉が、俺の中にある迷いと恐怖を鎮めてくれる。

答を返す間もなく、彼は再び唇を触れ合わせ、頬を愛撫する。
片手で俺の頭を支えながら、もう一方の手が静かに身体を弄っていく。
今までにない大胆な行動に抗うこともできず、軽く目を閉じて男の挙動を追いかけた。
柔らかな感触が首筋を這い、掌の熱が腰回りを撫でる。
その呼吸は時々揺らぎ、飲み込まれ、深く吐き出される。

太腿の辺りでしばらくぎこちない動きを繰り返していた指が意を決した時、無意識に手が動いた。
男は動きを止め、唇で俺の耳たぶを軽く挟み、ゆっくりと舐る。
抑えていた昂ぶりを煽られて制する力が抜けた俺の手を、彼は自らの方へ引き寄せた。
「・・・オレのも、触って」
手に押し付けられたのは、背徳感に塗れた、けれど何処かで求めていた感触。
緩やかに指を動かしていくと、気怠い溜め息が耳の中に入り込んでくる。
「良かった」
幸せそうな呟きと共に、彼は、俺の官能を撫で上げた。


昨晩降った雨のお陰で、今朝は幾分暑さが和らいだ。
窓から見下ろす街並みは、朝日を受けて眩しい位に輝いている。
開け放った窓から入ってくる風が、寝ぼけた身体の熱を冷ましていく。
彼がベッドの上で寝返りをうったタイミングを見計らって、空いたスペースに浅く座り
煙草に火を点けてから、テーブルの上に置いておいた眼鏡を手に取った。
靄を追いかけて部屋の中を見回すと、やっと片付けが終わったというのに、既に物が少し増えた気がする。
チラホラと自分のでは無い物が目に入る度、陣地を侵されたような感じがして
けれどそれは、ここが、二人の空間になったのだという証しでもあるのだろう。

背中に他人の掌の感触が広がる。
振り向くと、未だ夢うつつの顔がこちらを見上げていた。
短い挨拶の後、軽く唇を触れ合わせると、彼は小さく微笑む。
こんな一瞬一瞬が少しずつ積み重なって俺の人生ができていく、そう思うだけで
身を寄せ合って生きることの幸せを、噛み締めることができた。

□ 05_感触 □   
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□ 99_托生 □
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まべちがわ

Author:まべちがわ
妄想力を高める為、日々精進。
閲覧して頂いた全ての皆様に、感謝を。

2011-3-12
東日本大震災の被害に遭われた方に
心よりお見舞いを申し上げます。
故郷の復興の為に、僅かばかりにでも
尽力出来ればと思っております。

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